4 新生活
「医者は風邪かはしかだと言ってるんだろ」 ヴィオラはローズの部屋で青い顔をして座っていた。 「ええ、でもあの子は小さい頃、はしかはすませてるし、なんだかうなされて苦しそう」 「ただ、様子を見るんだよ。なにか起こってもそれがあの子の運命だよ」 「そんな……」ヴィオラは胸に置いた手をきつく握りしめる。 「あの子はもう大人なんだよ。いつまでも守ってやるわけにはいかない。いつかはひとり で生きていかなくてはいけないんだ。お前はあの子と一緒に生きて死ぬまで守ることがで きる。だけどそれがあの子のためになると思うかい。今だってちょいちょいやっているん だろ。お前の旦那はお前を待ってはくれない」 「意地悪なことを言わないで」ヴィオラはがっくりと肩を落とした。
出だしからつまづいてしまったアスターはばつの悪い思いをしながら学校に行った。も うすでに授業ははじまっており、アスターは正式な紹介もなくいつのまにか現れた先生と いった状況ではじまった。 学校長は忙しい人でいつもどこかに行っていない。アスターがはじめて出勤した日も、 いろいろな注意事項や引継ぎは他の先生方に訊くようにと言うとさっさと出かけて行った。 同僚への紹介もそこそこで誰がなにやらわからない。とにかく目の前のことからはじめる しかなかった。幸い担任となるクラスはなかったので、自分の授業がある教室に行って教 えればよかった。子供たちはアスターの時代よりませてはいたが、先生を目の上のたんこ ぶとみなす態度は変わらない。つまり生徒から積極的に寄ってくることもなく、アスター も頼れる兄貴になろうとは思ってはいなかった。かといってやる気がないわけではなく、 やるべきことはちゃんとやった。まだ生徒のこともつかめないし要領も悪いと思うのだが、 よく理解できるような授業をしようと努力もした。新米教師としてはいまのところなかな かうまくいっていると自負していた。これといった大きな問題もない。
気持ちに余裕ができるとあの奇妙な店のことが気になりだし、帰りに寄って見ることに した。似たような路地と家ばかり。何度も迷ったすえ、やっとの思いでたどり着いて見る と思わず目を疑ってしまった。間違いなくここのはずだ! 隣の家の見事なペチュニアの 花に見覚えがある。 そこにはなにもなかった。店があった場所はぽっかりと空き地になり煉瓦のかけらもな にも落ちていない。並んだ家にあいた隙間はまるで前歯が一本抜けたように間が抜けてい た。 ちょうどそのとき、隣家の奥さんがジョウロを持って出てきたので聞いてみることにし た。 「ちょっとすみませんがここにあった店はどうなったんですか?」 「あの店のお知り合い?」ぱりっと糊のきいた白いエプロンをつけ、灰色の髪をきっちり まとめた奥さんは怪訝な顔をした。 「いえ、そういうわけではないんですが。この間ここで買い物をしたばかりだったもんで」 「それが奇妙な話なのよ」奥さんはとうとうと話しはじめた。誰かに話したがっていたよ うだ。 「ある朝目が覚めたらもうなんもなかったのよ。ゴミひとつ落ちていなかった。わたし は夜、寝つきが悪いほうなんだけど何の音も聞こえなかった。この辺は静かな住宅街だか ら夜中の音はよく響くのにね。まるで手品のようにぱっと消えてしまったのよ。でもよか ったわ、得体のしれない気持ち悪い店だったから。ときどき奇妙な鳴き声が聞こえるのよ、 変な色のついた煙が煙突からでることもあったし。文句を言いにいくと店のくせにいつも 鍵が掛かっているのよ。でもね、この間、夕食の用意をしていて塩を切らしているの気が ついて、どうしても必要だったからしかたなく行って見たら開いてるのよ。それで分けて もらおうとしたらまったく、忌々しいことにあいつはちょっとばかりの塩に法外な値段を つけやがった。特別な塩だとか言ってね。まったく、綺麗な顔をしてぼったくりもいいと ころだよ、あの野郎は……」奥さんは話しているうちにだんだんと興奮してジョウロを振り 回し、アスターは水がかからないように一歩下がった。 そこでふと我に返った奥さんは恥ずかしそうに「おやまあ、わたしとしたことが。ちょ うどここにも水を撒こうと思っていたのよ。今日は埃っぽいから。また水を汲んでこなき ゃ。では」そういってそそくさと家の中に入っていった。 アスターは狐に包まれたような気分だったが上着のボタンは確かに存在する。あの文鎮 だって消えてはいないはずだ。初出勤の日、遅れそうになったので急いで身支度をしたア スターは学校についてからポケットに文鎮をいれたままでいることに気がついた。その重 たさに苦笑しながらそのまま自分用の机の引き出しに放り込んだ。 あの老人はどこに連れて行かれたのだろう。困ったことになっていなければよいけど。 アスターはなんの義理もないのにちょっと心配した。 その頃、家に入った隣の奥さんは考えていた。そういえばあれから塩を切らしたことが ないわね。それにあれを使いだしてから夫は料理の腕が上がったと褒めてくれる。やっぱ りお買い得だったのかしら?
