10 ミリー
個展の反響はまずまずだった。図書館にきた人がついでに見ていくという感じではあっ たが、ジェシカは満足していた。初めての個展らしい。「これからよ」と意気込んでいた。 並べられた作品は異次元の集会、芸術性はわからないが面白く子供には結構受けていた。 個展の興奮もおさまりひと段落ついたと思ったら、ジェシカに思わぬ仕事が舞い込んだ。 「それがわたしの本意とする仕事ではないんだけどお金になるから。この際贅沢は言えな いわ」 それは人間の胸像の制作で、もとなる人間に忠実に作って欲しいということらしい。 「だけどね、そのもとなる人間というのがもういないのよ。頼りになる資料はピンボケの 写真だけ」 「見せて」 ジェシカから渡されたものは色の変わってしまった古い写真、図書館の前で撮られた集 合写真だった。 「この人よ」ジェシカはそう言うと後ろの端で不機嫌そうな顔をした女性を指した。まる で前に立っている女性を睨みつけているようだった。 「ええっ!」 「知ってるの?」 「いや……、どうかな?……もしかしたら会ったことあるかもしれない。僕はその頃ここ に住んでいたから」 なんとか言い繕ったが、驚きは隠せなかった。それはミリーだった。 「もしかして……その依頼人というのは小学校のマシュー先生?」 「そうよ。なんでわかったの?」 「いや……、マシュー先生はよく知っている」アスターはうやむやとごまかした。 「なんか隠してない? さっきからおかしいわよ」 「どういう関係か訊いた?」 「昔、大好きだった人らしい。でもそのことを告白する前に不慮の事故でなくなったらし いわ。今でも忘れられないでいるのね。ロマンチックだわ」ジェシカはうっとりして言う。 「でもこの写真で忠実な胸像を作れというのは、カエルに後ろに飛べって言うようなもん だわ」 「君には想像力があるんだろ?」 「人の話を聞いていなかったの?」ジェシカはアスターに指を突きつけて言った。「忠実 に!」
家に帰ると誰もいない。ミリーを大声で呼んでみた。 しばらくすると、フィンが現れた。『ミリーは今、野暮用。どうかしたの?』 「ねえ、ミリーのことなにか知ってる?」 フィンは綺麗にカーブを描く眉を上げた。『それはね、個人的な問題だからわたしの口 からは言えない』 「ということは知ってるんだ」アスターは目を細めた。「いやね、ジェシカがマシュー先 生からミリーの胸像を作って欲しいと頼まれたんだ」 『まあ!』フィンは頬に両手をそえて、魅力的な口で完璧な驚いた形を作った。『急いで ミリーを呼んでこなきゃ』そう言うと乱暴にボンと音をたてて消えた。 やがてミリーだけでなくフィンはもとよりドンやデイジーおばさんまで集まってきた。 『どうしたんだい?』ドンはなに気ないふうを装っているが、興味津々なのは目をつぶっ ていてもわかった。 アスターは脇役を無視し、ミリーと話すことにした。 だんだんわかってきたのだが幽霊たちはいまひとつ現実味に乏しい。物事をすべて面白 くしようとしているようだ。アスターは生身の人間だから、買い物しているときや、人ご みの中にいるときに突然現れて話しかけられるととても困る。その話の内容もどうでもい い話、くだらない話ばかりだった。うっかりその話に返事をして何度、まわりの人から変 な目で見られたことか。おまけにアスターはさわるまで相手が生きているか死んでいるか わからなかった。さわってみて手が身体を突き抜ければ幽霊ということになる。この場合 もほかの人間にとってその行動がかなり怪しいのであまりしたくない。 なんとか早急に見分ける方法を見つけねばと思ってはいるのだがまだわからない。アス ター自身は幽霊にすっかり慣れきっていた。 「ミリーとマシュー先生は昔つきあっていたの?」 ミリーは顔を真っ赤にしてうつむいた。『いえ、そうじゃないんだけど……』 『はっきり言いなさいよ』フィンがしびれを切らしたように言う。『ミリーはマシュー先 生のことが好きだったの。でも思いを伝える前に事故で死んじゃったのよ』 『片思いだと思っていた。マシュー先生は今、受付にいるあの綺麗な人を好きだと思って いた』 「でも、彼女は結婚しているんでしょ」アスターは本を受け取るとき指に結婚指輪がはま っているのを見た。 