6 ネリー 
 アスターが勤めはじめて一年になろうとする頃、校長から呼び出された。なにかまずい
ことでもしたか?
 考えてみたが思いあたるこはなかった。と同時に大人になった今でも呼び出されるとな
にか不安な気持ちになるのがおかしかった。
「なにか御用ですか?」
「ああ、呼び出してすまんな。実はお願いがあるんだ。君も知ってのとおり明日授業参観
がある」
 アスターはホッとした。なにもやましいことはないのだがそれでもやはり校長の前では
緊張する。だが、校長の言う授業参観というのはアスターには関係のないことだった。毎
年その学年が終わる最期の日に保護者を招待し普段の授業を見てもらうというものなのだ
が、それは担任の先生が受け持つことになっていた。アスターには担任のクラスがない。
「実はネリーのクラスの授業は君にやってもらいたいんだ」
「でも、僕は担任ではありませんし何の準備もしていません」アスターは突然の話に驚い
た。
「いや、心配せんでもいい。いつものような授業をすればいい。あの馬鹿は……いや担任
は食あたりで動けんのだ。今まであの巨体を動かしていたのが不思議なくらいだがな。こ
れからは少しばかり、いや、おおいにしゃべること意外に口を使うことをやめさせんとな、
まったく。ところで明日はネリーのご両親もくる。君のことはネリーのご両親にも話して
おる。楽しみにしておるそうだ。くれぐれも失礼のないようにして欲しい。ネリーのご両
親はとても愛情深い、そして我校にとってとても懐の大きな大事な方なんだ。お願いでき
るかな?」
 断れるわけがなかった。これはお願いではなく命令なのだから。考えてもしかたがない、
アスターは言われたとおり、いつもとかわらぬ授業をすることにした。
 だが、当日いつもどおりにするのが難しいのがすぐにわかった。教室の後ろに並ぶ父母
たちはアスターの一挙一動をじっと見つめている。たくさんの好奇の目はなんだか予想し
ていたものとは違う。まるで見世物小屋の珍獣になった気分だ。普通は自分の子供に注意
を払うんじゃないのか?
 アスターは声がうわずらないように気をつけながら心の中で毒づいた。対照的に子供た
ちはどこか楽しげだった。なにか起こるんではないかとわくわくして浮き足立っているよ
うな……。
 ネリーの両親はすぐにわかった。ネリーの机の後ろにふたりよりそってネリーの背中を
見ている。とても控えめにしていたが母親の全身を飾る宝石、父親の袖で金色に光るカフ
スボタン、ふたりのいる場所はまるでスポットライトがあたっているかのようにピカピカ
光っていた。恰幅がよく押し出しの強いずんぐりとして頭が薄くなりはじめた父親と、夫
より頭ひとつぶん背の高いすらりとして輝く豊かな髪を持つ母親、ネリーがどちらに似て
いるかは歴然としていた。
 ネリーは他の子供たちのように親をさがしたり手を振ったりすることなく静かに座って
いた。
 アスターは平常心を保ち、いつものようにと心がけ、いくら金持ちの親がきているから
といってネリーを特別扱いはしなかった。もっとも、そんなことをしたら異常な恥ずかし
がり屋のネリーはかえって困るだろう。だから教室を回りながらネリーにいつもと同じよ
うに声をかけた。
「ああ、ネリー。よくできているよ」
 ネリーは恥ずかしそうに微笑んだ。アスターは見てなかったが後ろに控えるネリーの母
親はバックからハンカチを出すと目頭を押さえ、父親はそんな妻の肩に優しく手を置いた。
 無事授業は終わった。終礼が鳴ると保護者と子供たちは連れ立って帰っていった。アス
ターに声をかけていくものもいたが反応は悪くなかった。
 やれやれ、やっと終わった。授業参観がこんなに疲れるとはね。アスターが教壇で教科
書を片付けていると最後まで残っていたネリーの両親が近づいてきた。ネリーはいない、
先に出て行ったようだ。「はじめまして、先生。ネリーの父です」
 アスターは差し出された手を握った。
「ネリーのことをいつも気にかけてくれていると校長から聞いています。そのことが今日
よくわかりました。クラスメイトもネリーに声をかけていた。家内もわたしもとても感激
