24 ドンとフィン
アスターは村に戻る必要はなくなった。次の日、ジェシカと玄関を出たとたん、ドンと フィンにつかまった。 「驚いた! まったく、こんなところでなにをしてるんだい?」驚くふたりにドンはつめ よった。 『お願いがあるんだ。この家に入りたいんだ。ローズが僕たちをこの家に入れないように している』 「どういうこと?」 『幽霊やまがまがしいものが入れないようにこの家を守っているんだよ。ずっと昔から。 だけど本当はわたしと会いたくないんだ』ドンがいきまいている。 「あなた、ローズと知り合いなの? もしかして……」ジェシカが推測する。 ジェシカを無視してドンは続けた。『きのうわたしたちもあの部屋にいたんだよ。姿を 消していたし、君はそれどころではなかったから気がつかなかっただろうが。ローズに会 ったのは何年ぶりだろう?彼女はこの家から一歩も出ようとしなかった。まったくたいし た女だよ、いまいましい』 「ちょっと待って」ジェシカがさえぎった。「だから、あなたはローズの……」 ドンはおしまいまで言わせなかった。『ローズに会いたいんだ。彼女に伝えて欲しい。 恨んではいない。もう一度会いたいと』それだけ言うと消えた。 「ちょっと……」ジェシカは呆れていた。 『ドンは興奮しているのよ』フィンが弁護するように言った。 「ドンはローズの……もしかして……」アスターの言葉をフィンがさえぎった。 『この話は当事者から直接聞きましょう。ふたりは会わなくてはいけないの』フィンは手 を振ってこの話を打ち切った。 「ミリーは?」 『マシュー先生の子供が生まれそうなの。あっちにはりついているわ。ところで、あのか たまりはわたしが取ってくるわ。そのほうが早いし……それにわたしも解決してもらいた い問題があるのよ』フィンも消えた。 アスターとローズは顔を見合わせ黙って家に戻った。
食堂の椅子に並んで座った。まったくどうなっているんだ。アスターが頭を抱えようと したとき、いつものようにすました顔をしたエメットがお茶を出してくれた。 エメットはいつも生きている人間の中ではいちばん幽霊にちかい。いや、本物の幽霊よ りも幽霊らしい。みんな見習ってもらいたいものだ。 「エメットはずいぶん前からここにいるんだよね」 「はい、もう長いことここでお世話になっております」 「僕の母さんが子供の頃も知ってるの?」 「ええ……、まあ……、でもわたしがきたときはもう奥様は十分大人でしたから」 「……」アスターは言葉をさがした。 「わたしはよそにいたのですが叔父が引退するときに後を継いでくれと頼まれました。特 別なところだから信頼できる人間にまかせたいと。わたしは……そのちょっとばかり好奇 心の強いほうで……叔父の言葉に心惹かれまして、ここにまいった次第です。お給料もよ かったですし。おかげで子供たちもいい学校にやることができました」いったん言葉を切 るとアスターの顔をうかがうようにしていった。 「わたしがここにきたとき、奥様はわたしより年上だったようにお見受けしましたが勘違 いだったかもしれません。女性の年というのは見かけだけではわからないものです」 横でジェシカが眉を上げたがなにも言わなかった。 「エメットの奥さんは?」 「こちらにくる前に普通に病気で亡くなりました」悲しそうな顔をした。「でも、子供た ちは元気です。いつかここに呼びたいと思っています。ここは面白いところですから」そ う言うとまたしゃべりすぎたとかなんとかいうようなことをもごもご言いながら消えた。 「変わった人ね」言いながらジェシカは笑った。「でも、好きだわ。あの人」アスターも 同感だ。 ふたりでぼんやりお茶を飲んでいると両親がやってきた。 「おまえたちは出かけたんじゃなかったのか? なんでここでぼけっと座っているんだ?」 「それが事情が変わったんだ。それよりこんなときにまで店を開けてるの?」 「おまえたちをただ待っているなんて耐えられない。なにかしていたほうがましだと思っ たからだ。いつもの三倍は働いたから今日はもうおしまいだ。後は従業員にまかせてきた」 「兄さんは?」 