2 町の暮らし
ことのはじまりは約一年前。 アスターは町の中学校で数学の先生をしていた。背丈はやや高め、痩せ気味で手足がひ ょろ長く、眼鏡をかけている。話しべたなため一見クールに見えるらしいが、本当はおっ ちょこちょいでお人好しである。だが、その部分はあまり自慢できる物ではないので、ば れないようにしている。見かけより格好よく見られるのは本意ではないが、それによって、 周囲との間に距離が置けるので利用することにした。 子供のとき、なんでも簡単に信じてしまうアスターは、兄や友だちからよくだまされた。 落とし穴に真っ先に落ちるのがアスターで、くじを引けば必ずはずれを引いた。もっと小 さい頃には人魚も妖精も狼男も吸血鬼も全部信じていた。さすがに今ではそんなことはな くなったが、気をつけていないと今でもだまされる。道端でうずくまって苦しんでいる人 を見過ごせずを介抱したら財布がなくなる。買い物に行き店員とちょっと話すと洋服でも ペンでも靴でも予定よりも高い物を買っている。アスターも自分がいいカモになっている のが十分にわかっているのだが、なぜかひっかっかってしまう。底なしのアホだと落ち込 むのだが同じことをまた繰り返す。アスターの机の上には最近、幸運を招くと言って売り つけられた水晶球が鎮座している。
アスターの家族は最初から今のところに住んでいたわけではなかった。以前は町から車 で一時間ほど離れた田舎に住んでいた。アスターの両親のオークとヴィオラ、兄のエルダ ー、それからデイジー。デイジーは父親の姉で、独身だった。美人ではないが、気さくで 面倒見のいい人柄と、人を惹きつける豊かな表情で誰からも好かれていた。アスターもも ちろんおばさんが大好きだった。 父親のオークは村の製材所で働いていた。がっしりとした体格のわりに手先はとても器 用。性格は不器用。多くしゃべるタイプではないが、田舎の人間らしい素朴さと誠実な人 柄で周りから信頼されていた。 母親のヴィオラは町の人間で父親とはまったく違った。年を感じさせないかわいらしさ をいつまでも失わない人で、白い陶器のような肌と、波打った豊かな金髪と、いつもなに か面白いことを見ているようなくるっとした菫色の瞳をしていた。 アスターは幼い頃、母親は本当は妖精かなんかで、気まぐれにここにいるがいつか消え てしまうんじゃないかとひそかに心配した時期があった。もちろんそんなことはなく、今 は亡くなっていないが母親にもちゃんと両親がいたし、町にまだ高齢の祖母が生きていた。 その頃の村の家は、父親とデイジーおばさんが生まれ育った家でもあり ――ふたりの 両親は早くに亡くなっていた―― 古い家だったがオークがきちんと手入れをしていたの でどこも傷んではいなかった。決して大きくはないが、とても温かい家だった。 オークとヴィオラが結婚したときデイジーおばさんは出て行こうとしたのだが、ヴィオ ラは一緒にいて欲しいと願った。そして家事が苦手なヴィオラは一切をデイジーにまかせ た。それがかえってよかったのかヴィオラとデイジーの関係はとてもうまくいっていた。 ヴィオラはすっかりデイジーに甘え、デイジーはまるで妹のようにヴィオラをかわいがっ た。いや、子供のようにというほうがあたっているかもしれない。家にいるとかえって足 手まといになるヴィオラは村の雑貨屋で働いた。薄暗くて埃っぽい店の中には調味料から、 おもちゃ、作業着、鍋、やかんはもちろん肥料、熊手、ネズミ捕り、麦藁帽子なんかが所 狭しと詰め込まれている。その中でヴィオラがいるところだけが明るく輝いて見えた。そ の輝きはヴィオラが動くとぴったりとついてまわる。雑貨屋はもともと店主と奥さんがふ たりでやっていたのだが、店の裏手にある家で昼間、留守番をしている店主の母親が知ら ない間にいなくなるようになってしまった。 困った店主は店の中で見えるところに母親を座らせていたのだが、目を盗んではどこか に消えてしまう。ある日、いつものようにいなくなった母親を必死でさがす店主のもとに、 親切な男が母親を連れてきてくれた。