13 幽霊屋敷
 次の日、アスターは寝坊した。みんなはもうすでに仕事に出ていたので顔を会わせずに
すみホッとした。いつまでも僕だけぶらぶらしているわけにはいかないな。アスターはさ
すがに気が咎めた。ジェシカの家が近いことを思い出し、ちょっと見に行こうと思い玄関
を開けたとたんドンの身体をすり抜け恐ろしい寒気に襲われた。
「ここで、なにをしているんだ」悪寒を払おうとするように身体を震わせながらアスター
は叫んだ。
『君が出てくるのを待っていたんだ』ドンは顔色がよくない。
「中に入ればいいだろう」
『入れないんだ。君のおばあさんが館を守っている』
「えっ?」
『ローズはデイジー以外の霊的なものが近づけないように館を包み込んでいるんだ。彼女
の力で』
「なんのために?」
『魔除けだろ』ドンは忌々しそうに言った。
 アスターははっと気がついた。「村でなにかあったの?」
『ああ、それがジェシカがつかまったんだ。あの幽霊屋敷の子供に』
「何だって! ひとりであそこに行ったのか! どういうことか説明して」
 アスターもいなくなり退屈したのかジェシカは幽霊屋敷のことを思い出したらしい。そ
うなるとすぐに行動しないと気がすまない。ジェシカは思い立ったらじっとしていられる
たち性質ではなかった。
 過去の失敗の教訓を踏まえて慎重に行動した結果、まんまと館の中に入り込むことがで
きたとジェシカはほくそえんでいたが、実はドンたちが子供の気をなんとかそらしていた
のだった。
「なんで、ジェシカを止めなかったんだ!」
『無理だ。ジェシカは考える前に動く』ドンはわかっているだろうという顔をした。
 アスターはため息をつき空を見上げた。「で、ジェシカは無事なの?」
『今のところはな。ミリーやフィンが見張ってる。だけど子供は彼女を傷つけない。ただ、
閉じ込めているんだ』
「なぜ?」
『それがどうやらあの子はジェシカを母親だと思っているようだ』
 
 それから、アスターは家族に挨拶もせず、目を丸くするエメットを尻目にばたばたと村
の戻った。道すがらドンはわかっていることをアスターに話した。あまりたいした中身は
なかった。
 それによると子供は昔、母親に捨てられ、そのことを恨み、悲しみ、今まであの屋敷に
とりついていたらしいが、泥で汚れていないジェシカの顔を見て、母親が迎えにきたと勘
違いしているらしい。
 アスターはふと思い出した。階段の登り口にあった肖像画の婦人はそういえばジェシカ
に似ていたような気がする。髪の色が違うし年も違うのだが、同じ目をしていた。深く濃
いエメラルド。
「大昔の話だろ。母親が生きているわけないじゃない」
『子供だ。母親の生まれ変わりだと思っているのかもしれん。それとも、ただ母親の代わ
りが欲しいのかもしれん。だが子供だといってもあなどれないんだ。長く存在する上に、
怨念も持っている。わたしたちのように悲しみだけを持っているものより強い。おまけに
聞く耳を持たない。まるで頑固な年寄りだ。見かけに騙されちゃいかんぞ。わたしたちの
年は見かけではない』
「もちろんジェシカは誰も見えてないんだよね?」
『ああ、出られないことを不思議がってる。さて、どうする?」
「考える」それきりふたりは黙ってしまった。
 あれこれ考え何の策も浮かばないうちに幽霊屋敷についてしまった。
「どうしよう? とりあえずその年寄りの子供と話そう。後は成り行きにまかせるか?」
アスターは勢いでやってきたものの心もとなかった。
 フィンとミリーと合流し、みんなの助けをかり無事中まで入ることできたアスターはま
っすぐジェシカがいるという場所に向かった。そこは一階を突き抜けて出たところにある
中庭だった。
「ジェシカ!」
 そこは別世界のように美しい花園だった。
「アスター。どうしてここにいるの?」ジェシカの目は虚ろだった。
「えっと……、村に戻って君がいないからもしかしたらここじゃないかと思ったんだ」
「すごい感ね。でも助かったわ。出られないの」ジェシカは戸惑って誰もいないあたりを
見回した。
 アスターも同じようにあたりを見回したがジェシカと見る風景は違う。アスターの目に