「あいつも仕事だ。でもすぐ帰ってくる」 「うちの家族は働き者なんだ」アスターはちょっと卑屈な口ぶりで言うとジェシカはよし よしというように腕を叩いた。 「で、その事情とやらはどう変わったの? その文鎮はひとりでやってくるの?」ヴィオ ラがやはり座るとエメットがお茶のセットを一式トレイに乗せて用意して消えた。気が利 いたことに薄くスライスして焼いてバターをたっぷり塗ったバケットが添えてある。 アスターとジェシカはお腹がすいていることを思い出し、遠慮なく食べることにした。 物事は複雑に絡み合っている。命にかかわる大変な問題でもある。でも、こうやってみ んなで頭寄せあい取り組んでいると不思議と怖くはない。こうやってなごやかにお茶を囲 んでいるとまるで日常によくある問題を話し合っているような気がする。問題はきっと解 決され、またこうしてみんなでお茶を囲んで、本当に楽しい時間を持つときがくるだろう。 そのときにはもちろんアスターのかたわらにはジェシカがいて、そして子供 ――三歳を 越えた女の子でも男の子でも―― がいなくてはならない。 母親は父親に寄り添っている。ちょっとばかり老け込んでもヴィオラは綺麗で輝いてい た。そして、オークにぴったりだった。 「みんなここにいたんだ。悪い、どうしてもはずせない仕事があって……」急いで帰って きたのか息をはずませたエルダーの手には問題のかたまりがある。 「ああ、これか? 玄関を開けようとしたとき目の前に浮かんでいたんだ」考えるように 目を宙にやる。 「フィンが僕のかわりに取りに行ってくれたんだ」 「フィン? ああ、おまえの幽霊の友達だったな。なかなか便利なもんだ」 「さて、これからどうする? このかたまりに話しかけてみるか?」エルダーが言った。 「わたしが見てみるわ」そう言って手を伸ばしたヴィオラをオークが止めた。 「待て。まず考えるんだ。軽はずみなことをしてはいけない」 「おっほん」アスターはみんなの注目を集めた。「実はその前に気になることがあるんだ。 前に話した幽霊のドンのこと憶えてる? 彼がどうもグレートローズの知り合いのような んだ。それもかなり親密な。母さんはなにかそのこと知ってる?」 ヴィオラはかわいく首をかしげた。「知らないわ」 「その人が父親ってことではないの?」エルダーが言うとヴィオラは首を振った。 「わたしは父のことをよく憶えていないのだけど、ローズが結婚したとき父はもうかなり の年だったらしいわ」 「母さんの父親、つまり僕たちのおじいちゃんではないと思う。ドンは結婚式の日に事故 で死んでしまったらしい。いつも花婿の衣装を着ているんだ」 「ヒューッ。ずいぶんいかした野郎だな。そいつは」エルダーの調子をヴィオラがたしな めた。 「この家はグレートローズの力で魔除けの術がかけられていて入れないらしい。だからや めさせて欲しいと言っている。どうしてもグレートローズに会いたいらしい」 「なんか恐ろしいな。なにか恨まれているんじゃないか?」エルダーが言った。 「そうではないと思う。なにかそう切実なもの、切ない感じがあるんだ。ドンはとてもい い奴なんだ。優しくて頼りになる兄貴のように僕を助けてくれた。」横にいるジェシカが 微笑み、エルダーは鼻を鳴らした。 「そうか。そういうことならなんとかしないとな」オークはアスターとジェシカを見なが ら言った「本当にいい奴なんだな?」 「間違いない」そう言ってみたもの相手はなにか心残りがあって逝けない幽霊だ。それに 相手がグレートローズとなると……ひどいことがあったのではないことを願うばかりだ。 みんなでグレートローズの部屋にぞろぞろと移動した。エメットがひそかに斥候として 行っているはずだから驚きはしないだろう。大体グレートローズも若返って前よりずっと 動ける身体になったはずなのだから、いい加減に部屋から出るべきだ。まったくもって、 延長された命をあの部屋の中で燃やし尽くすつもりなのだろうか? 階段を上がりながらエルダーが言った。「僕と父さんは幽霊が見えない。不便だな」 ジェシカがウィンクして見せた。 