12 奇妙な店の男
アスターは屋敷にいてもこれといってすることもなかった。父親の店を手伝おうとした が返って邪魔になる始末だ。しかたなく散歩でもしようかと外へ出るとさらにひと回り大 きくなっている学校長の息子に会った。 「やあ、久しぶりですな」あからさまに嫌な顔をされたがアスターがまた村に戻ることが わかるととたんに愛想がよくなった。「君のところのパンは絶品ですな、まったく」そう 言って大きな身体をゆすって店の中に消えた。 嫌な奴だがお得意様だ。どんどん太っちまえ! 心の中で毒づきながらどこに行こうか と考えたが、これといって思いつくところがなく、足のむくまま気のむくまま進むことに した。だが、いくらも歩かないうちに横に止まった車に呼び止められた。 「久しぶりだね」 誰もがよだれ涎を流しそうな最新型の銀色に輝くスポーツカーだ。アスターには親しい 金持ちの知り合いはいない。怪訝な顔をしながら運転席に座る男を見て、驚きのあまり声 を失った。 「やあ、そこまで感激してくれるなんてうれしいなあ」男は満面の笑顔を浮かべた。 波打ったつややかな黒髪、きりりとしたやはり黒い眉、そして漆黒の瞳、ただ、肌の色 が描かれていたより浅黒く、片耳に前にはなかった金のリングのピアスをつけている。 それはあの奇妙な店の壁に掛かっていた、自称、店主の自画像、その本人そのものだっ た。 「ちょっとつきあってくれないか? 大事な話があるんだ」そう行って隣をの席をあごで しゃくった。 アスターの意に反して身体は勝手に助手席にまわり座った。 「どこかゆっくり話ができるところに行こう」男が言う。 アスターは父親の店をちらりと見た。「できるだけ離れたところがいい」それだけをや っとのことで言った。 銀色のスポーツカーはすごい勢いで発進すると弾丸のように走った。周りの景色が飛ぶ ように過ぎていく。ひやひやしながら縮こまっているアスターを、男は横目で面白そうに 見ている。前をむけ! アスターは心の中で叫んだ。 「心配するな。僕を信じろ」 着いたところは見知らぬ町の居酒屋、薄暗いが静かで落着いた店だった。昼間だという のにそこそこに客がいる。男はカウンターを通り過ぎ、奥まったところにあるテーブルを 選んだ。 「なんにする? ここは昼間ならお茶が飲める」 アスターはコーヒーを頼み、男はジャスミンティーを頼んだ。 あらためてアスターは男をゆっくり見た。最新流行のスーツを着て磨き上げられた傷ひ とつないぴかぴかの革靴を履き、とても洗練された洒落男だったが、不釣合いに異国を思 わせる濃厚で不思議な匂いがかすかにした。大きな水晶のついた指輪を長く蜘蛛のような 指にはめ、綺麗に手入れをされた手で優雅にカップを持っている。アスターが幽霊を見て いるに違いないと思ったのを見透かしたように男は言う。 「いや、僕は死んではいない。本来の姿に戻ったんだ」男は微笑んだ。
あの奇妙な店の年老いた店主だった男は覚悟を決めてご主人様の使いと一緒に地の果て にある国へと旅立った。ご先祖様の過ちのせいで身に憶えのない自分が罰を受けるのは不 本意であったが、虚しい人生にいい加減うんざりしており、どうにでもなれという気持ち になっていた。 ところがご主人様は罰するためにさがしていたのではなく、自分の過ちを詫びるために さがしていたと言う。事実は男が聞いていた話とはずいぶん違っていた。 なんでもご先祖様は、ご主人様の大事な宝物が入った倉庫の管理人で、それはとても重 要な仕事であり責任の重いものだった。その宝物というのはこの世の『摩訶不思議』とい うもので、世界中から集められた『摩訶不思議』を管理人が分類し、仕分けし、保管する。 重たい倉庫の扉に厳重に掛けられた鍵を開けるのは、ご主人様から言い付かったときだけ で、それ以外にはなにがあっても決して開けてはならぬときつく言われていた。