なんでも遠く離れた町へ続く道を楽しそうに歌いな がら歩いていたらしい。履いていた靴はなくなり、なにをしていたのか服は泥まみれだっ た。幸い母親に怪我はなかったが、明らかに連れ戻されるのを喜んではいなかった。それ からは店主の妻が母親につきっきりで目を離さないことになり、ヴィオラを雇ったのだっ た。はじめのうちは店主の妻はとても嫌がった。ヴィオラが若く美しいので亭主を誘惑さ れるのではと心配したらしい。店主のほうはとても喜んでいた。なんせ店の売り上げがと ても上がったのだから。村の男たちは老いも若きもヴィオラと話そうと、そして気を惹こ うとしていろんな物を買っていった。そんなことを知っているのかいないのかヴィオラは 無邪気に売り上げを伸ばした。しばらくたって、ヴィオラが夫以外の男にはまったく興味 がないことがわかると店の売り上げは落ち、店主の妻も文句を言わなくなった。それでも ヴィオラを見るだけ満足する男たちで店は以前よりずっと賑わっていた。 毎朝、オークは店まで妻を送ったあと、自分の仕事場に行き、仕事が終わるとまた妻を 迎えに行き一緒に帰る。アスターの両親はとても仲がよかった。アスターは都会の育ちの 美しい母親と田舎の無骨な父親がどうやって結婚したのかあまりに不思議なので一度聞い てみたことがある。 母親が言うには「人生に疲れてしまって、たまたま訪れたこの村の湖を眺めていたら突 然風が吹いてきて、かぶっていた帽子が飛んでしまったの。それを偶然通りかかったオー クが拾ってくれたのよ。一目惚れしたの。オークはとてもかっこよかった、今も変わらな い。わたしも色々と問題を抱えていたけどオークは気にしなかった。ああ見えてあなたの お父さんはとても情熱的なのよ」 母親はとても楽しそうに話したが、その時抱えていた問題についてはなにも言わなかっ た。 母親が父親と結婚したときはまだ二十歳になっていなかったと思う。母親に年を聞くと いつも笑いながらはぐらかされてしまう。子供だったアスターはいつも楽しそうな母親が いったい人生のどこに疲れたのだろうとこのときは思ったものだった。 アスターとエルダーが通った村の小学校は今よりまだ小さく、生徒もみんな素朴だった。 子供の頃からぱっとしないアスターと違って兄は父譲りの体格と母親ゆずりの容貌を受け 継ぎおまけに頭もよかった。アスターはひょろひょろとした体格で髪は砂のような色をし ている上にすぐにぼさぼさとなる、瞳は青と緑の中間、すべてが中途半端だった。両親の いいところを兄がすべて先に持っていってしまい自分にはなにも残らなかったとひがんだ りもした。でもこればかりはしかたない、兄が取り忘れた物がないかあるかもしれない、 それに同じような人間がふたりいても面白くない。しだいにこれはこれでいいのだろうと あきらめるようになっていた。 村から車で一時間ほど走ると大きな町に行ける。町の中央には裕福な人たちのお屋敷が ある。その中の一角にアスターたちの曾祖母、つまりヴィオラの祖母、ローズの屋敷があ る。 ローズは軽く九十歳を越えており、車椅子の生活となってはいるが、頭は鋭いナイフの ように研ぎ澄まされており、人を見透かすよう半開きの目つきの前でいつも落着かない気 持ちになる。 アスターの家族はこの曾祖母のことをグレートローズと呼んでいた。 両親が早くに亡くなったヴィオラは祖母に育てられた。あのおばあさんに育てられ、あ の母親ができたというのはとても不思議なことだと今でもアスターは思っている。 両親は結婚するときグレートローズに猛反対されたらしい。町の裕福なお嬢様と田舎の 垢抜けない青年との結婚を当然認めるわけがない。駆け落ち同然でふたりは一緒になった。 しばらく母親とグレートローズは断絶していたらしいが、やはりグレートローズにとっ てたったひとりの血のつながった孫であるヴィオラと縁を切るわけにもいかず、しぶしぶ オークを認めることにしたらしい。 母親はときどき家のトラックで祖母に会いに実家に行った。むこうがくることは決して なかった。