同僚の顔を覚え、学校の雰囲気にも馴染んできた頃、あるクラスが気になりはじめた。 なんだか変な感じがする。別にどこといって変わったところはないのだが、教室に入ると なんか肌がぞくぞくするような妙な空気を感じるのだった。 気になるのでそのクラスの担任で、この学校に長年勤めているというベテランの国語の 先生に廊下でそれとなく訊いてみた。 「あのう、先生のクラスなんですが……」 「わたしのクラスがどうかしましたか?」授業をしている時以外はいつもなにかを口にい れているその先生は、このとき教科書をわきにはさみ、片手にピーナッツの袋を持ってい た。特大サイズのその身体では持ち物がすべてミニチュアサイズのおもちゃのように見え る。膨らみそこなったパンのような手で話しながらもせわしなく器用に小さいピーナッツ を一つづつ口に放り込む。いっそひとつかみ一気に口にいれてしまえと思ってしまうその 動きにいらいらしながらも話を続けた。 「その、先生のクラスのネリーのことなんですが……」 ネリーと言うのはさらさらの長い金髪と大きな青い瞳を持つかわいい二年生の女の子だ った。教室のいちばん後ろ、窓側の席にとてもおとなしく座っている。とても静かで、授 業がはじまる前にまわりの生徒たちがわいわいと騒いでいるときでもひとりぽつんとぼん やり外を見ている。手を上げて答えたこともない。いや声を聞いたこともないかもしれな い。ネリーの存在に気づいたのはずいぶん後になってのことだった。それまではそんな余 裕がなかった。 「ああ、先生は学校を休んでいたから話を聞いていなかったんでしたな」国語の先生は空 になったピーナッツの袋を握りつぶした。アスターはホッとしたのもつかの間、新しい袋 をポケットから取り出すとまた口を動かしはじめた。今度はヒマワリの種だった。 「ネリーの両親はあの子の席をあそこに置くことを強く望んでおる。教室が見渡せるし外 の景色もよく見えるからね。普通だったらそんな勝手なことは許されないんだが、あの子 は特別だし、それにネリーの両親はとてもお金持ち。今でも多額の寄付をしてくれておる んです。校長もあそこに机を置くことを断るわけにはいかんのですよ。あの子のことはそ っとしておけばいい、クラスのみんなも納得しておる」 そうはいってもアスターは気になる。ある日、黒板の計算を書き取りさせている間、教 室の中をゆっくり回り、みんなの様子を見てまわった。ネリーのところにくるとネリーは ぼんやり外を見ている。 「ネリー。教科書とノートぐらい机に出したらどうだい」どうしても言わずにはおれなか った。 ネリーは驚いたようにアスターを見つめると、素直に勉強道具を広げた。 「よろしい」アスターは満足して教壇に戻った。クラスは息をひめたようにしんとなった がやがて手を叩く者や笑いだすものが現れた。 「先生、いいねぇ!」 それからはネリーを普通の生徒と同じように扱おうとした。ただ、ネリーは異常なまで に恥ずかしがり屋で相変わらずしゃべることはない。近づいて見てみるとノートは真っ白 だった。 「ネリー、ちゃんと黒板の問題を写して解かないとだめだよ。たまには手を上げてくれる と先生はうれしいな」 声をかけてみても恥ずかしそうに首を振るだけだった。クラスメイトは「先生、無理を 言ってネリーを困らせちゃだめだよ」そう言ってにやにや笑った。 職員室にいると食べかけのドーナッツを手にもった国語の先生が近づいてきた。「いや あ、先生はなかなか洒落たことをなさっているようだが、あまり無理せんほうがいい。そ れともネリーの両親の機嫌を取ろうとしておるのかな」そう言うとアスターの頭の上にド ーナッツのくずを撒き散らして行った。 アスターは憤慨したが態度は変えなかった。その頃にはクラスメイトもネリーに挨拶を するようになっていた。ネリーが言葉を返すことはなかったがうれしそうな顔をしていた。 そしてしだいによく微笑むようにまでなった。 学校生活はほとんど順調だった。アスターは噂を耳にした校長から目をかけられるよう になったおかげで、他の先生のやっかまれたり、生徒たちがときどき隅でこそこそとアス ターの噂話をしているようだが気にはならなかった。別に校長やネリーの金持ちの両親の 歓心を得たいわけでもないし、自分はやるべきことをやっているんだ思っていた。