しています」
 母親は横でまだ目を赤くしてハンカチを握りしめていた。
「先生もご存知のとおりあの子はとても特殊な子です。それでもわたしたちはあの子を学
校に残したかった。これからもネリーのことよろしくお願いします。もしよかったら今晩、
ぜひ我が家に食事にきてくれませんか? 先生から見たネリーのことをいろいろ聞かせて
欲しいんです」
 アスターは断ったが父親の押しの強さに勝てなかった。 再び、恐怖の保護者会だ。ア
スターはため息をついた。
 校長にひとこと言っておいたほうがいいだろうと思い校長室に行くと、先客がいた。来
客用のソファーの肘掛に身体を預けやっと座っているやつれて青白い顔をした男だ。
「すみません。後で出直します」アスターは部屋を出ようとしたが呼び止められた。
「いや、かまわんよ。こいつのことは気にせんでいい」校長はソファーの男をあごでしゃ
くって言った。
「今日ネリーの両親から食事を招待されました。一応報告しておこうと思いまして」
「ああ、ネリーのご両親とはついさっきわたしも話した。ぜひ行ってきたまえ。君はうま
くやってくれるとわかっておった。彼らは君のことをとても気に入っておる。これからも
よろしく頼むよ。今度ぜひとも講堂を建替えたいんだ。今のは雨漏りしはじめたし、そう
そう音楽室ももっと壁を厚くしたい。それから……わかってくれるだろ?ネリーの両親は
とても大切な人なんだ」
「ご期待にそえるかわかりませんがやってみます」アスターは苦笑いをした。
「頼むよ」校長はにんまり笑い、それから厳しい顔をソファーにむけた。「さあ、お前も
とっとと帰れ。ここにいても何の役に立たん。帰ってもなにも食べるんじゃないぞ」
 よろよろと歩く男のためにドアを開けてやり、後に続くと恨めしそうな声で話しかけて
きた。
「うまくやったな、さぞかしいい気分でしょうな」
 アスターはその声に驚いて男の顔をよく見てみた。
「まったくわたしは運がない。わたしだってうまくやれたんだ。ネリーに話しかけること
もできる。そうともできるに決まってる」
 青白い顔の男はネリーの担任だった。
「まったく先生は役者ですな。そのぱっとしない見かけにだまされてしまう。ネリーの両
親だけでなく親父にまで取り入ってしまった。せいぜいうまくやるんですな、ぼろが出な
いように」
 彼は校長の息子だったんだ。フラフラと帰って行く男はすっかりしぼんでしまい肌はし
わしわにたるみいっきに年を取ったようだった。なんてこった。なんで気がつかなかった
んだろう。あとふたまわり縮めば校長と入れ替わってもきっと誰もわからないだろう。
 アスターは急いで家に帰り着替えることにした。いつものよれよれの格好で行くわけに
はいかないだろう。まともな服を持っていないアスターはエルダーの部屋に向かった。お
洒落なエルダーはアスターが金満家に招待されたことに驚きながらもクローゼットいっぱ
いにある服の中から適当な物を選んでくれた。
「身体はひとつなのになんでこんなに服があるんだ?」
「まったくお前は。流行ってもんがあるだろう。それに相手によって服を替える。相手の
心をつかむに見かけは大事だ。たまたま僕はそういう仕事をしている」
 彫刻のモデルになれそうな身体を持ったエルダーの服をアスターが着るとあちこちに隙
間ができる。ズボンも長い。いくつか試してみるとどうにか見られる物が見つかった。
「それは去年の型だからもう着ることはない。お前にやるよ」
「いいよ、僕もこのあと着ることないだろうから」着慣れない服を着るのは気持ち悪い。
違う人間になった気がする。
 ネリーの家は町の真ん中にあるひときわ大きな屋敷だった。呼び鈴を鳴らすと待ち構え
ていた執事が扉を開けうやうやしく出迎えてくれた。もっともアスターが住んでいるの屋
敷もかなり大きいし執事もいる。だが雰囲気がまるで違う。
 ネリーの両親はアスターをとても歓迎してくれた。正装をしたふたりを見て服を借りて
よかったとあらためてホッとした。ふたりの間にはこれまたきちんとした五才くらいの男