倉庫とい えどもとてつもなく大きな御殿ようなものであり、その中は数え切れないくらいの無数の 部屋がある。そしてひとつひとつの部屋ごとにきちんと分類された品々が収められ、管理 人はそれらのすべての物がどこにあるか、なにに使うかを把握していた。 ある日、管理人がご主人様に頼まれた物を出すために重たい扉を開けたとき、美しい蜘 蛛が背中にはりついていることに気がつかないまま中に入った。 ご主人様は時折、自ら倉庫の中を確認する。ご主人様は倉庫の中にある物を塩のひと粒 ほどに小さな物まですべて把握している。そして美しいクリスタルに入った薬が一滴なく なっているのに気がついた。それは媚薬だった。 ろくに話も聞かずに、ご主人様は管理人が盗ったものと思い込み激しく怒りあげた。だ が、しばらくして自分の后が異様に熱く、なまめかしく、色気を出しているのに気がつい た。そしてそれは自分にむけられたものではない。后をきつく問いただすと、媚薬を盗ん だことを白状した。 后はある若く美しい青年に恋をしたが、青年にはすでに好きな娘がいて相手にされなか った。つまり后は青年のタイプではなかった。だけど、プライドが誰よりも高く、気が強 い后は意地でも青年を振り向かせなければ気がおさまらない。そこで、一計を案じて蜘蛛 になって倉庫番と一緒に中に入り盗んだ。一滴ぐらいならわからないだろうと思って。 ご主人様は勝手に盗んだことを怒って、后に罰を与えた。
「ちょっと待って」アスターは口をはさんだ。「盗んだことを怒ったの?浮気したことで はなく」 「まあ、そのへんはここいらと考え方が違うんだ」男はこともなげに言う。
青年は妖艶な美女である后と媚薬によって恋に落ちたため、好きな娘のことは目に入ら なくなり、娘はさっさとほかの男と結婚してしまった。ご主人様は后が青年の人生を台無 しにしたのだから、その罪を償うように、青年が一生を終わるまで添い遂げさせることに した。まあ、少しは嫉妬もあったかもしれない。ご主人様の命令にはたとえお后様でも逆 らえない。 お后様はしかたなく青年とともに年を取り、ちゃんと最期まで看取った。青年は最後まで 幸せだったそうだよ。そうすることも条件のひとつだったから。 管理人はご主人様が自分を信じなかったことに激しく腹をたてていた。ご主人様と管理 人は、ご主人様とお后様より長い付合いだった。 管理人はご主人様が用事で遠くに出かけた隙に、倉庫の物を適当にみつくろって勝手に 頂戴すると、なに言わずに仕事をやめた。 そしてご主人様に見つからないように気配を隠して家を持った。ご先祖様はとても長い 間、休みもせずにご主人様のために働いていたから、のんびりした新しい生活を楽しんで いたよ。限られた短い人生だけどね。そして、貴重な品々を代々、子孫に引き継いでいっ た。ご主人様はその気になれば恐ろしく無慈悲になれる。血も凍るくらいに。だから最初 のうちは罰が恐くて隠れていた。だけど長い年月のうちに記憶は曖昧になり、ぼやけてい った。今だからわかるんだけど僕の頃になるとひどいもんだったよ。あの店の中には信じ られないほど貴重な物や便利な物が一杯あったんだ。なのに使い方もわからずあの始末さ。 でも結果としてはよかったんだ。今では僕はこうして自由にどこへでも行ける。あの失敗 が僕を救ってくれた。 そして今、僕が倉庫の管理人をしているんだ。この指輪は管理人の証しであり、色々な 情報を記憶している。ご先祖様は管理人の仕事をやめるとき、この指輪は置いていったそ うだ。今では勤務もだいぶ考慮され、休日もある。ご主人様はとても後悔していた。あの 出来事のあと、ほかの管理人を置いていなかった。 ところでご主人様が后に与えた罰はもうひとつあったんだ。管理人が戻るまで后は年を 取り続けること。僕がご主人様のところに行ったときは、お后様は乾いて縮んだ動く小さ なミイラだった。