『だから、マシュー先生は結婚しないと思っていたのよ。彼女のことがあきらめきれない んだと……』 ミリーはすっかり戸惑っていた。 『わたしは地味だし色気もないし、これといった取柄もない目立たない人間だったから誰 にも相手にされなかった。今と同じ幽霊みたいな存在だった。だけど、マシュー先生はな ぜかわたしによく話しかけてくれた。とても優しい人だったから。ある日お茶に誘われた の。その日わたしは図書館の古い大事な本を落としてばらばらにしてしまい、こっぴどく しかられてとても落ち込んでいたの。それを見ていたマシュー先生がなぐさめてくれよう としたのよ。それだけでわたしは自分の失敗のことなんてすっかり忘れて天にも登る気持 ちになった。待ち合わせの時間がくると、わき目も振らず飛ぶように走って行った。そし て車にはねられた。気がついたらわたしは待ち合わせの店でマシュー先生の前に座ってい た。だけど先生はわたしがいくら話しかけても聞こえない。時計ばかり見ている。思わず その手をつかんだらとおり抜けちゃった。そのうちおもてのほうが大騒ぎになって、みん なが集まりだした。わたしも先生について出て行った。そして私自身とご対面、あまりの 出来事だったからなに感じなかった。ただ死んでも不細工だった』ミリーは淡々と話した。 『あんたは不細工じゃないわ。努力しないだけよ』フィンが鼻を鳴らす。 『ああ、せめてマシュー先生と会ったあとだったらよかったのに! それがすごく悔しい の』 「先生は君のことが好きだったんだね」アスターが言った。 『まさかそんなことだとは思いもしなかった』 『あんたが鈍いからよ。その自信なさにはまったくいらいらするわ』フィンは容赦ない。 『あんたみたいに色気お化けになにがわかるの。ちょっとばかりきれいだからってみんな にちやほやされていい気になって』 『わかってないわね。わたしだって努力していたのよ。太らないように食べたい物も我慢 して、肌の手入れも怠らず、化粧のしかたも立ち振る舞いもすべてとても研究したんだか ら。あんたみたいになにせずにのほほんとしているくせに文句ばかり言う奴に我慢がなら ないのよ!』 あまりの剣幕にデイジーおばさんでさえたじろいでいる。 『まあ、まあ。落着くんだ、ミリーもフィンも。もうすんだことだ。今、生きていたとき のことを悔やんだってしかたがない』ドンがなだめた。 『なに言ってるの、わたしたちはみんな悔やんでいるからこそ、ここにいるんじゃない』 フィンが言う。 『それもそうだが、終わったことはもう変えようがない。だが、やり残したことや後悔し たことをどうにかすることはできるんじゃないかな? そのためにこの坊やがきたような 気がする』ドンの言葉にみんなの視線が一斉にアスターに集まった。 アスターは強い寒気を感じた。「デイジーおばさんまでやめてよ。僕になにかを期待す るなんてよしてよ。僕は君たちが見えるというだけで、ほかには何の取柄のない平凡な人 間だ」 『わたしは弱気な人間や、自分を馬鹿だと言う人間が大嫌いだわ』フィンが鼻にしわを寄 せた。 「なに僕は自分が馬鹿だとは言っていない!」 『同じことよ』 『まあ、どちらでもいいけどミリーの胸像はというのは面白いわね』デイジーおばさんが あっさりと話をさえぎった。 アスターはこの助け舟に飛び乗った。 「だけどジェシカの渡された写真というのがひどいんだ。ピンボケだしミリーの表情とき たら……」 『そんな!! もしかしてあの集合写真?』ミリーは呻いた。『でもわたしは写真を獲ら れるのが嫌いだったからあれがいちばんまともなほう……』 『そんなにひどいのか?』ドンがアスターに訊いた。 アスターは肩をすくめた。 『そいつはどうにかしないとな。ミリーがかわいそうだ』ドンが眉をひそめた。 それからみんなで頭を寄せて考えた。 そして……さまよえる芸術家の幽霊をさがしだし、ジェシカに憑依させ、現存するミリ ーをモデルに胸像を作らせることにした。この解決法にたどり着いたときにはもう朝にな っていた。みんなが早速、芸術家 ――ネリーが腕のいい人ではないといやだと言い張っ た―― をさがしに散らばったとき、アスターはもうフラフラだった。人間は絶対不利だ。 生身の身体は疲れる。幽霊を敵にまわすのは考えたほうがいいな。ベッドの中でぼんやり 思った。