は三人の友達とちょっと離れたところに立つ小さな子供、そしてその横には歯をむき出し
た犬が見える。
「もう大丈夫だ」アスターはそばにあった花をひとつ摘まむと言った。「君はこの花の匂
いにつかまったんだ。この花には感覚を麻痺させて頭を鈍くする作用がある。君はきっと
幻覚症状を起こしていたんだ」
「本当? あなたは大丈夫なの?」
「僕には免疫がある」
「きっとこの屋敷に昔住んでいた誰かが勘違いしてこんな花を植えたんだろう。君はその
勘違いからこんなことになってしまったんだ」アスターは子供を睨みつけながら言った。
「今から僕は君を連れて外に出る。だけど後でまたここに戻ってきて調べたいことがある。
いいか! 僕はまた戻ってくる!」
「わかったからそんな大きな声出さないで」横でジェシカが朦朧とする頭を振りながら言
った。
『よくすんなりと出したもんだわね。あなた思ったよりやるわね』フィンが感心したよう
に言った。
 疲れて、幸いなことに頭もよく働かないジェシカを家に送り、寝かしつけたあと、アス
ターはみんなと自分の家でお茶を飲みながらホッとしていた。ドンは子供がなにかしでか
さないか見張るために残った。ジェシカはまる一日、あそこに閉じ込められていた。年寄
りのくせに気が利かない子供は食事も毛布も出さなかったらしい。
『現実主義のジェシカにはあの状況が理解できなかったみたい。あの庭から出ようとする
と動けなくなることにパニックを起こしていたわ』ミリーが言う。
『熊みたいにうろうろしてたわよ。でもジェシカが休んでいるとき、いつもあの子が寄り
添っていたわ。かわいそうにあの子もどうしていいかわからなかったみたいだった』フィ
ンがしんみりと言う。
「かわいそうか? あのままだったらジェシカは飢え死にしていたかもしれない。幸いに
も雨が降らなかったからよかったものの」アスターはそう優しくはなれない。
 そこへドンが帰ってきた。
「どうだった?」
『ああ、子供はおとなしかった。あそこから出たことがないせいか、まったく世間ずれし
ていない、子供のままだった』
『まあ、ずっとあそこに閉じこもっていたの?』フィンが驚く。
『なあ、綺麗な花園だったろ。あの子が作っているんだ。あの子の母親があの花園を作り
とても愛していたらしい。いつか帰ってくる母親を待って子供は守り続けていたんだ。誰
にも荒らされたくないから離れることもできなかったそうだ』
『まあ、かわいそうに。あの子の母親は帰ってこなかったのね。なにがあったの?』フィ
ンは胸を切なくしていた。
『なにがあったかわからんが、なんせ子供だから事情はよくわからない。ただ、母親はま
た戻ってくると言って出かけたらしいのだが、その前に子供は風邪をこじらして死んでし
まった』ドンはゆっくりと続けた。『父親と母親はあまり仲がよくなかったらしい。母親
はいつも子供と一緒にあの花園で花を作って過ごしていたそうだ』
『まあ!』フィンは今にも子供のところに飛んでいきそうだ。
『しばらくはそっとしておいたほうがいい。ジェシカがあの子の母親ではないことは理解
したようだ』ドンはフィンに言った。『時々様子を見に行こう』
『わたしが行くわ』フィンが言った。
 このとき、デイジーおばさんはいなかった。意識不明の夫に業を煮やした悪辣な妻が暗
殺を企てたことに怒り狂ったデイジーおばさんは、真夜中に恋人と逢引をしている妻のも
とに化けて出たらしい。この化けて出るというのはとてもエネルギーを使うのでやろうと
する幽霊はあまりいない。今、デイジーおばさんは実体化できるようになるまでどこかで
休養している。
 いっそ止めないほうが早く決着が着くのではとアスターは思うのだがそれとこれは違う
らしい。
 ミリーもマシュー先生をのぞいてくるといって消えた。
 フィンはなに言わずに消えた。
『まったくあいつは。あの子のところに行ったな』ドンが呆れたように行った。
「フィンはやさしいんだね」
『子供に弱いんだ。かつては母親だったからな』
 その日はそれでお開きとなった。驚いたアスターはフィンのことをもっとドンに訊きた