の子が行儀よく立っていた。ネリーはいない。
「よくいらっしゃってくださった。家内もわたしもとても楽しみにしていました。この子
はマイケル、ネリーの弟です」マイケルは父親と母親を足して二で割ったようだった。父
親はアスターをテーブルに導いた。どこもかしこも高価な品々であふれている。グレート
ローズの屋敷がいぶし銀の輝きを持っているとしたらここは金ぴかに光っていた。
 次々と運ばれる料理は素晴らしいものだったのだろうが、アスターは緊張して味わうゆ
とりはなかった。父親は話の出だしとしてあたり障りのない天候や経済の話をした。それ
が社交というものなのだろう、当たりさわりなく言葉を交わした。だけど本当はもっと違
うことを話したいはず、ネリーの両親がなにか期待に胸を膨らませていることはどんなに
ぶちんにもわかる。
 ふと気がつくといつのまにかネリーが座っている。ひとりだけこの場にふさわしくない
サマードレスを着ているのに、誰もネリーに話しかけない。まったく変な家だ。
 ネリーの前に運ばれた皿は、手をつけられないまま下げられていく。とうとうアスター
はいつものように話しかけた。
「ネリー、ちっとも食べてないじゃないか。大丈夫かい?」
 ネリーの両親の手が止まり緊張した空気が張りつめた。アスターに話しかけようとする
母親を父親が止めた。
「まだだめだ」
 アスターはなにかまずいことをしたのかと内心戸惑っていたが、みんなと同じように平
然を装った。ネリーはアスターを見て微笑むとひとり静かに座っていた。
 何を食べたわからない食事がやっと終わるとアスターはホッとした。そうそうにおいと
ましようとするアスターを両親はにこやかに引きとめ、逃げるのを察知したかのように両
側から抱えるように娯楽室へと案内した。
 いったいなにがはじまるんだ。アスターは食べた物が早くも消化不良を訴えはじめてい
るのを感じた。
 その部屋の正面には大きな肖像画があった。家族四人が幸せそうに笑みを浮かべ立って
いる。ネリーの父親はその前に立つとじっとその絵を見つめた。母親はもう寝る時間だと
いってマイケルを連れて行ったがすぐに戻ってきた。ネリーはいない。
「いい絵でしょう」父親は絵から目を離さずにアスターに話しかけた。
「わたしたちはとても幸せな家族だった」妻はそっと夫に寄り添った。
「先生にはとても感謝しています。まるでネリーが生きているように扱ってくれる。わた
したちがそう望んでいるように。わたしたちはネリーがもういないことはわかっている。
だけどあの子は死ぬには早すぎる。もっとたくさんいろんなことを経験して笑ったり泣い
たり、他の子と同じように生きていて欲しかった。だからわたしたちはネリーがいるとき
と同じように生活することにした。ネリーに新しい服を買い、シーツを洗濯し、食卓には
ネリーの皿も並べた。そして校長に無理を言ってネリーの席を残してもらった。幸いにも
わたしにはそれができるんだ。君はわたしたちの気持ちをとてもよくわかってくれている。
わたしたちは……まるでネリーがそばにいるような気がした。本当にとても感謝している
んだよ。今度、ネリーは三年生になる。次はぜひ君にネリーのクラスの担任をしてもらう
よう校長に頼むつもりだ。もちろん引き受けてくれるだろうね。君にはもっとお礼がした
い……なんでも望む物を言ってもらえば……」
 アスターにはもはやなにも聞こえてなかった。ネリーは死んでいる。やっとの思いで口
を開いた。
「ネリーは死んだんですか?」
「ああ、去年避暑に行った別荘のそばの川で溺れたんだ」ネリーの父親は怪訝な顔をした。
「君も聞いただろ?」
「……僕は知らなかった」アスターは胃を押さえた。吐きそうだった。
 アスターの様子に父親はたじろいだ。しばらくの沈黙のあと、意を決したように訊いた。
「君には本当にネリーが見えているのか?」声は震えていた。
 母親が悲痛な様子でアスターにつめよった。「ネリーはここにいるの?」
 アスターは顔を上げた。ネリーはいた。ひとり静かに肖像画を見つめている。
『素敵な家族でしょ』ネリーは静かに言った。