芸術家は意外に簡単に見つかった。現世に心を残しやすい職業らしい。フィンが見つけ てきただけあって若くてハンサムだったが、絶えずおだてていないとすぐへそを曲げる。 気難しい奴だった。 ミリーを紹介するとあからさまにがっかりした顔をした。どうやらフィンがモデルと勘 違いしていたようだ。 『なんであんな奴を連れてきたの! 最低の男だわ』ミリーは頭から本当に湯気を上げて いた。幽霊ならではの技らしい。 『落着いて、ミリー。確かに嫌な奴だけど彫刻家としては最高なのよ。あんただっていい ものを作りたいんでしょ。あいつの機嫌はわたしが取るからまかせてちょうだい』 フィンがなだめた。なんだかんだいってもフィンはミリーをほっとけない。 『それに、その姿はいただけないわね、野暮ったい。そこのところもわたしにまかせるの よ』有無を言わせぬ調子でミリーが口をはさむことを許さなかった。 フィンはミリーを引っ張っていくとどこかへ消えた。しばらくして戻ったミリーは見違 えるように上品で清楚なレディになっていた。今まで無造作に結んでいた髪をたらし、白 く幅の広いレースの襟がついたグレーのワンピースを着て薄く化粧をしている。ほんのり と赤い口紅がくすんでいた顔色を別人のように明るくしていた。 『まったくもう、やってられないわ。もっと綺麗に飾り立てたいのにこれ以上は嫌だって 言うの』 『わたしはこれで十分よ。これ以上やったら誰かわからなくなってしまう』 『まあ、確かにね。だけどあんたはもっと綺麗になれるのにもったいないわ』 『ありがとう』ミリーは照れたように笑った。 準備は整った。 アスターはジェシカの仕事の進み具合を見張っていた。まだ粘土で基礎となる像を作っ ているところ。完成品は胸のふくらみの途中までのブロンズ像になるそうだ。 「なぜ、全身像じゃないの?」アスターは仕事の邪魔をするために足繁く通った。 「マシュー先生の予算の関係」 「いっそのこと、色を塗って本物らしくしたほうがいいんじゃない?」 「気持ち悪い。蝋人形でもあるまいし」 「等身大?」 「その予定だけど実際の大きさがわからないのよね」 「ねえ、なんだか人間離れしていくみたいなんだけど……」 ピンボケの写真をたよりに作る胸像はジェシカの想像力がたくさん入っていく。 「もうごちゃごちゃと横でうるさいわね! 集中できない! わたしの仕事は繊細なのよ」 ジェシカはとうとう癇癪を起こして、アスターがいれておいたコーヒーをカップにそそ ぐと裏口から庭に出て行った。 「やれやれ、嫌な役回りだ」アスターは肩を落とした。でも、ジェシカはアスターが毎日 くることをとめたりはしない。これはいいことなのでは? アスターが奇妙になっていく胸像の前で考えていると、いきなりミリーとフィンと彫刻 家が現れた。 『作戦開始』フィンが楽しげに宣誓した。 「どうやるの?」アスターが訊いた。 『あんたは今からジェシカの邪魔をしないこと。ジェシカが集中したら憑依するの』 『いやはや、ひどい出来だねえ』彫刻家は馬鹿にした目で胸像を見ている。 『あなたの手にかかればこれも素晴らしい芸術品になるわ』フィンは彫刻家になまめかし い声をかけた。 『もちろんだ』芸術家はまんざらでもない顔をしている。 『さあ、ジェシカが戻ってくるわ。アスターは口を開かないのよ』 ジェシカは作業台の前に座った。アスターは自分のためにコーヒーをそそぐと少し離れ て座ることにした。 チラッと見るジェシカに口にチャックを閉める動作をしてアスターは黙った。いぶがし がる表情をしたもののジェシカはしだいに作業にのめり込んでいった。 『さあ、今よ!』フィンが声をかけると彫刻家はゆっくりとジェシカに重なった。一瞬、 ジェシカの目が焦点を失い、手が止まったが、軽く頭を振って仕事を続けた。 普通の人にはジェシカは黙々とひとりで仕事をしているように見えるだろうが、アスタ ーにはふたりの重なった姿が微妙にずれて見える。そういえば町の学校でアスターはネリ ーと重なったが、彼女の家族はちょうどこんなふうにアスターとネリーを見ていたのだろ う。