アスターとエルダーはまだ小さい頃一緒に連れて行かれたことがあるが、曾祖 母の屋敷に入ると気分が悪くなった。それにグレートローズはまるで意地悪な子供を食べ る魔女のように恐ろしく、それきり行かなかった。それでも町に行った母親が村では手に 入らないような本やお菓子を持って帰ってきてくれるのは楽しみだった。 まったく平和でのんびりとした暮らしで、それはずっと変わらずに続くものだと思って いた。だが、グレートローズの高齢あるいは陰謀のせいでアスターたち一家は曾祖母の住 む屋敷へ引っ越すことになった。 グレートローズはリウマチで手足がきかない、目も見えなくなり頭もはっきりしない、 先が長くないから母親に一緒に暮らして、最後くらい看取ってもらいたいと訴えてきたの だった。ヴィオラはそう簡単に行くような人ではないと相手にしなかったが、オークのほ うが動転した。ヴィオラをグレートローズのもとへと送り出そうとしたのだが、ヴィオラ はひとりではいやだ言い張った。それならばと夏休みも近かったし、みんなで一度お見舞 いに訪れることにした。 アスターはグレートローズに会うのが怖かった。父もとても緊張していたのだが、決し て口に出しては言わなかった。ただみんなを乗せたトラックのスピードがやけに遅く、も し、誰か隣を歩いている人がいたら並んで話ができそうなほどだった。 久しぶりに見たグレートローズの屋敷はやはり立派で、アスターは場違いな気分になり 落着かなかった。屋敷に不釣合いなトラックを裏庭の片隅に止めると、正面玄関にまわっ た。重々しい扉を開けると広いホールがある。そこには絵に書いたようにお決まりの格好 をした執事がかしこまってアスターたちを迎えた。 「お待ちしておりました、お嬢様。それに旦那様とお坊ちゃま方」執事が気取って言った。 「やめてよ、エメット。仰々しい。ちょっとお見舞いにきただけなんだから。ローズの顔 を見て元気なのを確かめたらすぐ帰るから、だからそう長居はしないわ。さあ、みんなこ っちよ」 そう言うとみんなを二階に案内した。きらきら光るシャンデリアのある広いホールの突 き当りには二階に続く曲線をえがいた階段が両端にあり、上がるとホールを見下ろせる踊 り場がある。その昔は舞踏会なんかが開かれて着飾った紳士淑女がくるくると回っていた のだろう。二階には中央に長い廊下があり、その廊下をはさんで部屋がいくつも並んでい た。一方は通りに面しもう一方は庭に面している。三階まであるのだが必要ないので使っ てないそうだ。 母親は「ちょっと待っててね」と言うといちばん手前の左側の扉をノックし、返事も待 たずに勝手に入るとすぐにみんなを招きいれた。 豪華で贅沢な調度品が所狭しと置かれたけばけばしい部屋の中央に天蓋つきの大きなベ ッドがどんと置かれている。その中にグレートローズは息も絶え絶えの様子で横たわって いた。そばにはかかりつけの医者が控えていた。 「みんな、よくきてくれたね」起き上がろうとするローズを医者は止めた。 「ローズ、おかげんはいかが?」母親は祖母のことを名前で呼ぶ。 「ヴィオラ、見てのとおりだよ。今度ばかりはだめかもしれない」 母親は祖母の手を握ると医者のほうを見た。医者は気の毒そうに首を振った。 「しばらくここにいておくれ。お前たち家族みんなで。オークお願いするよ」潤んだ瞳で みんなを見つめた。
部屋から出るとヴィオラはため息をついた。 「ローズの顔色は艶々しているし手も力強かった。まだまだ大丈夫だわ」ヴィオラはグレ ートローズの言ったことを信用していなかった。 「でも、医者はああ言ってる。僕たちはみんなでしばらくここにいて様子を見よう」 「でも、オーク、あなた本当にいいの?」 「もちろんさ。君のおばあさんははじめて僕の名前を呼んでくれた」 父親はとても感激していた。今まではまるで透明人間のように扱われていたから。 そうして、一家はグレートローズの豪邸に滞在することになった。オークはしばらく仕 事を休んでヴィオラと一緒に祖母の状況を見守った。アスターとエルダーは夏休みだった ので別にかまわなかった。一週間たってもローズの状態は変わらなかった。