「君はしゃべれるのか?」アスターははじめてネリーの声を聞いた。
『聞こえるの? わたしも知らなかった。これまでやってみようとしなかった』
 不思議なことにアスターは冷静でいることができた。恐怖は一切なかった。
『両親はとてもわたしのことを愛してくれている。わたしもよ。でもわたしはそのせいで
ちょっと困ったことになっているの。わたしに話しかけてくれたのは先生が初めてよ。だ
からわたしを助けて欲しいの』
「どうしたらいいんだい?」
『わたしの話をふたりに伝えて欲しいの』
 その様子をうかがいながら父親はアスターが食事のときに飲んだワインの量を考えた。
アスターはひとりでしゃべり頷いている。とてもまともには見えない。このまま穏便に追
い返そうかと思いはじめたとき突然アスターが振り向いた。
「ネリーはここにいます。みんなに話したいことがあると言っています。できればマイケ
ルも呼んできて欲しいと」
 母親は父親が止める間もなく走っていき、寝ぼけて目をこするマイケルを連れてきた。
 緊張した空気がみなぎるなかでアスターの声だけが響いた。
 ネリーは自分が死んだときのいきさつを話しはじめた。
 あの日、マイケルとわたしはあんまりの暑さに我慢できなくなって子供だけでは行って
はいけないと言われていた川にこっそり行ったの。マイケルはだめだって言ったんだけど
 ――あの子は生真面目だから―― わたしがばれないうちに戻ればいいと言いくるめて
連れて行ったの。マイケルの面倒を見るのはわたしの役目でいつも一緒にいたから置いて
行くわけにはいかなかった。
 はじめのうちは川に足をつけるだけで満足してたんだけど、小魚を追いかけたり、ザリ
ガニをさがしたりして楽しくなっちゃってとうとうずぶ濡れになるくらい中まで入っちゃ
った。あとでお日様で乾かせば大丈夫ってマイケルに言い聞かせてね。
 そして水をかけあって遊んでいたらなにか足に絡まる物があるからなんだろうと思って
つかみあげてみたらロープだった。でもヘビにそっくりだったからマイケルを脅かして
やろうと思ったの。 ――あの子恐がりだから―― わたしはよくそうやってからかって
いた。
 マイケルは嫌がっているのにあんまりしつこくやられるから怒っちゃって思わずわたし
を突き飛ばしたの。わたしは尻餅をついたんだけどまた、ついいたずらっけをおこしてそ
のまま倒れて死んだふりをしたの。流されないようにしっかりそばにあった石をつかんで
ね。
 心配するマイケルが近づいてきたら跳ね起きて驚かせてやろうと思って薄目を開けて構
えていたら、パニックになったマイケルは真っ青になっちゃって引きつった顔で助けを呼
びに行った。あわてたわたしは急いで飛び起きたんだけど、今度は本当に滑ってさっきま
でつかまっていた石に頭をぶつけ気を失ってしまった。そして気がついたらこうなってい
たというわけ。
 いっきに話すネリーをアスターはただ頷いて訊いていた。その様子をネリーの家族は遠
巻きに辛抱強く見ていた。父親は密かに暖炉の火掻き棒を握っていた。
『先生、このことをパパとママに話して。マイケルは自分のせいでわたしが死んだと思っ
ているの。あれからすっかり落ち込んじゃって、本当にどっちが死人かわからない』
「わかったよ」アスターはたった今聞いたことを正確にネリーの両親に伝えた。
 両親は目を丸くした。マイケルは呆然としていた。「僕のせいではなかったの?」
「君の姉さんはそう言ってる。君が勘違いしていることをとても気にしている。自分がと
んでもない馬鹿だったと嘆いている」
『先生、勝手に余計なことをつけくわえないで』ネリーが睨んだ。
「そんなことがあったなんて知らなかった。あれからマイケルはすっかりしゃべらなくな
って……ネリーのことをずっと寂しがっているんだと思っていた」父親がつぶやいた。母
親はマイケルをぎゅっと抱きしめた。ネリーはその様子をちょっと寂しげな顔で見ていた。
『先生、これからが大事なところなの。両親を説得して欲しいの』
「なにを?」
「先生、ネリーはまだいますか? なにか言ってますか?」もはや父親は、いや母親も弟