もうじき学年もおしまいに近づいてきた頃、次には自分が担任となるクラスが欲しいな んて考えながら家に帰ると、両親が食卓の前に黙りこんで座っていた。目の前には冷めき ったお茶が置いてある。 今日は確か店が休みで両親は久しぶりに村に帰りデイジーおばさんに会うはずだった。 父親の店は順調で今度はパンを売るだけでなく、ゆっくり座ってお茶とケーキやお菓子を 食べることができる場所を作ることにした。その準備や改築でとても忙しくなったふたり は長い間村に帰っていなかった。 エルダーのほうも働きはじめて数年たち、ちょうど仕事が面白くなりはじめた頃で忙し く、アスターは不器用なたちなので仕事のことで精一杯でほかのことを考える余裕がなく、 誰もが久しく村に帰っていなかった。 「どうしたの? ふたりとも暗い顔をして」 「デイジーがいなくなっちゃたのよ」母親が心配そうに言う。 「このところ忙しくて連絡も取り合っていなかったからな。行って見ると書置きがあった」 「なんて書いてあったの?」アスターがそう言ったときエルダーも帰ってきた。 「どうしたの? 楽しそうなお茶会だね」 「デイジーおばさんが置手紙をして消えてしまったらしい」アスターがかわりに答えた。 「へえ、珍しいね。デイジーおばさんがどこかにいくなんて」 デイジーは村から出たことがなかった。アスターが知る限り旅行に行ったこともない。 「で、なんて書いてあったの」エルダーは書類の一杯詰まったカバンを床にどすんと置く と、脳みそが一杯詰まった身体を椅子の上にどすんと置いた。 「しばらく出かけますが心配しないで。詳しいことは帰ってから伝えますって」母親は言 った。「なんにもわからないのよ。以前のように一緒にいるわけでないからデイジーのこ とがすべてわかるわけじゃないもの。わたしたちが出て行ったあと、しばらくは寂しそう にしてたけど、ここ何年かは吹っ切れたように明るくなってたし」母親は胸の上で手を握 りしめた。「なにか困ったことになってなければいいけど」 「母さんは心配しすぎるんだよ。ちゃんと心配しないでって書いてあるんだろ。そのうち 元気な顔してなにもなかったように戻ってくるさ。子供じゃないんだから。デイジーおば さんにもおばさんの生活があるさ」エルダーはそれほど気にとめていなかった。 確かに母は年を取るごとに心配性になっている。もっとも母の場合は年を取るというの は適切ではない。母は年を取らないのだ、いつまでもかわらない。どんな化粧品を使って いるんだろう。それとももしかしたら、あの店で……。いつのまにかアスターは母親の顔 をじっと見ていた。 「アスター、ぼんやりしてどうしたの」ヴィオラが怪訝な顔をする。 「あ、いや、なんでもない。きっと兄さんの言うとおりだよ。一応念のため僕も近いうち に時間を作って見に行って見るよ」 「ええ、もしもってことがあるからエルダー、あなたが行ってくれないかしら?」 「なんなの、そのもしもって?」アスターは気分を害した。 「いえ……、あなたはなんだかそそっかしいし、おっちょこちょいだし、怖がりだし…… とにかく今回はエルダーにお願いするわ」 「いいですよ、お母さん。アスター、気にするな。お前が頼りにならないってわけじゃな いんだ。僕が頼りになりすぎるんだよ」エルダーはアスターに向かってにっこり笑った。 アスターは頭にきた。この家ではいつも自分は子ども扱いされる。学校での姿を見せて やりたい。アスターは椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると部屋に戻っていった。 エルダーもやれやれと言った顔をすると自分の部屋に戻った。 残ったオークとヴィオラはしばらく黙っていたが、冷たいお茶をひと口飲んでヴィオラ が言った。 「確かめて見ようかと思うの」 「いや、そんな必要はない。僕が最後にデイジーに会ったとき幸せそうだった。そう、ま るで恋をしているように。前にも同じような顔をしていることがあった。