さらに一週間 たってもやはり同じ。状態が持ち直し、起き上がれるようになり、みんなが村に帰ろうと するとまた寝込む。その繰り返しで夏休みも終わろうとしていた。 町には、図書館や劇場や博物館、銀行、最新流行の服、洒落たカフェ、きちんと管理さ れた公園、新鮮なニュース、村にはない物がなんでもあった。そろそろ学校がはじまろう とする頃には、新しもの好きなエルダーは町に残りたくなっていた。 家族会議が開かれた。これからどうするか? もうしばらく様子を見るかそれとも……。 結局、一家は町に残ることにした。オークは仕事を辞め、アスターとエルダーは町の学 校に転校した。 エルダーは喜んだがアスターは楽しくなかった。エルダーのように要領も愛想もよくな かったので新しい学校には馴染むのには時間がかかった。村ではお互いの家族のことから 好きな食べ物までなんでも知っていたのに、町の学校では生徒の数が多いうえに出入りも 多く、相手のことがよくわからない。それでも子供の世界はどこでも似たようなもの。し だいにアスターにも親しい友だちができると町の生活もそれほど悪くないように思えてき た。 ローズはオークの家族を養うだけの財力は十分にあるのだが、オークはそれを望まなか った。嫌がるローズを説き伏せ、通りに面した一階の隅の物置部屋を自由に使う許可を得 ると自分で壁を壊し改造をはじめた。 「父さん、何をはじめるの?」アスターは訊いた。 「パン屋をしようと思ってる」 「えっ! 父さん、パンが焼けるの?」 「意外だろうが、実は焼けるんだ。まあ、少し勉強はしないとな。それにデイジーが手伝 ってくれるかもしれんしな」 オークは姉のデイジーが町にきて一緒に住むことを望んでいたが、デイジーは村を離れ たがらなかった。それでも店を出すための助力は惜しまなかった。 父親のパン屋はなかなか繁盛した。素朴だが力強い腕でこねられたパンはオークと同じ ようにしっかりしていて、たのもしい味がした。もちろん表に立つヴィオラの力も大きか った。普段は食べ物など自分では買わないような紳士が大きなパンの袋を抱えて帰った。
町での生活も安定しアスターとエルダーも上の学校と進んでいった。アスターはこれと いった目標もなく、ただなんとなく小学校の教師になった。専門の数学を選択したのはた だ、創造性や感性が要らないと思ったからだった。本当は必要なのだろうがそこまで学問 を追求するつもりはなかった。エルダーはその優秀な頭脳で町のいちばんよい大学に進み、 いちばん大きい銀行に就職した。アスターは密かに兄がしばらく離れたところへ行くこと を願っていたのだが、当のエルダーは望めばもっと大きな町の優秀な大学に行けたという のに町や家族から離れるのを嫌がった。
アスターはエルダーのことを好きだし兄として尊敬もしていたがどうしても許せないこ とがあった。それは……なぜかいつもアスターの恋路を邪魔するのである。年頃になると 誰だって女の子に興味が出てくる。他の男の子と同じようにアスターにも好きな女の子が できた。はじめてつきあった子はクラスでは目立たない、おとなしいタイプだったがアス ターは控えめで優しい振る舞いに心惹かれた。やっとの思いでデートにこぎつけたのだが、 次の日にはエルダーとデートしていた。 女の子には「あなたはいい人だし好きだけど、わたしは引っ張っていってくれる人がい いの」と申し訳なさそうに言われた。 次に好きになった子は、隣のクラスでいつもしゃべるか食べるか、とにかくいつも口が 動いている子だった。アスターはその活動的な様子になぜか心惹かれた。家から持ってき たパンでお昼を誘いベンチに座り楽しくしゃべりをした。もっともしゃべるのは女の子で アスターは横でにこにこと微笑みながらわけのわからない話を聞いているだけなのだが、 それでも食べることとしゃべることを同時に器用にこなす様子を見ているのは楽しかった。 だがその女の子がエルダーと一緒にいるところを見るまでそれほど時間はかからなかった。 