男は口を開けずに小さく笑うとアスターを見つめた。 「さて、僕が君に会いにきたのは大事な用件があるからだ」薄暗い店の中では男はとても 不気味な雰囲気をかもしだしていた。 すっかり話に魅入られていたアスターの頭は重たくまるで催眠術にかかっているようだ った。今ここで逆立ちしろと言われたら喜んでそうしていただろう。 「返してもらいたいんだ」 「返す?」アスターは我に返った。 「ああ、君の上着のボタン。僕が君につけてあげたやつ」 頼んでもいないのにおかわりのコーヒーが運ばれてきた。運んできたのは場末の酒場に いるようなくだけてあだっぽい女だ。浅黒い肌につりあがった金色の瞳をしている。それ にしても肌の露出が多すぎる。女はそのまま男の横に座り、そのしなやかな身体を馴れ馴 れしく男に擦り寄せた。男はその姿を咎めるような目つきで女を見たが、なに言わなかっ た。 「僕は今、あの店で売った物を回収してまわっている。あそこにある物はすべてとても貴 重で価値のある物だった。そんなこととは知らなかったのだから売ってしまったのはしか たない。ご主人様もそのことは許してくれた。だけどそれをすべて取り戻してこいと言う んだ。これがなかなか大変でね」男は横の女に同意を求めるように肩をすくめると薄く笑 った。 「なかなか簡単に返してくれない奴が多くてね。君からは……なに言わずに取り返すこと もできたんだが君とはちょっとした縁がある。だからひとこと、言っておくほうが礼儀に かなっていると思ってね」 アスターは緊張しているのか、のどの渇きを感じ、カップを手に取ったが手が震えてカ タカタなってしまった。 「君と僕になにか関係があるっていうの?」 「いや、僕とではない。僕の種族というか、僕の国というか……。僕の国ははるか地の果 て、君たちの想像もつかないところにある。太古の昔から存在しているが誰も知らない。 その長い歴史の中で国から離れていった者もいる。ある者は仕事で、ある者は外の世界に 興味を持ち、ある者は逃げて。そしてこの世界に溶け込み暮していくうちに彼らの血は薄 くなりその記憶も忘れらていったしまった。君の祖先は僕のいる国の末裔だ。どういう理 由で国を出て行ったかはわからないが、その血は君たちの一族の中にかすかに残っている ようだ」 男はくるっと目をまわすとアスターをからかうように見た。 「君にはほかの人とは違うところがあるだろう?」 アスターは自分のまわりの空気が薄くなったような気がした。三人がいる場所だけが薄 暗い空間の中に取り残されほかはすべてが消え去ってしまったように静かだった。 「そんな……君が言っていることがわからない。僕は……」アスターは唾を飲み込んだ。 「僕の祖先は君の国の出身ということなのか。君の言うその得体のしれない奇妙な国の」 「そういうことだ」男は片方の眉を上げた。「美しい国だよ」 ふたりはしばらくなにも言わず黙って座っていた。 男の左肩にもたせかけた両腕にあごを乗せ、眠たそうな瞳でアスターのことを見つめて いた女が、大きなあくびをしてまるで猫のように伸びをした。その腕はしなやかだが引き 締まり無駄な肉は一切ない。ちらりと見えた口の中には牙ともいえるほどの尖った歯が見 えた。 「君の話だと僕だけではなく、僕の両親のどちらかが同じのはずだ」アスターは身体が冷 え切っていくのを感じた。 「ああ、君の母親の血筋だ」 聞かなくてもわかっていた。 「でも君の母親は隠しているようだね。まあ、無理もないがね」口をはさもうとするアス ターを男は手を振ってさえぎった。「駄目だ。これ以上は言えない。だけど君のお母さん は実に魅力的だ。もっと早く出会っていたら……」思わせぶりに言った。「君のお母さん は苦労せず、君も悩むことはなかった。君は存在しなかっただろうから」 「冗談はよせ!」