誰かに恋をして いたことが」 「まあ、いつのこと?」 「ずいぶん前だ、僕たちがまだ一緒に村で暮らしていたときのことだ」 「ぜんぜん知らなかったわ」 「君はアスターをお腹に抱えそれどころではなかった」 「今度も誰かいい人ができて、その誰かに会いにいっているだけなのかもしれない」 「でも、なんで教えてくれなかったのかしら」 「驚かせたかったんだろう」 オークもそう信じたかったが本当は気になることがあった。前のときオークが好きな人 でもできたのかとからかうとデイジーはそんなことないと認めなかったが、オークは間違 いないと確信していた。なのになにも起こらなかった。そしてこの間も同じことを訊いた。 デイジーはまだわからないといい複雑な顔をした。いったいどんな相手なんだ。オークは 詳しく訊けばよかったと悔やんでいることをヴィオラに言う気はなかった。 「子供たちの言うように僕たちは心配しすぎているだけかもしれない。そのうちなに食わ ぬ顔をして戻ってくるさ。そのときはきっちりとっちめてやる。もうしばらく待とう。君 もなにもしなくていい」オークは食卓の上に置かれたヴィオラの手を包むように握った。 「グレートローズにも言うな。これ以上心配かけたくないんだ」 「わかったわ」
夕食の準備ができたと呼ばれ食卓についたときもアスターの怒りはまだおさまっていな かった。だが子供ではないのでエルダーに塩を取ってと言われたときには無視せずきちん と渡したし、父親がくしゃみをしたときにはみんなと一緒に「お大事に」とも言った。 食事は執事エメットが作ってくれる。おおかたの家事はエメットがやっていた。広い屋 敷なので掃除や庭の手入れなどには人に頼んでいるが、お客がくる家でもないし、アスタ ーの家族は自分たちの面倒は自分で見るのでエメットひとりでも十分まかなっていけた。 エメットはとても礼儀正しくあまりしゃべるほうではない。アスターの家族にちょっと 距離を置いて見守っているようだった。ローズはとても高い給料を払っているらしく、オ ークが相変わらずおんぼろトラックに乗っているのにエメットは最新のかっこいい車を持 っている。それも何台買い換えたかわからない。子供はふたり、男の子と女の子がいるそ うだが会ったことはない。普段がとても地味なので反動なのだろうか、休みの日やたまの 夜には別人のように派手な格好をしてドライヴや芝居へと出かけていく。 アスターがまだ子供だった頃、エメットと話したことがある。 「エメットはいつからここにいるの?」 「もうかれこれ四半世紀になります」 「それは長いってことだよね。じゃあグレートローズや母さんの若い頃も知っているんだ」 「……まあ、そういうことになりますね」 「どうしてここにきたの」 「それまではよそで勤めていたのですが、ここの執事をしていた叔父に後を継いでくれと 頼まれたのです。叔父には子供がいませんでした。わたしたちの一族は執事の家系です。 それもみんな優秀な成績で執事の学校を出ています」誇らしげに言った。 「今までによそに行こうと思ったことはある?」 「いえ、ここは厄介なお客様もいらっしゃいませんし、面倒なパーティもございません。 とはいえローズ様おひとりのお世話ではいささか物足りませんでした。あなたがたがいら してとてもうれしいです。それでも皆様は手の掛からない方ばかりなので楽させていただ いております。ここは面白いところです。わたしが引退するときがきたら息子に後を継が せようと思っています」 「息子さんはどこにいるの?」 「今、息子も娘もよそで修行中でございます」 「ふーん」アスターは子供らしい好奇心で訊いた。「ねえ、優秀な執事って?」 「それは見ないこと、聞かないこと、話さないことです」 アスターには意味がわからなかったが大人の世界の約束事のひとつなのだろうと思い、 あえて訊かなかった。「だからエメットは普段あまりしゃべらないんだね」 「そうでした。わたしはいささかしゃべりすぎましたな」そう言うとそそくさと自分の仕 事に戻っていった。
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