「わたしも意識したときしか見えないわよ」ヴィオラが言うと すかさず「意識するんじゃない」オークが目を見開き首を振りながら言った。 グレートローズの部屋をノックすると、案の定、エメットがうやうやしく扉を開けた。 どやどやと部屋になだれ込むとグレートローズは迷惑そうな顔をした。相変わらずベッ ドの中にいる。 「ローズ、ベッドで寝たきりでいるほど老いぼれてはいないはずよ」ヴィオラが睨むとグ レートローズはすまして言った。 「習慣はそう簡単に変えられるものではない。ところであのかたまりは持ってきたのか い?」 「ああ、ここにある」アスターはベッドのそばにあるテーブルの上に乗せた。 「これがご先祖様かい? ぱっとしないね」しげしげと見つめ手に取ろうとするローズを アスターはとめた。 「ローズおばあちゃん。その前にひとつ聞きたいことがあるんだ?」 ローズは眉を上げた。「なんだい?」 「ドン、ドナルドって人を知ってる?」 ローズはなに言わなかった。それから気分が悪くなってきたとかなんとかいってベッド にもぐろうとしたところ、ヴィオラに掛け布団をはがされた。 「ローズ!」 巨大なベッドの海には、今までためこんだ恐ろしい物がたくさん浮かんでいた。その中 でローズの小さな足は真珠のビーズと水晶できらきらと輝いていた。 「逃げた花嫁! ローズおばあちゃんがそうだったんだ」 ローズは観念したようにベッドから這い出ると、寝巻きで表せる最大限の威厳をまとい、 ゆっくりガウンを羽織ると豪華な椅子のひとつに座った。 「おまえはドンに会ったのかい?」 「ええ、いろいろと世話になった」アスターはちょっとためらった。「ドンから頼まれた んだ。この家に入れるようにして欲しいと」 化石のように動かないローズにアスターはたたみかけるように続けた。 「ドンはこうも言ってた。恨んではいない、ただ会いたいだけだって」 宙をぼんやり見つめさまよっていたローズの心が戻ってくると、今いる場所を思い出す かのようにまわりを見回した。 「ローズ、いったいなにがあったの? よかったら話してちょうだい。わたしたちが力に なれるかもしれないわ」ヴィオラは母を心配した。
ローズは結婚式の日に逃げ出した花嫁だった。もちろん相手はドン。ふたりは愛しあっ ていた。ローズは自分の力も、夫になった相手がどうなるかも知っていたがドンに言うこ とができなかった。ドンの求婚を何度も断ったのだが、彼の情熱にそしてドンを愛する気 持ちに負けた。どうにかなるのではないかとひそかに頑張ってみたのだがローズの力では どうにもなりそうもない。 ローズは約束された短い幸せのためにドンを失いたくはなかった。元気で生きているド ンを残すために逃げた。なのに皮肉にもドンは事故で死んでしまった。ローズにはすぐド ンがそばきていることがわかったが会うのが怖くてバリアを張った。ローズはドンに知り 合う前にいたジプシーの仲間のところに戻り旅をしてまわったが、運命がどうしてもあき らめなかった。ローズは再び求婚された。相手はお金持ちでかなりの年上だった。老人は 言った。あなたと結婚してかわいい子供を持つ夢を見た。 ローズは自分の持っている宿命を正直に話し、誰とも結婚するつもりがないことを告げ た。老人はローズの目の前に置かれた水晶玉を見つめながら言った。 「あなたとわたしが一緒になることは運命だと思う。わたしは今日まで仕事だけに生きて きて、ほかのことにはなに興味がなかった。そして結構な財産を作ることができた。そし てこの年になって虚しくなった。いくらお金をためこんでも楽しむことができない。楽し み方がわからない。おまけに家族もそれを残す子供がいない。今さらながら後悔している。 わたしのことを愛してくれとは言わない。どうせ後のしれた年だ。かわいい女の子が生ま れるとわかっていたらわたしは幸せに死ねる。どうかわたしと楽しく暮してくれないか」 ローズはそうした。老人の持つお屋敷に移るとささやかな結婚式を挙げ老人と楽しく暮 した。老人は最後の時間まで幸せだった。そしてそのときがくるとローズに感謝して逝っ た。