しかし見てた家族は普通の人間だ。なぜふたりが見えたんだ? これについては後に ドンが教えてくれた。憑依した相手が特異体質人間、アスターだからこそのことらしい。 つまりアスターにとりつけば、死者と生者がじかに言葉をかわせるということだ。この情 報がアスターを楽しませることはなかった。人に知られないようにししなくては。そんな 役を引き受けるつもりはさらさらない。 ミリーはアスターが引き寄せた椅子に微動だにせず座っている。もちろん息もしていな い。完璧なモデルだ。 あたりが薄暗くなりはじめた頃『今日はここまで』アスターの横に座っていたフィンが 言った。 『久しぶりに仕事をしたよ。疲れたような気がする』彫刻家がジェシカの両手を上にあげ、 伸びをしながら言うと、『わたしも身体がこわばったような気がする』ミリーが同じよう に伸びをしながら言った。 「なんだい。その『気がする』っていうのは?」アスターは気になった。 『わたしたちは生きていた頃の感覚を引きずっているのよ。だから本当はのところどうな のかいまひとつわからないの。彼はやろうと思えば何年でもぶっ続けで仕事ができる。で もジェシカはそういうわけにはいかない。憑依された人間は少しずつ生気を吸い取られて いき、最後には乗っ取られる』 『こんなに充実していたのは何年ぶりだろう? このままずっとこの中にいてもいいくら い……』 と、睨みつけるアスターに気がついた彫刻家はあわててつけたした。『だけど、どうせな らもっといい身体にする』 ジェシカのどこに不満があるんだと、文句を言おうとしたときミリーに先を越された。 『馬鹿なことを言うんじゃないのよ。常識を疑うわ』 『わかってるさ、言ってみただけ。それぐらいならいいだろ。いかし死んでからまで常識 だのなんだの時々あほらしくならないか?』 『モラルの問題』突然ドンが現れた。『さっさとジェシカを解放してあげないとかわいそ うじゃないか』 ふたりを残して幽霊たちは消えていった。彫刻家が抜け出したジェシカは夢から覚めた みたいにボーっとしていた。 「どうしたの、くたびれたんじゃない」アスターはジェシカの顔の前で手を振った。 ジェシカは頭を激しく振ると「コーヒー……」情けない声を出した。この数時間でげっ そりやつれ果てていた。アスターが渡したコーヒーをひと口飲んで自分の仕事に目を見張 った。 「これ、わたしが作ったの?」 「憶えていないの? 無理もないな。君はすごい集中力で仕事をしていたよ。僕が途中何 度も話しかけたのに気がつかなかっただろ?」 「ええ……そうね……。確かに作ったような気がする」そういうと作りかけの胸像をしげ しげと眺めた。 「でも写真と髪型と洋服が違うわ。なんでわたしはこんなふうにしたんだろう?」
ジェシカがもう仕事はしないで休むと言うのでアスターは家に帰った。 家で食事をしながらデイジーおばさんに今日の出来事を話していると、ドンが現れた。 『届けてきたよ』夕食を作る気力もないだろうと心配したドンは、デイジーおばさんの作 った食事をお盆に乗せてジェシカの台所に置きに行っていた。アスターにはそこまで気が わからなかったがジェシカはアスターが持ってきたと思うだろう。この得点はアスターの ものになる。役得だ。 「さっき言ってたモラルって何の話?」アスターはドンに訊いた。 『ああ、わたしたち幽霊にも一応、暗黙のルールと言うのがある。意味もなく人間にかか わらない、恐がらせない、ましてやとりついて相手を乗っ取るなんてもってのほか。わた したちは悪霊ではない。それにほとんどの幽霊は善良なんだ』 「善良ね。僕は君たちにすっかり振り回されている」 『そうぼやくな。退屈しないだろ?』