エルダーは父親が今勉強中のお菓子部門の試作品を手にいれ、きのうまでふたりで仲良く 座っていたベンチに我が物顔で座り、口からお菓子のくずをばらまきながらお互いにすご い勢いで話しているのだった。 その子から「あなたはおとなしいのね。お兄さんと違って」と言われたときには何の未 練もなかった。 それからしばらくは女の子には近づかなかったのだが、ある日ひょんなことからアスタ ーの苦手とするひとつ年上の頭がちがちのガリ勉タイプとつきあうことになった。きっか けは学校の廊下でぶつかったときにアスターがその子のメガネを壊したことだった。アス ターは考えることに忙しく、女の子は本を読みながら歩いていたのでどちらも前方不注意 だったのだが、先に謝ったアスターが悪いと言うことになった。なんだか納得いかないま ま、分厚いメガネがなくては足元の危ない女の子を家まで送るはめになった。けれどアス ターは不恰好でいかついメガネが女の子を恐ろしく見せているだけで見かけほど感じが悪 くないことがわかり、それから出合うと自然と話すようになった。女の子は物知りだしア スターの難しい宿題を手伝ってくれた。女の子はどんなことでも面倒がらずにとことん、 必要以上に追求する根っからの学者タイプだった。アスターは自分の宿題を途中で投げ出 し、ぼーっとしてただ女の子の顔を見ていた。「君はメガネをもっと違うのにかえたら感 じが変わると思うよ」思わず言ってしまった。 「余計なお世話よ」気難しい学者はほんのり顔を赤らめながら言った。 それからしばらくしてアスターは女の子とエルダーがふたりして本を抱え歩いているの を見た。女の子のメガネは洒落た形の物にかわりとても似合っていた。それだけでなくエ ルダーまでがメガネをかけている。 「やりすぎだ!」アスターは呻いた。 とうとう堪忍袋の緒が切れたアスターはエルダーにつめよった。 「どうして兄さんは僕のつきあっている娘を横取りするんだ!」 「お前がつきあってる娘? 知らなかったなあ」エルダーはとぼけた。 「よく言うよ。大体兄さんはハンサムだし勉強だって運動だってなんでもできる。女の子 にだってよりどりみどりじゃないか。なのによりによってなんで僕が好きになる娘を選ぶ んだ?」 「どうもお前と好みが似ているらしい、困ったな」エルダーはしらじらしく言う。 アスターはのらりくらりとはぐらかすエルダーに怒りが収まらないままいったんは引き 下がった。それからは手当たりしだいに女の子に声をかけた。相手は誰でもよかった。優 等生から不良、大人しい子から騒がしい子、綺麗な子、普通の子、背の高さも体型もさま ざま、もっとも付き合えたのはその中からほんの一握りだけだったけど。アスターはもは や相手が好きではなくただ意地になっていた。 そして結果はいつも同じ、気がついたら女の子はエルダーと手をつないでいるのだった。 「兄さん、もうとぼけても無駄だ。今日こそはなぜ僕の相手を狙うのか教えてもらおうじ ゃない」アスターは家に帰ったエルダーを玄関先でつかまえた。 「なんなんだ、いきなり」エルダーはつめよるアスターを手で押しやった。上着の襟をゆ っくり正すとすまして言った。「前にも言っただろ。僕たちの趣味は似ているんだ。悪い が同じ女の子を好きになるとお前に勝ち目はない」 「趣味が似てる? うそだ! 兄さんの好みはもっと……」アスターにはわからなかった。 「ほらみてみろ。お前は僕の好みを知らないだろ」だが、落ち込むアスターを見ていると やはりかわいそうになってきた。「わかったよ。本当のことを言うよ。僕はお前のことが 心配なんだ。悪い女にだまされるんじゃないかって。だからお前が好きになる相手を調べ ているんだ。その結果、相手はなぜか僕に乗り換えてしまう。僕が誘ったわけではない」 「なにをわけがわからないことを言ってんだ。僕はただ好きな女の子と話したりお茶を飲 んだりしたいだけなんだ」 「あきらめろ。お前のためを思ってやっているんだ」エルダーは心なしかげんなりしてい る。 そのとき、言い争うふたりに気づいたヴィオラが近づいてきた。 「どうしたの? ふたりとも何を喧嘩しているの」 「ああ、母さん。