「まあ、そんなことがあったの。ちっとも知らなかったわ。ローズはいつもわたしの父は とてもいい人だったと言っていたけど詳しく話してくれたことはなかった。おぼろげなが ら確かにおじいちゃんのようだった記憶があるけど……そんなことだったとは……」ヴィ オラが感慨にふけっていた。 「ローズおばあちゃん。ドンはおばあちゃんに会いたがっている」 アスターの言葉にローズはなに言わない。 「ドンは……今でも花婿の衣装を着ているんだよ。それにその靴をとても自慢していた。 おばあちゃんだって今でもその靴を履いている。忘れたことはないんでしょ?」 「……怖いんだよ。わたしはひどいことをした。それにまさかあんなことになるなんて。 顔を会わせるのが怖いんだ」 「でも会ってくれるよね?」 呻き声にも聞こえるため息をつきながらローズは言った。「彼は若いままなんだろ?」 大きく息を吸ってローズが口を開こうとしたとき、エルダーが叫んだ。 「待って。僕はこれを見逃したくない!」アスターに向かって指を曲げまねいた。「見え るようにしてくれ」 アスターはためらった。「いいのか?」 頷くエルダーにアスターは言った。「ウィンクしてみて」 エルダーはにやりと笑うと両目を閉じた。 「わたしもだ」オークが落着いた声で言った。 「わたしが見えるようにしてあげる。一時的にね。それ位たいしたことないわ」そう言う ヴィオラの申し出をオークは断った。 「たいしたことなくても嫌だ」 「それじゃ、わたしも」ヴィオラは少し微笑んだ。「そうすれば力を使わずにすむ」 アスターは不安な面持ちで並ぶ家族の端に立った、そのとき部屋の隅から小さなせきば らいが聞こえた。 「よかったら……わたしめも」エメットが控えめに言う。「わたしはこの屋敷のことを把 握していたいのです。皆様をお守りするのがわたしの役目ですから。わたしは皆様のこと をとても大切に思っております。それに、口を必要以上に開くことはありません」そうし てウィンクした。 両親とエメットには片目に、エルダーは望むとおりに両目に唇を寄せた。 アスターは秘密結社の結束式をしているようだと思った。まぶたにキスをされて違う世 界に踏み出す。これでいいのか? みんなが望んだんだ。きっといいのだろう。家族とは ありがたいものだ。 「まだなにも見えないわね。さあ、はじめましょうか?」ヴィオラが励ますようにローズ の手を握った。 ローズは再び大きく息を吸うと目を閉じ、もうひとつの手で大きな円をかいた。 張りつめた弓の弦をぴんとはじくような音が余韻を残しながら部屋の中にこだました。 ボンッと音はしなかったけれど、まるではじけるようにドンとフィンが現れた。 『ローズ!』ドンはローズを抱きしめようとして突き抜けた。『ああ、なんてことだ。忘 れてた』悔しそうに言った。 「ドン。久しぶりね」ローズは青ざめている。「変わらないわね」 『ああ、君も変わらない』これにはローズが顔をしかめた。 ふたりはお互いを見つめたままなにも言わない。 『綺麗な靴だ。とても似合っている』 ばつが悪そうにもぞもぞと足を動かすローズにドンは優しく微笑んだ。『過ぎたことだ。 君は僕を守ろうとしたんだろう? 結局はうまくいかなかった。でもそれは君のせいでは ない。わたしがみっともなく酔っ払って勝手に溺れ死んだんだ』ここでいったん言葉を切 ると恐ろしい顔で睨みつけた。幽霊というのは生きているときよりも迫力がある。ふつう なら気絶してしまいたいほどだ。 『だが、君はわたしに話してくれるべきだった。あんな仕打ちをしたことは許せない!』 「しかたなかったのよ! あなたがどうせ死んでしまうとわかっていたらあんなことはし なかった。わたしたちは自分の先のことは視えないのよ!」ローズは真正面から受けてた った。 「それに……怖かった。あなたが目の前で死んでいくのを見るのが怖かった。どうしてい いのかわからなかった」ローズの声は小さくなっていった。「恨まれてもしかたがないと 思う。あなたの望みはなんなの?」 ドンはもう一度ローズを抱きしめようとしていらだった。 『恨んではいない。いや、恨んではいたがそれよりも、もう一度君に会いたかった。君の 姿を見て声が聞きたかった』 ローズは自分の姿を見下ろし寂しげに笑った。「見せるほどのものではないわね」 『そんなことはない。君は以前とまったく変わらない』ドンはこの上なく幸せそうに優し く微笑んだ。