もみんなすっかり信じていた。
「僕になにか説得して欲しいと。聞いてみます。どうぞ、ネリー先を続けて」
『両親がこんな生活を続けているとわたし、気になっちゃって次の場所にいけないの。わ
たしのことはみんなの心にいつまでも残っている。そのことはいつまでも大事にして欲し
い。でもわたしはもういない。そのことを受け入れて欲しい。もうこれ以上学校にも行き
たくないし、本当は勉強は好きじゃないの』
「つまり、君なしの生活を送るようにということかい」
『もう、先生。ちょっと違う。言ったでしょ、わたしを忘れないで。でも生きているよう
には扱わないでってこと』髪を逆立てて言った。
「ああ、わかったよ。うまく伝わるように努力するよ」
『もう、わたしが言った言葉のとおりに話してちょうだい』死んでいるせいか怒ると並み
の人間より迫力がますようだ。
 アスターは一字一句間違えないように気をつけた。横でネリーが恐ろしい顔をして睨ん
でいる。
「ああ、なんてことだ。ネリーが喜ぶと思っていたのに、逆に苦しめていたなんて」父親
は嘆いた。「でも、ネリーがそう望むなら……わたしたちは寂しい」三人は寄り添った。
『大丈夫よ。来年には新しく女の子が生まれる。わたしよりもずっといい子よ。残念なが
らパパ似だけどね』
 アスターの口から出るネリーの言葉に父親は妻の顔を見た。
「本当か?」
「ええ……、もしかしたらと思っていたけど……」母親が驚く。ふたりは目を丸くして顔
を見合わせた。
「……そうか、ネリーとはこれでお別れなのか。いやわたしたちはいつもお前のことを思
っている。これからも、いつまでも」父親はため息をついて言った。しばらく物思いに沈
んでいたがおもむろに口を開いた。「ネリー、わたしたちは最後にお前の姿を見ることは
できないのかい?」
 ネリーは腕を組んで考えた。『そうね、やってみるわ。先生、協力して』
 アスターは驚いた。「僕が?」
『本当は姿を現すことはできた。でもそれだけではなくって……最後に抱きしめて欲しい。
先生にはわたしが見える。だからわたしはいまから先生に重なってみる。先生の力が働く
かもしれない』そう言うとアスターのほうに近づいてきた。
 アスターは思わずあとずさった。「ネリー、違う方法を考えよう」だがネリーはすでに
アスターと一緒に立っていた。
 アスターは急に身体が冷たくなっていくのを感じた。頭がくらくらし倒れそうになった
とき三人から強く抱きしめられた。
「ネリー、ああネリー、会いたかったよ」感極まった三人の声が耳元で一斉に響く。
 アスターが自分の身体を見下ろすとそこに透き通ったネリーの姿があるのがわかった。
重なったネリーとアスターの両腕が三人を強く抱きしめている。身長が違うので微妙にず
れているのだが違和感はなかった。
 そうして肉団子のようにしばらく固まっていたが、やがてネリーは三人を放した。
『もう行くわ。パパ、ママ、今までありがとう』そして、マイケルの頬をそっとつねると
『妹をかわいがってあげてね』と優しく言った。
 そして、もう一度みんなを強く抱きしめるとアスターの身体に重なっていたネリーは徐
々に消えていった。
 誰も口を利かなかった。ただ呆然と立っていた。やがて我に返った父親が言った。
「これでよかったんだ。あの子は笑っていた」
 アスターは今度こそ立ち去るときがきたとわかった。あとは家族の問題だ。アスターが
帰ることを告げると父親はまだ夢から覚めない面持ちだった。
 それでも玄関まで見送りにきた父親はアスターに尋ねた。
「先生はいったい何者ですか?」
「僕はただの教師です」そう言うしかなかった。
 家に戻る道すがらなにがなんだかわからなくなってきた。
 なんてことだ。僕はこの一年なにも知らないままネリーを生きてると思って過ごしてき
た。彼女はただ異常に寡黙なだけだと思ってた。まさか誰にも見えていないなんて思いも
しなかった。はために見たら僕は完全にいかれた人間だ。ああ、どうなっているんだ。も
し僕がはじめからネリーのことを知っていれば、みんなと同じように見えなかったのか?