彫刻家は嫌な奴だったが腕はよかった。仕事に熱中するあまり時間を忘れてしまうので、 生気を吸い取られているジェシカはどんどんやつれていった。それでも自分が作っている と思っている胸像に驚いていた。 「わたしってすごい! まるでなにかがとりついた見たい」――あたっている。 とうとう完成した胸像を前にしてジェシカはひとり悦に入っていた。横でアスターも複 雑な思いで立っていた。そして胸像の周りには完成を喜ぶ幽霊たちが冷たい熱気を上げて いる。 『すごいわ、さすがね。あなたは最高の芸術家だわ』フィンが彫刻家をほめたたえた。 彫刻家は鼻高々だった。『当然さ。モデルが違ってたらもっと素晴らしいものになった のに』 ミリーが鼻を鳴らした。『悪かったわね。でも本当に素敵。わたしじゃないみたい』 『そんなことはない。これは君に生き写しだよ。もっと自信を持ってごらん』ドンが優し く言った。
マシュー先生の家は小学校の近くにある。学校が休みの日曜日に胸像を運ぶため、アス ターは雑貨屋からまたトラックを借りてきた。 「あなたがいてくれて本当に助かるわ」ジェシカの言葉にアスターはときめいた。 マシュー先生は胸像が完成するまでは見ないと言って、一度もジェシカのところにこな かった。マシュー先生の家の呼び鈴を鳴らすと待ちかねていたように先生が出てきた。 「さあさあ、入って。こちらにきてくれ。ちゃんと置く場所は決めてあるんだ」そう言っ てふたりを案内した。明るくて、居心地のいい居間の大きな出窓に敷物が用意してあった。 真っ白なレースのカーテンがとてもお洒落な雰囲気をかもしだしている。居間に座りなが ら思わず目をむけて眺めたくなるような場所だった。 「ここに置いてくれ」 アスターは包んでいた毛布をはがすとそっとミリーの胸像を置いた。 「なんと! 彼女に生き写しだ」マシュー先生は息を飲んだ。 その横でミリーがドンに抱きかかえられるようにして滝のような涙を流していた。フィ ンももらい泣きをしていたが化粧が落ちないように涙をこぼさなかった。 「ちょっと、早くおいでよ!」マシュー先生が奥に向かって叫んだ。 「ちょっと待って。すぐ行くわ」聞いたことのある女性の声がする。 現れたのは図書館のカウンターにいた女性だった。アスターとジェシカのにお茶の用意 をしていたのだった。 『なんなの!なんでこの女がいるのよ!』ミリーが叫んだ。さっきまでの涙が嘘のように あとかたもない。 『まあ、まあ、落着いて。様子を見ようじゃないか』ドンがなだめた。フィンは気に入ら ないといった表情で眉をひそめている 「見てごらん。ミリーにそっくりだろう」マシュー先生がカウンターの女性に言った。 彼女は「ええ……そうね……。よく似てるわ、たぶん、本当によくできてるわ」よくと いう部分が妙に強調されていた。 胸像の前で仲睦まじげに話し合うふたりを見ていると『ふたりの関係を訊くのよ』フィ ンがアスターの耳元で囁く。 「おほん、えっと……マシュー先生。この方は?」アスターは遠慮がちに訊いてみた。 「ああ、すまないね。紹介するのを忘れていたよ。君の知っているとおりこの人は図書館 で働いている人だ。名前はベス。わたしの婚約者だ」 「ええっ!」アスターは幽霊ともども驚いた。「でもこの人は結婚しているんでしょ。指 輪をしている」 「そんなに驚くことないだろう」マシュー先生はたじろいだ。「ベスのご主人は病気で亡 くなった。この人は未亡人なんだ」 「でも先生はミリー……この胸像の女性が好きだったんじゃないんですか?」 「そうだよ。だけど彼女はもういない」寂しげに微笑んだ。 ベスの用意してくれたお茶を飲みながらアスターとジェシカはマシュー先生の話を聞い た。 ミリーがまだ生きていた頃、マシュー先生はひそかにミリーのことを思っていた。マシ ュー先生の背はミリーより頭半分くらい低く、小太りで髪の毛も薄く分厚いメガネをかけ ている。つまり決してもてるタイプではない。マシュー先生が図書館に行くといつもミリ ーがさりげなくそばで仕事をしている。 話しかけてみると、恥ずかしそうに小さい声で答える。とても慎み深くかわいらしかった。 それでも自信がない先生は、カウンターにいたベスにそれとなくミリーのことを尋ねるよ うになった。その頃ベスのご主人もまだ生きていた。ベスによると先生がくるといつも裏 で仕事をしているミリーも表に出てくるらしい。もしかして……マシュー先生は思った。 そして失敗して落ち込むミリーを見たとき意を決して告白することにした。 「なのに、あんなことになってしまった。わたしはもう立ち直れないかと思ったが、ここ にいるベスがいろいろとなぐさめてくれた。