熱く燃え上がるふたりをそっと残してみんなは居間に下りた。 「よかった。一時はどうなるかと思った。ローズのあんな幸せそうな顔を見たことがない」 ヴィオラがハンカチを鼻にあてながら言う。みんながウサギのように赤い目をして座って いると、同じように目を腫らしたエメットがまたもやお茶を用意する。 「でも肝心なことを忘れていないか? 僕たちはアスターの問題で集まったんだ」エルダ ーが最初に現実に戻ってきた。 「そうだったな。あまりの出来事に忘れておった」オークが目の前に置かれたカップを見 つめた。 エメットが最後にフィンの前にお茶を置いたとき、エルダーは眉をひそめた。「君は飲 めるの?」 『かたちだけ』フィンは頬を赤く染め目を輝かせていた。『あなたに会えてうれしいわ。 わたしのことが本当に見えるのね』 あまりにも興奮するフィンにエルダーはさらに眉間のしわを深くした。「どこかで会っ た? 君は僕の知り合い?」エルダーの頭の中でカードを並べた。絵柄はもちろん今まで つきあった娘の顔。 『ええ、そうとも言える』フィンも顔をしかめた。しばらくためらっていたが、エルダー にじっと見つめられて笑いだしたくなった。『あなたの彼女ではないわ。あなたの母親よ』 時が流れを止め、静寂があたりを包んだ。 「フィン!」アスターが叫んだ。「なんで今まで言わなかったの!」 『だって……わたしはこの子を捨てたのよ。簡単に言えるわけないじゃない』フィンは肩 をすくめた。 エルダーはフィンを見つめたまま動かない。仮面を貼りつけたように表情が読めなかっ た。 「あなたがエルダーを玄関先に置いて行ったの?」ヴィオラの優しい問いかけにフィンは 下をむいた。 『しかたなかったの。あのときはそうするしかなかった』
フィンは生きていたとき、自由奔放な人生を楽しんでいた。華やかで美しく楽しいフィ ンは男たちからちやほやされ、そんな男たちをを手玉に取り、おいしいところだけかすめ とり、堕落した人生を楽しんでいた。 たくさんの男たちとつきあったが、愛することはなかった。子供ができたことに気づい たときフィンは自分でも意外なことにうれしかった。だが誰の子かはわからない。これか らはまともな生活をしなくては、人生を立て直そうとしたのだがそう甘くはなかった。今 までの自堕落な生活のつけを払うときがきてしまったかのように、思いどおりにはいかな かった。子供ができたことを知った男たちは自分の子だと主張した。幸せなことにフィン が誰も愛していないにもかかわらず、男たちはフィンを愛していた。そして是が非でもフ ィンを手にいれようとした。フィンはいちばんお金持ちの男に的をしぼった。だが、問題 がある、男には妻がいた。フィンは愛人の立場になる気はなかったので、男に妻と別れる ように迫った。まったく勝手なものだが自分の子には後ろ指をさされるような人生を歩ま せたくなかった。 男の妻は激怒した。だがそれを表に出さないだけの経験としたたかさを持っている。夫 は今までも散々遊んできた。それを黙認してみているだけの度量はあった。今度の女はあ つかましさのもほどがある。それに……夫がかなり入れ込んでいる。ほっておくわけには いかない。妻も当然ながら今の立場を失うつもりはなかった。 手切れ金の打診をしてきた男の妻をフィンは鼻であしらった。それが戦いの幕開けだっ た。 そこにはもう道理などない。女の意地が炸裂するばかり、あいだにいるはずの男の存在 など、もはやどうでもよかった。ふたりはこの戦いがどちらかがいなくなるまで続くと考 えた。気が抜けない日々が続く。 階段には滑りやすいように蝋が塗ってあるかもしれない。あるいは暗闇の中、突き落と されるかも。食べ物はまず誰かに食べさせるか、猫やネズミにやってしばらく様子を見て から食べた。