 この答えは出ない。
 アスターは身体が寒気でぞくぞくし、考えることに疲れてきた。 
 いずれにせよこれでよかったんだろう。なぜ、僕がその役目を引き受けさせられたのか
わからないが……。ネリーは喜んでいた
 ネリーが消える間際、アスターは『先生、ありがとう』と言うのを聞いた。
 家にたどり着く頃には身体が氷のように冷たくなっていた。食事会はどうだったかと訊
く家族に答えられる状態ではなく、疲れたからといって早々に部屋に引き上げた。幸い明
日から学校はしばらく休みだ。青ざめた様子のアスターを見て顔を見合わせた家族は、よ
ほどひどい失敗をしたのだろうと思いそっとしておくことにした。
 アスターは分厚いコートを引っ張り出して着込み、靴下を三枚重ねて履くとベッドにも
ぐりこみ冬眠する熊のように眠った。
 次の日起きてこないアスターを心配したヴィオラは様子を見に行きその姿に驚いたが、
息をしていることを確認してそっとしておいた。その日、店のほうに上機嫌の校長がきて
アスターのことをほめちぎり両腕にあふれんばかりにパンを買っていった。
「この暑い季節に熱々のシチューかい?」夕食の席についたエルダーがぼやいた。
 アスターはまだ降りてこなかった。
「アスターは?どれ、呼んでこようか」エルダーが腰を上げようとしたときセーターを着
込んだアスターがふらふらとやってきた。
「おやまあ、季節を無視したいでたちだね。風邪か?」エルダーは目を細めてアスターを
見た。
「いや、たいしたことないんだ。ちょっと寒気がするだけ。気にしないで」
「いや、気になるね。きのうはどうだった?」
 みんなの目がアスターに集中した。いつのまにかエメットが部屋の隅に影のように立っ
ているのが目の隅に見えた。
 アスターは昨日の出来事を話す気はなかったのだが、許されそうになかった。どこまで
話そうかと考えていると父親が「話せば楽になるぞ」ボソッと言った。
 一同の注目をひしひしと感じながらアスターは天井を見つめ、観念したかのように昨夜
の出来事をひとつ残らず正直に話した。
 みんな、顔を見合わせた。最初に沈黙を破ったのは父親だった。
「いいことをしたな。ネリーも家族もきっと喜んでいる」
「本当、よかったわね」母親が言う。
「お前にしては上出来だな」エルダーが言った。
「みんな、おかしいよ。僕が幽霊が見えていたということにはなにも言わないのかい?」
 みんな、顔を見合わせた。
「なあ、世の中にはいろんな人間がいる。父さんのように誠実をかたまりにしたような人
間、母さんのように無邪気でいつまでも少女のような人間、グレートローズのように化石
のような人間、エメットのようにつかみどころのない人間、僕のように完璧な人間。人の
数だけヴァリエーションがある。お前はこれといって特徴がないからよかったじゃないか。
誰も持っていない取柄ができたわけだ」
「そういう問題じゃない! おかしいだろ、普通じゃない。それに怖いんだ、これからな
にが見えるかを考えると」アスターは虚ろな目をした。
 ヴィオラがやおら口を開いた。「アスター、慣れるわ。そんなもんよ。さあ、食べまし
ょう」
 結局、アスターの問題は解決されず、みんなに認めてもらっただけだった。まあ、いい
さ。信じていてはくれるわけだ。やけになった。それでも熱いシチューは身体を温めてく
れた。
 アスターが自分の部屋に引っ込むと、おのおの用事で忙しい振りをして散らばっていた
家族が再び食卓を囲んだ。
「どう思う?」エルダーが口を切った。
「あの子は男の子だし、今までなにもなかったから大丈夫だと思っていたわ。本当にこの
血統のしぶといこと」ぼやくヴィオラの手をオークは優しく握った。