かったのだがドンはそれ以上教えてはくれなかった。考えてみればドンのこともなに知ら
ない。年の頃は三十代半ば、頼りになる兄貴分といった感じ。それにしてもあの奇妙な格
好はなんだ? まるで結婚式の花婿のようだ。そしてフィンはもっと若い。自由奔放な感
じで、あんなに母性本能があるようには見えない。みんなここに縁があると言っていたが
なんだろう? アスターがまるで救世主のように言っていなかったか? ならばさっさと
話してくれればいいのに。もっともアスターにはそんなものになる自信はまったくなかっ
た。ジェシカのときは運がよかった。それにみんながそばにいるというのはとても心強い。
すっかり幽霊に慣れてしまったな。アスターは思わず苦笑いをした。
 あしたはもちろんジェシカの様子を見に行くつもりだ。やれやれ、どこまで憶えている
のやら。
 ジェシカは腫れぼったい目でコーヒーを飲んでいた。アスターを見るとなにか考え込む
ような表情をしたがすぐ消えた。
「おはよう。大丈夫かい?」
 ジェシカはアスターにコーヒーをつぎ、自分もおかわりをした。
「ええ、でもなんだかまだ頭がボーっとしちゃって」それからカップに口をつけながらア
スターを見つめた。「ねえ、わたしよく憶えていないんだけどなにがあったの?」
「君はあそこあった変な花の匂いをたくさん吸い込みすぎたようだ。あまり考えないほう
がいい」できるだけさりげなく聞こえるように言った。
「でもねえ、なんだか『ママ』って言う子供の声が聞こえた。それになにかに顔を舐めら
れたような気がする」
「幻覚だ。君は疲れていたんだよ」
 ジェシカは納得したようには見えなかったがそれ以上追求することはしなかった。まだ
よく頭が働いてないのか、それとも非現実的な状況を認めたくないのかはわからないが、
アスターにはそのほうが都合がいい。
「お腹すいてない? なにか食べに行こう」
 アスターとジェシカは湖のそばにある小さなカフェに行った。朝早くから開いており、
湖を眺めながら朝食が食べることができる。アスターが子供の頃からある店で、その頃は
田舎の食堂だったのだが、息子夫婦が観光客むけに洒落た店に改造し、焼きたてのパンや
手作りのジャムやベーコンが出され人気があった。
 結構込んでいたが、運よく入れ替わりで窓際の席に座ることができた。店の中の客はア
スターには見知らぬ人ばかり、いわゆるよそ者ばかりなのだが、それだけ村も発展してい
るのだが喜ばなくてはいけないのかもしれない。ジェシカにしてもよそ者だ。
 ふたりはまだ新しいお日様に銀色の鱗を反射させて跳ぶ魚を時折見ながら、黙って食べ
た。ジェシカの旺盛な食欲を見てアスターはホッとした。元気だということだ。
 ジェシカが頼んだデザートがきて、アスターがコーヒーを飲んでいると、ジェシカがフ
ォークでケーキのクリームをまるで粘土をならすようにぺたぺたと叩きなにか違う物に作
り変えようとしていた。心ここにあらずといった面持ちで明らかになにか考え込んでいる
のがわかった。
「大丈夫? まだ体調が戻ってないようだ。帰って寝たほうがいいのかもしれない」アス
ターはジェシカがなにか言い出す前に先手を打った。
「ねえ、この村にきてから変なことばかり起こっているような気がする。そしてそのとき
いつもあなたがそばにいるような」
 アスターはあわてた。「そんなことはない。いちばん最初に君があの屋敷に行ったとき、
僕はいなかったし君のことも知らなかった」
「それはそうだけど……」ジェシカは首をかしげてアスターを見つめている。「あなたは
どこか変わっているわ」
「よくそう言われる。そういう人間なんだ。だけど教師ができるくらいの頭はあるし、悪
人じゃない」できるだけまともに聞こえるように言った。
「確かに悪人ではないわ。むしろお人好し?」ジェシカは面白そうに笑っていたが馬鹿に
している笑いではなかく、からかっているようだった。
「誰にでもというわけではない。君が……あまりにも……考えなしでむこう見ずだから」
「よくそう言われる。そういう人間なのよ。だけど誰にも迷惑かけたことないし、あなた
のも面倒見てとは頼んだことない!」