人気のないところには行かない。いつも背中に目をつけて歩いた。そして人 殺しでつかまるのはもってのほか、それぞれが水面下で慎重に、用心深く動くのでなかな か思いどおりにはいかない。そうこうするうちに、男の子が生まれた。 フィンはじっと赤ちゃんを見つめた。信じられないほど美しくかわいいと思った。そし てこれほど愛しているものはないと。 一方、子供が生まれたことを知った男の妻はあせった。しかも男の子! 妻には女の子 しかいなかった。妻は最後の手段に出た。殺し屋を雇ったのだった。 フィンは子供さえいれば男のことも妻の座もどうでもよくなった。だがときすでに遅し、 やりはじめたことをとめる手立てがなかった。目の血走った男の妻の怒りと不安はとどま ることを知らず、フィンを消すことしかもはや頭になかった。 そしてフィンはいつどこから現れるのかわからない死神におびえることとなった。フィ ンは決心した。このまま隠れるのも、逃げまわるのもう嫌だ。決着をつけてこの町を離れ よう。その前にやっておかなくてはいけない。なんとか町を離れると目立たない田舎を選 んで目的のものをさがした。そして見つけた。温かい家族、自分によく似た奥さん。 フィンはこっそりとかわいい赤ん坊を玄関の前に置いた。 「はっ! ひどい話だ! 誰の子かわからないうえに、贅沢したいがばかりにひとんちの 旦那を横取りしたりしようとして」エルダーはいきまいた。「わがままで身勝手なだけじ ゃないか!」 「そのとおりだと思うけど、まあ、エルダー落着いて」ヴィオラがフィンに先をうながす。 「で、あなたは今、幽霊。殺されちゃったの?」 『ええ、町に戻ったとたんに胸を一突き。奥さんに殺されたの。いさぎよく奥さんに謝り に行こうとしたの。もうやめようって。でももうまともに聞いてくれる状態ではなかった』 フィンは透き通るように青白くはかなげに見えた。幽霊でしかも美人であるということは その効果を倍増する。『わたしはそれまでの人生をいろいろと反省してたのよ。そしてや り直すつもりだった。あなたのことも、すべての片がついたら迎えに行くつもりだった。 そしてふたりで貧乏でもまっとうに暮らすつもりだった』 「迎えにくるつもりなのに、自分に似た人をさがしたの?」エルダーの声は冷たかった。 『たぶん……心のどこかではわかっていたの。たぶん駄目だということが。だからヴィオ ラの顔だけじゃない、大切なあなたを預けられる温かくて素晴らしい家族を選んだのよ』 そう言うと茶目っ気のある笑顔をオークにむけた。『だけどそのときはまさかこんな変な 家族だとはわからなかったわ』肩をすくめると目をくるっとまわしながらつけたした。 なにか言いたげに口をぱくぱくするエルダーを制してオークが言った。 「うちの家族を選んでくれてありがとう。エルダーみたいな素晴らしい子供をいただける なんて。おかげでわたしたちはとても幸せだ」横でヴィオラがにっこりと微笑む。 「本当にいい家を選んだよ、フィン。エルダーはまっとうに育っている」エルダーが口を 開く前にアスターが言った。 「まったく! みんなおかしい。この家は狂ってる。なんなんだ、この会話は! いった い僕はどうしたら……」最後まで言いきらずに、激しい勢いで椅子を倒しながらエルダー は出て行った。 顔を見合わせる家族にフィンは申し訳なさそうだった。『わたしが現れなかったらよか ったんだけど、あの子のことが気になってしかたがなかったの。ほんのちょっとしか抱い たことがないの。あの子がどんな大人になるか、わたしみたいないい加減な人間になった らどうしようと心配でしかたなかった。でも皆さんのおかげで本当にいい子に育った。お まけにすごいハンサム』 「君はあの子になんて名をつけてたの?」オークが優しく訊いた。 『名前はつけなかった。すべてが片付くまでお預けにしていたの。楽しみにしていたの。 そのときがくるのを』大きなため息をつくとフィンはひとり頷いた。『自業自得よね。よ くわかっているわ』 「フィン。君のしたことはひどいと思うけど、今もなんだか浮ついているように見えるけ ど、僕やみんなのことをいろいろと心配して面倒見てくれた。エルダーもきっと少しは君 を理解してくれるよ」 『ありがとう。慰めになるわ』フィンの声はちょっと冷たかった。『さて、あの子をつか まえて少しばかり理解を深めてくるとするわ。せっかく会えたんだもの、わたしを許して くれるまであきらめない』