なんでもないよ」そう言うとエルダーは逃げて行った。 残ったアスターはやり場のない憤り込めて一切合財を母親にぶちまけた。 驚いたことに母親は感激した。 「まあ、エルダーったらなんていい子なんでしょう。お前は弟思いの兄さんを持って本当 に幸せだわ」 アスターは肩を落としてため息をつくと部屋に戻った。 その夜、ヴィオラはエルダーの部屋を訪れた。 「ちょっといいかしら?」 「なんだい、母さん」 「お前はあのことを知ってるの?」ヴィオラはエルダーをじっと見つめた。 「まあね、たまたま母さんとグレートローズが話しているのを聞いたんだ」 「そう、アスターには知られたくないの」 「わかっているよ、母さん。あいつが知ったら耐えられるかな? でもどうして弟なの? 僕ではなく」 「そうね……。あなたは完璧だから入り込む隙がなかったんだわ。アスターはあのとおり なんか抜けてるからねえ」ヴィオラは考えながら言った。「それにしても、ありがとう。 あなたは本当に頼りになるいい息子だわ」
それからアスターは一切女の子に近づくのをやめた。そうすると不思議と今度は女の子 から誘われるようになった。学校でいちばんの美人で、しかも年上でみんなの憧れの的で ある女の子から声をかけられたとき、さすがのアスターもこれはおかしい気づいた。問い 詰めてみるとあっけらかんと言われた。アスターとつきあうとエルダーから声がかけられ る恩恵がついている。アスターはエルダーにいたる踏み台だった。結局なんだかんだと言 いながらも、どの女の子も結局はハンサムを選ぶ。ましてエルダーは頭脳明晰、温厚誠実、 どんなに逆立ちしたってかなわない。アスターは女の子に対する興味をいっきに失い、華 やかな生活に別れを告げ、地味で堅実な青春を過ごした。 アスターがおとなしくなるとエルダーも華々しく女の子の間を渡り歩くのをやめた。も っとも、ただでさえもてるエルダーに交際する彼女が切れることはなかったが、本気でつ きあうことはなかった。 大学にはいり進路は違ってもアスターはエルダーが自分を監視しているのを感じた。家 でもそれとなく探りをいれてくる。おまけに母親とエルダーはなんだかつるんでいるよう な気もする。まるで見張っていないとアスターがなにかしでかすのではないかと心配して いるようだった。アスターとしてはいつまでも子ども扱いされているようでいい気がせず、 かといって文句を言ってもいいようにあしらわれるだけなのでいつしかあきめるようにな った。それからの長い間、間にはばかる大きな障害は面倒だし、それを越えるだけの魅力 のある相手も現れなかった。
オークのパン屋は繁盛し、店を開業するにあたって借りたローズへの借金も着実に減っ ていた。ローズは死にかけているどころか本当はとても元気だと思えるのだが、みんなと 食事を一緒に取ることもなく決して部屋から出ることもなく何を考えているのかわからな い。ローズの世話はもっぱら家事の一切を取り仕切る執事のエメットがしている。執事は 屋敷の一角に住んでおり、他に使用人はいなかった。必要なときには庭師や家政婦協会か らの派遣がくるのだった。 エルダーは生まれたときから住んでいるように町の生活にも家にもよく馴染み、毎日を 上手に楽しんだ。なのにアスターは町にきて何年もたつのに、まだ自分が間違った場所に いるような違和感が抜けなかった。幾度となく両親に自分だけでも村に帰りたいとアスタ ーは言ったのだが許されなかった。理由は…… ひとりで暮らすにはまだ子供。 ――ひとりではない、デイジーおばさんがいる―― デイジーはひとりでの生活を楽しんでいる、邪魔をしてはいけない。 ――デイジーお ばさんは決してそんなことは言わない―― お前がいないと生活に困る。 ――ありえない、アスターがやっていることは誰にでも の替わることができる雑事だった―― お前がいないとこの家はとても寂しい。 ――なにも言えなかった―― そうしてアスターは漠然としたやるせなさを胸に秘めたまま、流されるままに過ごした。TOP BACK NEXT HOME Chap.2