アスターは気分が悪くなった。「君にそんなことができるのか?」声は ささやきに近かった。 「いや、その力はない」とても残念そうに言った。「さて、この娘が退屈しはじめたよう だ。この娘はとても気が短いんだ。みんなが君のように協力的だったらいいんだけど、中 にはなかなか返してくれないものもいるんだ。彼女は本当に有能だ。いろいろと手伝って もらっているんだよ」男は女に向かって必要ないというように首を振ると女はつまらなそ うに離れて行った。 男はアスターのほうに向かって手を差し出した。「君の手で返して欲しい」 逆らう理由はなかった。アスターにとってはただのボタンだ。ボタンを引きちぎると男 に渡そうとしたが手を止めた。 男は眉をひそめた。「なにか?」 「そういえばもうひとつ貰った物がある。あの文鎮」 「ああ、そうだったな。あれはあげよう。君のところにあったほうがよさそうだ」 男はアスターからボタンを受け取ると立ち上がり、戻ってきてぺったりと寄り添う女の 腰に腕をまわした。 「さあ、お別れだ。いつか僕の国に遊びにきたまえ。場所は教えてあげられないけどね。 君もきっと気にいる」男は指をパチンと鳴らした。
気がつくとアスターは男と出会った舗道にひとりぽつんと立っていた。 「こんなことができるならはじめからそうすればいいだろう」アスターがつぶやくと ―― 突然そんなことをしたら君が驚くだろう。ささやかな心遣いだよ―― 頭の中に男 の声が響いた。 アスターは出かける気がなくなった。頭を振りながら戻るとヴィオラが心配そうな顔を して店から顔を出した。 「なにかあったの?あの人は知り合い?」どうやら見られたらしい。「ずいぶん長い間立 ち話をしていたわね。ここにくればよかったのに」 「話をしていた? 立って? 僕はどこにも行かなかった?」 「ええ」ヴィオラは怪訝な顔をした。 「ああ、ちょっと道を聞かれたんだ。それがすごい物分りの悪い奴でね。手間取ったんだ」 「ボタンが取れてるわ」ヴィオラはアスターの上着に残った糸のほつれをつまんだ。 「なくしてしまったらしい。このあいだのボタンはまだある?」 「あるわ、後でつけてあげる」そう言ってヴィオラは店に戻った。 家に入るとはたきを持ったエメットが音もなく近づいてきた。 「坊ちゃん、あの車のお方とは知り合いで? あの、銀色の最新式の…」うっとりとした 目をしている。 「いや、道を聞かれただけ」 「そうですか」エメットは残念そうに仕事に戻っていった。
さて、アスターは部屋に戻るとベッドに寝そべり考えた。母親の血筋。グレ−トローズ には帰ってきてすぐに挨拶に行った。巨大なベッドの上で背中に枕をあて座ってなにかを 読んでいた。周りにはたくさんの本やノートやペンが散らばっている。久しぶりに見るグ レートローズは一段と年を取り縮んだように見えた。アスターの顔を観察するようにじっ と見つめると「元気そうだね」と言った。 母親はやはりなにか特別な力を持っているのだろうか? 今までそれを見たことはない。 ただ、誰よりも勘は鋭かった。グレートローズは? 彼女が何を考えているか誰もわから ない。ただ、みんなアスターが幽霊を見たと言っても頭がおかしくなったとも思わずに信 じた。 はじまったのはあの奇妙な店に行ったときからだ。あそこで僕の中にあった先祖の血が 目覚めたのだろうか? アスターはベッドの上で目を閉じた。あまり考え込むのは得意ではない。無性に村の生 活が懐かしくなってきた。あの幽霊たちでさえも。そしてジェシカ。ジェシカのあの率直 でわかりやすい性格が懐かしかった。 夜、夕食が終わりひとりになりたくてアスターが自分の部屋に戻っていると軽くノック をしてヴィオラが裁縫道具を持って入ってきた。アスターはベッドから降りヴィオラに場 所を譲ると、机の前の椅子に座った。 