ちょうどその頃この人のご主人も病気でもう 助からないと言われていることがわかりお互いに支えあって乗り越えることができた」そ う言うと微笑んで横に座るベスの手を優しく握った。 「わたしたちはそれぞれの相手を忘れたわけではない。思い出を大切にするためにそれぞ れの記念品を置くことにしたんだ。だけどミリーのものはあの写真しかない。あれではあ んまりだ。だから図書館でたまたま君の展覧会を見て思いついたんだ。胸像をつくことを ね。君はまったく天才だ」 褒められたジェシカはまんざらでもなさそうで、ちょっと赤くなっている。 長椅子に座って幸せそうなふたりの話を聞いている間、ミリーはアスターの横で肩を落 として下をむいている。そのミリーを抱えるようにしてフィンは座っている。 頃合をみはからい、帰ろうとするふたりにマシュー先生は照れるように言った。 「ぜひ、わたしたちの結婚式に出て欲しい。親しい友人だけのささやかなものなんだけど」 ふたりは喜んでと言って、マシュー先生の家を後にした。 ジェシカを家に送り、雑貨屋にトラックを返しアスターは歩きだした。するとそれまで どこかに消えていたドンとミリーとフィンが現れ一緒に歩きだした。 『ねえ、あの話をどう思う? わたしならぞっとしないわ。死んだ恋人の胸像を置いて一 緒に暮らすなんて』フィンが言う。 『恋人ではなかった』ミリーがボソッと言った。 『まあ、人それぞれということだ。大事なのはミリーが今でも大切に思われているという ことだ。それにベスのご主人は見かけないから満足して逝ったということだろう』ドンが ミリーを気遣いながら言った。下をむいてとぼとぼ歩いていたミリーはなに言わずに消え ていった。 「ミリーは逝ってしまうのかな?」アスターはドンに訊いてみた。 『どうかな? マシュー先生の気持ちがわかってミリーがここに残っていた理由がなくな った。でも満足はしていないだろうなあ』ドンは考えながら言った。 『あーあ、ショックよねぇ。でも生きた人間にはかなわないわ』フィンは手を広げて空を 見上げた。『あんなことなら、あの胸像はジェシカ自身に作ってもらえばよかった』 ひとりでしゃべりながら歩くアスターをすれ違う人々が変な目で見ていたことに話しに 夢中なアスターは気がつかなかった。
それからしばらくアスターはミリーを見なかった。フィンに訊いてみるとマシュー先生 の家にいりびたっているらしい。今までは慎み深く遠慮していたのに、ここにきてそんな ことはいっていられなくなったということだった。なんでもミリーの胸像のまわりにはベ スの前のご主人との結婚指輪や写真、思い出の品々が飾られにぎやかになっているらしい。 アスターがジェシカのところに行こうとしているとミリーが突然現れた。 「やあ、ミリー。君は大丈夫かい?」 『ええ、心配させちゃったわね』ミリーは以前のさえない姿に戻っていた。そのほうが落 着くらしい。 「君は……その……逝っちゃうの?」 『いいえ、まだ逝かないわ。あの女が本当にマシュー先生を幸せにするのか見届けること にしたの。あの女は……』ミリーは腹をたてていた。 なんでもマシュー先生がいないとき、胸像の前に立ったベスが『想い出は美化される』 とぼそりとつぶやいたというのだ。 生きている人間にはかわなわない。ミリーにはかわいそうだがしかたがないことだ。そ れでもマシュー先生の幸せを願っているミリーはいじらしかった。
ジェシカはあれから気が抜けたようにボーっとしている。憑依されていたせいでなくし た体力も目のしたのくまもすっかりなくなったが、頭がまだはっきりしないようだ。 「なんだか不思議な感じだった。まるでわたしがわたしでないみたいな。自分は本当はす ごい芸術家なのだと思った。なのにあの胸像が出き上がったとたんもとのわたしに戻った みたい。そりゃ、わたしに才能がないとは思わないけど……でも違うのよ、あれは」 しばらくなにする気が起こらないと言うジェシカにつきあってアスターは散歩したり、 ボートに乗ったり、食事をしたり、それはまるで恋人たちのデートのようだった。 「なんだかいつも一緒にいるわね」ジェシカが笑いながら言った。 「ああ、僕は失業中で暇なんだ。