 しまった! こんなことを言うつもりはなかった。アスターは誤魔化そうとしただけな
のにどこかで間違ったようだ。
「いいこと!」ジェシカはアスターの目の前にクリームのついたフォークを突き出す。
「わたしは自分で自分の面倒は見られるの。あなたと違ってちゃんと仕事も持ってる。変
わり者だとか無謀な奴だとか世間知らずだのと言われる所以はない!」そう言い捨てると
アスターを置いて出て行った。
 僕はあそこまで言ってはいない。よほど今まで言われてきたんだな。アスターはしかた
なくふたり分のお金を払うと、ぶらぶらとしばらく歩き、湖のそばで寝っころがった。
 ジェシカは頭から湯気を上げながら家路を歩いていた。もうひとつよく言われる。もの
すごく早く沸くやかんのようだと。今度ばかりはジェシカもちょっとばかり戸惑っていた。
そこまでむきになって怒るほどの話ではなかった。アスターは心配していてくれていたの
だ。どうしてあんなこと言ったのだろう。
 不安なのだ。近頃、身の回りに起きることはジェシカには絶対ありえないことだった。
現実主義だと公言しているジェシカには信じるわけにはいかない。もしそれが本当に非現
実的なことなら……、もしジェシカが非現実を信じているとまわりが知ったら、変な物ば
かり作っているジェシカは本物の頭のねじがゆるんだ人間とみなされるだろう。まともだ
と思われているから、表立ってからかわれたり、冗談のねたになるだけだが、超自然は存
在するなんてことを本気で口に出そうものなら、面と向かってまともに口をきいてくれる
人がはたしているかどうかさえ怪しい。でも……アスター、彼はきっと大丈夫ね。なんだ
か安心したジェシカは足の向きをアスターの家へと変えた。
 アスターがしばらくして家に帰るとジェシカが玄関先に座り横の畑を見ていた。
「どうしたんだい? さっきはすごい剣幕だったけど」アスターはジェシカがまだ怒って
いるのではないかと警戒した。
「悪かったわ。やっぱりまだ頭がよく働いてないみたい。さっきのお金払ってなかったわ」
「いいさ、今度君がおごってくれれば」アスターは玄関の鍵を開けた。
「お茶でもどう?」
 ジェシカがアスターの家にきたのははじめてだった。
「いただくわ、ありがとう。さっきは言い過ぎた」ジェシカはしおらしく言う。
 アスターはとてもうれしかったが顔に出ないように気をつけた。気持ちがばれてしまう。
 居間も片付いていて落着くのだが、天気がよく明るい昼間は広い窓からお日様の光がよ
く入る台所のほうが心地よい。アスターはジェシカを台所に案内することにした。居間を
通り抜けこちらへとうながしたとたん、台所のテーブルで興味津々の顔を貼りつけた幽霊
たちがお茶会を開いているのが見えた。「うわっ!」
 アスターはあわててジェシカの前に立ちふさがった。
「どうしたの?」
「散らかっているんだ」アスターは心の中で毒づいた。なんで今日に限って全員揃ってい
るんだ!「居間に行こう」
「かまわないわ。ここのほうが明るくて気持ちよさそう」
 台所はむき出しの木の床で、真ん中に大きなテーブルの下にラグが敷かれ、壁や棚には
細々とした物があふれているがきちんと整理されている。ところどころにハーブや、にん
にくや赤唐辛子、そして磨き上げられた大小さまざまのフライパンが下げられており、花
瓶に花までいけてある、女性らしい気配りがある台所だ。もちろんデイジーおばさんがい
るからのことだけど、ジェシカは生きているときも死んでからもデイジーおばさんを知ら
ない。
「素敵な台所ね。お料理をするの?」ジェシカが台所の入り口でなかを感心して見回しな
がら言う。
 アスターはにんまり笑ってカップを持ち上げようとするフィンを睨みつけた。「少しく
らいなら。あまり上手ではないんだ」
「ふーん。誰かいたの」
「さっきまでお客がいたんだ。その人達を見送っていたから君がきたとき、留守してたん
だ」冷や汗が出てくる。そう言いながらテーブルの上の飲みかけのまだ温かいカップやポ
ットを片付けはじめた。
「まあ、座って。……いやその隣の椅子がいい。その椅子は傾くんだ」ジェシカが座ろう
とした椅子にはミリーが座っていた。