「どうしたの? 元気ないわね。あまり食べなかったし」 アスターはぎこちなく針を持つ母親を見ていた。母親は裁縫が苦手だ。 「ねえ、母さんももしかして幽霊が見えるんじゃない?」 ヴィオラは上着の裏で絡まった糸と格闘していた。 「ええ、見えるわ。だけどいつもじゃない。見ようとしたときだけ」糸をほどくことをあ きらめて上着を横に置いた。 「いつから?」 「物心ついたときから」 「なぜ隠していたの? 僕には話してくれたっていいじゃない」 「ええそうね。でも話はあなたが思っているより複雑なの。とてもね」 「話す気はある?」 「アスター、わかってちょうだい。あなたのためなの。今はすべて言うわけにはいかない」 「なぜ?」 「あなたが大切だからよ」 アスターの胃袋はさっき食べた物が消化不良を起こしひきつってきた。 「父さんは母さんのこと知っているの?」 そのとき、父親がノックもせずに入ってきた。どうやら外で盗み聞きをしていたらしい。 「知っとるよ」ヴィオラの横に座りヴィオラの手を握った。「この力は女の子にしか伝わ らないのではと思っておった。だからわたしたちは男の子を持とうと努力した。だが、お 前にも現れてしまった。だだ、お前の力は母さんとは違うようだ」 「どう違うの?」 「お前の力は幽霊が見えることに限定されているようだ。母さんはもっといろんなことが できる。それを望めばな。でも、それをすれば母さんには副作用が出るんだ」オークはヴ ィオラの肩を抱いた。 「副作用?」 「力を使えば使うほど若返るんだ」 アスターは呆けたように母親の顔を見つめた。母親はいつも若かった。それは特別なこ とではなくいつもそうだったのであたりまえのことだと思ってた。 「お前にもなにかあるか? その……幽霊を見たときに」 アスターはしばらく考えた。「そういえば身体が冷えるような気がする」 「そうか、それくらいでよかった」 そのとき、エルダーがいきなり入ってきた。「みんなここにいたんだ。何かの集まり?」 アスターの横で机にもたれ、話のあらましを聞いたエルダーは驚かなかった。「そうだ ったんだ。母さんにそんな副作用があるなんて知らなかった」それからちょっと考えると 言った。「で、グレートローズにもその力はあるんでしょ? なのにあんなに年取っちゃ って」 「彼女の副作用は年を取ることなの」ヴィオラが答えた。「ちなみに今まで騙していたけ どグレートローズはわたしの母よ。つまりあなたたちには曾祖母ではなく祖母」 これにはアスターもエルダーも声をそろえて驚いた。 「おばあちゃん!」 「わかるだろう。わたしはお前たちの母さんに力をあまり使って欲しくないんだ。このま までいくとわたしは妻ではなく娘を持ってしまうことになる」オークがため息をつきなが らいった。ヴィオラが肩に置かれた夫の手を優しく握った。 「でも、気をつけていればいつまでも若い奥さんを持てていいんじゃない?」エルダーが 茶化すように言った。 オークはとんでもないというように肩をすくめて言った。「わたしが母さんと出会った とき、母さんはわたしよりふたまわり近く年上だった。まあ、今でもそういうことになる がな。それでも綺麗で魅力的で素晴らしかった。一目惚れしたんだよ。そのとき、母さん の力のことは知らなかった。後で聞いたんだがそんなことはまったく気にならなかった。 だけどね、こんなに若返るとは思わなかった。力があるばっかりに使わずにはいられない んだ。心配事があるときにはね」 「結婚生活はそんなに苦労の連続だったってこと?」アスターが言った。母親はそれほど 思い悩むほうではなく、お気楽な人間だと思っていただけに意外だった。 「いや、わたしが苦労をかけたとでも言いたいのか?」オークは怒って見せる。「さっき も言っただろ。この力は女の子に伝わると。今まではそうだった。というか女の子しか生 まれなかったんだ。