君のおかげで気が紛れて助かる」 「ふふん。でもどうするの?ずっとこのままというわけにはいかないんでしょう。それと もあなたはお金持ちのお坊ちゃんなの?」 「とんでもない。ただ、自分自身の持つ能力を見つめているところだよ」まんざらうそで はない。 「で、どんな能力なの?」 「それは言えない。自分でもわからない。なんかの役に立つのかどうか、いや、まったく、 なんなんだろう」 「変な人ね。よくわからないけどあなたはいい人だわ」ジェシカは深く追求しなかった。 「それにわたしも家族から変人扱いなのよ。芸術家気取りで変な物ばかり作っているって ね。まあ、わからない気がしないでもないけど。でも、いいところはね、少しばかりおか しくたってあの子ならって誰にもなに言われないこと。これは結構、役に立つのよ」ジェ シカはあっけらかんと笑った。 「さて、そろそろ家に帰るわ。この頃、創作意欲が戻ってきたの」 あれからジェシカはブツブツ言いながら相変わらずわけのわからない物を作っては壊し ている。思うようにいかなくていらいらする様子が手に取るようにわかる。それでも芸術 や美的感覚にうといアスターにでも作品が以前に比べて格段、リアルで繊細で大胆になっ ているのがわかる。あの出来事はジェシカにとって決して悪いことではなかった。
アスターは久しぶりにデイジーおばさんとふたりだけで静かな夜を過ごしていた。デイ ジーおばさんは幽霊たちに慕われるようで遊びにくるお客も多い。面倒見のよいおばさん であることは昔から変わりない。この間も雑貨屋のおばあさんのところで見た女の子が台 所でホットチョコレートを飲んでいた。幽霊たちは味も香りもわからないはずなのに以前 の習慣を好む。 『アスター。あなたジェシカとつきあっているの?』デイジーおばさんがいきなり訊いて きた。 アスターは口につけたお茶をこぼしそうになった。「突然何を言い出すの」 『だって、いつも一緒にいるじゃない。ジェシカはいい子だわ。そうちょっと変わったと ころがあるけれど。でもあなたにはちょうどいいかもしれないわね……』最後のほうは自 分自身に話しかけている。 「僕はこういうことには慎重なんだ。今までうまくいったことがない。でも、待てよ。こ こには兄さんがいない。ということは邪魔をする奴がいないんだ」アスターはあごに手を あて考えながら言った。 『ねえ、たまには家に帰ったら?』デイジーが突然話を変えた。『ちゃんと連絡は取って いるの?』 「みんな元気だよ」 家族からくる手紙によると、父親の店は大繁盛で今では人を雇い規模を広げているらし い。グレートローズは部屋にこもり、まるで人生をまとめようかとするようにご先祖様の ことを調べているとのことだ。アスターはこれにはちょっと興味がわく。エルダーは相変 わらずではあるがどうやらなんかにいきづまっているらしい。これは意外だ。なんにでも そつがないエルダーに限って仕事に失敗はありえない。ということは女性問題か?これに はアスターはざまあみろと思うだけで同情はしなかった。母親はますます顔色がよくなり 肌もつやつやしているらしい。ただ、どこか遠くを見つめボーっとしていることがふえた ということだ。やはりデイジーおばさんやアスターのことが心配なのだろう。 アスターももちろん手紙を出している。その内容はあたり障りのないもので幽霊たちの ことは、デイジーおばさんのことも含めて書かなかった。デイジーおばさんのことは知ら せるべきなんだろうが、おばさんから今はまだ知らせないで欲しいと言われている。中途 半端な今の状況で、みんなを心配させたくないそうだ。町の家族はおばさんの安否さえわ からずやきもきしているのだから、アスターとしてはとてもやましい思いなのだけど、ど うせ死んでいるんだからいつ知らせても同じだとおばさんは言う。 『それにもう気づいているわ』こともなげにデイジーおばさんは言う。『ヴィオラは勘が いいから』 アスターは眉を上げたが、確かに母親にはどこかほかの人とは違う感覚を持っていた。 「一度帰ってみようかな」アスターは懐かしくなってきた。
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