「椅子がたくさんあるのね」
「以前は家族で住んでいたし、お客も多かったからね」さっきからいいわけじみたことば
かり言っている。ジェシカがよそをむいた隙にデイジーおばさんに目配せをした。「ちょ
っと待っててね」アスターはそう言ってデイジーおばさんと勝手口から外に出た。
「なんでみんな揃ってるの?」
『わたしが戻ってきたんで様子を見にきてくれたんだよ』ちょっとすねている。
「ああ、そうだった。ごめん」アスターは自分の額に手をあてて薄情だったことを謝った。
『まあ、いいわ。あなたも大変だった見たいね』
 アスターは肩をすくめた。「みんなを帰してくれないかな」
『そりゃー……無理だわ。あんなに楽しんでるのに消えるわけない。もちろんわたしも』
 言葉を失ったアスターにデイジーは言った。『カモミール』
「えっ?」
『気を落着けるにはカモミールのお茶。そこにある葉っぱを一掴み摘むのよ』そう言って
畑の草を指差した。
「どうしたの?」戻ってきたアスターにジェシカが声をかけた。
「いや、畑に行って葉っぱを摘んできたんだ。カモミール。気持ちが落着く」デイジーお
ばさんの受け売りをそのまま話した。
「ふーん。よく知ってるわね」ジェシカは感心して言った。「さっきのお客は帰ったばか
りだったの? まだカップから湯気が出ていたわ」
「そうなんだ。まさにそのとおり」あなどれないジェシカ。
 アスターはお茶のセットをお盆に乗せ、テーブルに運んだ。「お湯を沸かしておいてく
れてありがとう」ジェシカに言った。
「わたしはしてないわ」ジェシカが眉をひそめる。
『わたしよ』ミリーが言った。『大丈夫、ジェシカに気がつかれないようにやったから』
「そうなんだ。きっと僕が自分でやかんを火にかけたのを忘れたんだ」ああ、やりにくい。
 ジェシカはテーブルに両肘をついてアスターがお茶をいれるのを見ていた。
『お行儀が悪いわね』デイジーおばさんが眉をひそめてつぶやく。
 ジェシカの両隣にはミリーとフィンが座っている。正面に座るアスターの横にはデイジ
ーおばさんが、流しのところにドンが寄りかかって立っている。アスターはみんなに見つ
められて手が震えそうになった。
 横目でドンがニヤニヤと笑っているのが見える。みんなくたばれ! もうくたばってい
る。
「あなたも調子がよくなさそうね?」ジェシカが目を細める。
「そうかもしれない。外の空気を吸ったほうがいいかも。これを飲んだら……よかったら
……一緒に散歩に行かない?」
「いいわ」
 ふたりはならんで湖のほうに向かった。
「気持ちがいい天気ね。さっきのお茶のおかげかしら。気持ちが穏やかになったわ」
 心地よいそよ風がふたりの間を通り抜け、さわやかな緑の匂いを運んだ。湖を囲むよう
に造られた散歩道をゆっくりと歩いた。
「ここは僕が子供の頃はこれほど整備されていなかった。もっと自然のままで荒れていた」
「変るのは嫌?」
「どうかな? でもいつまでも昔にしがみついていてもしかたがない。寂しいけどね」
「わたしは町育ちだから今でもここはとても自然にあふれていると思う。土が多い。わた
しは土の匂いが好きよ。雨が降ったあと、緑の葉っぱを伝って流れ落ちた水を含んだ土の
匂いとか、畑を焼いているときの土の匂いとか」
「芸術的だね」
「芸術家なの」ジェシカは胸を張り、気取って言った。
 人と待ち合わせがあるといってジェシカは帰って行った。あの展覧会を開いたあと、彼
女のアトリエには時々お客がくる。ほとんどがひやかしだということだが。
 それでも彼女には確かに仕事がある。
 家に帰るとデイジーおばさんを残してみんな消えていた。
「さっきはごめん。もう大丈夫なの?」
『むこうはまだ生きてる。わたしはもう死んでる』
 アスターはまだすねているのかと思ったがそういうわけではないようだ。
『幽霊といえども無茶はできない。やりすぎると消えちゃうの。あんまり腹が立ったんで
我を忘れてあの女を取り殺すところだった。止められなかったらどうなっていたことやら』
デイジーは思い出しながら首を振っている。
「誰が止めたの?」アスターみたいな人間がほかにもいるのか?