今までは」 「そうなのよ」ヴィオラが話しを引き継いだ。「わたしの家系は女系家族なの。さかのぼ ってみると女の子しかいない。だけどわたしたちはこの力を受け継がせるわけにはいかな かった。だからどうしても子供が欲しくなったとき、わたしは男の子を産むために力を使 ったの。そしたらいっきに若返っちゃって。とても大きなパワーが必要だった」ヴィオラ が思い出すように遠くを見つめて言った。 「二回も繰り返したんだ。ずいぶん若返ったんだね。でもどうしてその力を受け継がせた くなかったの?」アスターは訊いた。 「ああ、それはね……」ヴィオラが考えている。 「ああ、それはだな……つまり副作用の問題だ。どんな副作用があるかわからん。生まれ てくる女の子は不幸になるかもしれんと思うと男の子がいいとふたりで決めた。男の子に はその力が伝わらないと思ったんだ。まあ、そのときはな」オークが答えた。 「お前は今、不幸か?」エルダーがいきなりアスターに向かって訊いてきた。 「えっ! いや、別にそんなこと考えたこともない」いきなりで驚いた。 「それじゃあ、少なくとも男の子であって、不幸でもないわけだ。もちろん僕も不幸では ない。ふたりとも両親の愛情を受けて幸せに育った」 「ああ、そうだけど……なんか」でもなにかアスターにはひっかかる。「母さんはデイジー おばさんのことを知っていたの?」 「ええ、会ったわ」そしてつけくわえた。「死んでから。そしてあなたの面倒を見てくれ るように頼んだの」 どうりで母親はつやつやしているわけだ。 「もしかして、兄さんはそのことを知っていたんじゃない?」 「ああ」 「なんで僕だけ知らされてないの?」 「お前に余計な心配をかけたくなかったんだ。ただでさえその特異体質を知ったあとだか らな。それにどうせわかることだろ」 「おかしいよ! なんで僕だけいつも蚊帳の外なんだ。それに……」なにかが違う。もっ と隠してあることがあるような気がする。アスターは納得できなかった。 「みんな出て行ってくれ! ここは僕の部屋だ」アスターはひとりになってゆっくり考え たかった。 みんながおとなしく出て行くとアスターはベッドに寝転がりまるで天井に得体のしれな いシミが浮き出ているかのように見つめた。まるでわからない。 大体、兄さんにはなんでなにも現れないんだ! 僕がたまたまあの店を訪れたからか? ……そういえばあの奇妙な男の話をみんなにしそこなったな。 そのとき、再び扉をノックをする音がする。いらいらとした気分で開けるとエメットが お盆を持って立っている。 「ホットココアをお持ちしました。坊ちゃんにはなにかと大変な夜だったようで」 アスターは怪訝な顔をした。「聞いてたの?」 「何の話で?」エメットは眉を上げた。「皆さんこの狭い部屋に集まっていましたし、出 てこられたら出てこられたでなんだか興奮してらっしゃるし、なにかあったのだと思った 次第であります」 今度はアスターが眉を上げる番だった。 「ありがとう。いつも気がきくんだね」素直にお盆を受け取った。とぼけた奴だ。
エルダーは部屋に戻る前になに気なく父親に聞いた。 「母さんは本当にいつまでも若いよね。父さんはうれしくないの?」 「限度がある」オークは苦い顔をした。「母さんにはわたしと一緒に年を取って欲しいん だ」その頃、以前奇妙な店があった隣の家では家の者が寝静まった暗い台所の中、明るい月 に照らされ長い影を落とす、すらりとして奇妙ななりをした男が立っていた。 次の日の朝、その家の主婦は塩のつぼが空っぽになっているのに気がついた。はて? きのうまでたっぷり入っていたはずなのに。それ以来、夫から料理の味が格段に落ちたこ とに文句を言われ続けた。
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