「しかし驚いたな」つむじ風のように消えたフィンを目で追うようにしてオークが言った。 「本当に知らなかったの?」ヴィオラが尋ねるがアスターは知らなかったとしか言いよう がない。どこかで見たような顔だと思わないでもなかったが。 「エルダーは大丈夫かな?」 「あの子は大丈夫よ。現実的な子だし、きっとうまく対処するわ」 「よくわかってるんだね」問いかけるアスターにヴィオラはきっぱり言った。 「わたしの子でもある」 「それよりあなた大丈夫?」ヴィオラはジェシカに声をかけた。ジェシカは一部始終を黙 ってみている。何を考えているのかわからない。「見てのとおり、ここはちょっとばかり 変わった家だわ。わたしたちは慣れてるし当事者だからしかたがないけど、あなたは我慢 しなくてもいいのよ」ヴィオラの気遣いにジェシカは首を振った。 「ええ、そうですね。そうすればアスターの問題は先送りにすることができる。何もかも が一度に起ってこの大変な時期に……まったく……そうですね」あわてる様子のアスター を横目に見ながらジェシカは落着いて言った。「だけどどうせ同じことです。アスターの 問題が解決しないとわたしたちは結婚できないんでしょ? ならばいっきに片をつけたほ うがいいと思います。それに……わたしにも幽霊が見えるんです。自分ではすでに当事者 のひとりだと思っています」 アスターは拍手喝采したい気分だった。かわりに誇らしげにジェシカを強く抱きしめた。 「この家は面白いわ。エメットの気持ちがよくわかる」ジェシカはアスターの耳元で囁い た。
アスターが呆れた顔でジェシカを見たまさにそのとき、エメットが気配を消して近づい てきた。飛び上がるアスターを尻目に涼やかな顔でグレートローズがみんなを呼んでいる ことを告げた。 「ふたりは落着いたのかしら?」ジェシカの問いかけにアスターは考えた。 「ドンはいい奴だ。グレートローズは……ドンが好きになったくらいだからきっといい人 だ。ふたりはお揃いの靴を履いている。きっとうまくいってるさ」説得力のない答えにジ ェシカは眉をひそめる。 エメットはエルダーとフィンを呼びに行ったので先につくことができない。なんとなく いい気分だった。 部屋をノックして入るとドンとローズが仲良く隣り合って長椅子に座っている。驚いた ことにローズは寝巻きから白いレースが一杯ついたドレスに着替え、髪を梳きゆるく結い 上げていた。 「まあ、ローズ! まるで結婚式のようだわ」ヴィオラの言葉にふたりして頬を染めた。 「よしとくれ」ローズはそう言いながらもまんざらではなさそうだった。 エルダーとフィンがやってきた。 『まあ、ドン! まるで……』ドンは手を振って最後まで言わせなかったがとてもうれし そうだった。 『フィン、息子との対面は終わったようだな』ドンが立ち上がってエルダーのそばにきた。 「君の気持ちはわからないではない。でもわたしたちは残していったもののことが忘れら れないからこそ、ここにこうしていつまでも往生際悪く、みっともない姿をさらしている んだ。フィンはいつも君のことを追っかけていた。君は気がつかなかっただろうが。そし てわたしたちはいつも君の自慢話を聞かされた。本当にうんざりして君が嫌いになるくら い」軽くウィンクをした。『わたしからもお願いするよ。どうか許してやってくれないか。 この馬鹿な母親を』 エルダーは唇をかんで黙っていた。フィンはドンを睨みつけた。 「こんな状況ではゆっくり考えることもできない。あなたはすぐに消えたりはしないんで しょ?」エルダーの言葉にフィンは何度も頷いた。 「では、本題に入ろうかね」ローズが宣言した。
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