『あそこに住み込んでいる技術屋の幽霊。もともと技術主任だったそうなんだけど、不意
の事故で死んでしまった。ちょうどそのとき、新しい型のスポーツカーを開発していると
ころで主任は心残して逝いけなかったって。その車にとても力をそそいでいたし心底、車
の設計が大好きでね。死んだ後もこっそり図面を描き直したり計算をやり直しているんだ
って。今いる者にはまだまかせられないってね』
「いい人だね。物好きともいえるけど。その主任がいれば会社も安心だ」
『ええ、彼の息子も頑張っているわ。それになんと言っても彼は従業員からとても慕われ
ていたのよ』しみじみと言う。『で、ついでにその主任になにか変わったことが起こった
ら知らせてねと頼んだの。こっちにいる間、気が気でないから』
「何の心配があるの? 彼のそばについていてあげればいいじゃない」アスターはデイジ
ーおばさんに訊いた。「僕のことが心配?」
『もちろん、大事な甥っ子だもの』
「ありがとう。僕もおばさんが大好きだ。だけど僕はもういい年だ。自分で自分の面倒は
見られる」それから間を置くと問いただした。「母さんに頼まれたんでしょ、僕のこと」
『あらま、知ってるの?』デイジーは悪びれずに言った。
「デイジーおばさんが消えかかっている時、実家に帰ってたんだ。そこで聞いた。母さん
と、グレートローズの力のこと。だけどなんで僕は見張られてなくてはいけないんだ。思
い返してみると小さな頃からずっとそうだったような気がする。兄さんのことはほったら
かしなのに」アスターは息を継ぐと続けた。
「みんなまだなにか隠している。教えてよ、デイジーおばさん」
『それがよくわからないのよ。ただ、あなたになにか変わったことが起こったら知らせて
ねと言われただけ』
 とぼけているに間違いない。「わかったよ。でもお願いだからジェシカのことは母さん
に話さないで。僕の将来がかかっているかもしれないんだ」
 デイジーおばさんは困った顔をした。『それはねぇ……』
「後生だから」思わずデイジーおばさんの腕をつかもうとしたアスターはつかむ物がなく
つんのめった。
『わかった』デイジーおばさんはしぶしぶ言った。
 
 やれやれ。夜、早めに床についたアスターはため息をついた。アスターの部屋には幽霊
たちは入ってこない。アスターが決めたルールだった。最低のプライバシーは守らないと
いつでも、どこでも現れるやからに振り回されてしまう、息を抜く間がない。
 母さんたちがいちばん気にしているのは僕の恋愛だ。このままでは僕は誰ともつきあい
ことすらできない。なぜか?
 気持ちがすぐ顔に出るジェシカ。気性の激しいジェシカ。あと先考えずに行動するジェ
シカ。
 アスターはジェシカが好きだった。このことがわかったら、きっとまた駄目にされてし
まう。もちろんデイジーおばさんは気づいているだろうが話さずにいてくれることを願う
しかない。早めに手を打たなくては。アスターは決心した。

 

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