「しかたない。お前の言うとおりアスターは受け入れて折り合いをつけていくしかないん
だ」
「あいつは大丈夫かな。母さんの力でどうにかならないの?」
「だめだ、これ以上母さんに負担をかけたくない」オークは眉間にしわを寄せていった。
「まだなにか起きたわけじゃない。しばらく様子を見るんだ」
「ねえ、その特別な力を使うと母さんにはなにかまずいことがあるのはうすうすわかって
いたけどなにが起こるの?」
 口を開きかけたオークを制してヴィオラが言った。「小さくなっちゃうの。以前、わた
しはもっと大きかったのよ」
 ヴィオラの背丈は確かにちょっと低めだったが、特別低いわけではなくむしろ華奢でか
わいかった。
「ふーん、そうだね。母さんが豆粒みたいになったら確かに困るよね。それもそれでかわ
いいけど踏み潰してしまうかもしれない」エルダーの口調は信じていなかった。
 夜、ふたりきりになるとオークとヴィオラはベッドの上でそれぞれの思いに心が揺れて
いた。
「あの子は大丈夫だと思ったのに、やっぱり力を持ってたわ」
「でも、君やグレートローズとはぜんぜん違うようだ」
「そうね、確かに違う。何故今頃になって現れたのかしら?」
 アスターは部屋に閉じこもった。外に出たら恐ろしい物を見てしまうかもしれない。部
屋から出るのが恐かった。
 天気がよい休日、エルダーはアスターをベッドから無理やり引っ張り出した。
「さあ、出かけるぞ。さっさと支度をするんだ」
「いやだ! 僕はどこにも行かない」
「お前はいくつだ。これから先、グレートローズのように、じいさんになるまで何十年も
この部屋にこもるつもりか? さあ起きるんだ」
 エルダーは引きずるようにアスターを屋敷の外に連れて行った。久しぶりにお日様を見
たアスターはそのまぶしさに顔をしかめた。そしてポケットから眼鏡を取り出すと急いで
かけた。
「なにだ、それは!」
「眼鏡だよ」それは真っ黒く塗りつぶされていた。
「見えるのか?」エルダーは眉をひそめた。
「まあね」そう言ったとたん舗道につまずいた。
「まったくお前という奴は」エルダーは眼鏡を取り上げた。「いっそしないほうがいい」
 確かに眼鏡をしないほうがすべてぼやけてかえって都合がよかった。このときばかりは
目が悪いことに感謝した。
「さあ、いくぞ」エルダーはアスターの腕をつかむとエメットから借りた車に乗せた。
 そばでエメットが控えめに言った。「くれぐれも気をつけてください」
「どこに行くの」
「着いてからのお楽しみだ」
 そこは劇場だった。
「お前には気晴らしが必要だと思ってな。男同士で芝居を見るなんて僕も落ちぶれたもん
だよ。まあいいさ、ちょっとここで待ってろ」アスターを席に座らせるとエルダーはどこ
かに行ってしまった。
 人が多すぎる。アスターは落着かなかった。
「これをかけるんだ」エルダーは洗って色を落とした眼鏡を差し出した。「せっかくの芝
居が見えないだろ」
「いやだ!」
「かけるんだ! 子供みたいな真似をするんじゃない」
 確かに子供じみている。アスターは観念して目つぶり眼鏡をかけた。そしてゆっくり目
を開くとなにもない。いや、たくさんの人がいた。アスターもこの劇場にはきたことがあ
る。目の前に広がる風景は前に見たものと何の変わりもない。大いく息を吐くと張りつめ
ていた緊張がいっきにほぐれていくのを感じた。横で目を細め様子を見ていたエルダーは
なにも言わなかった。
 お芝居は陳腐な恋愛メロドラマだったが、人々は喜んだ。
「今日の芝居はひどいもんだったな」そう言いながら知り合いの多いエルダーは絶えず挨
拶をしていた。「ちょっと楽屋に行ってみよう。知り合いがいるんだ」
 知り合いとは今日、舞台にちょっとした水たまりを作らんばかりに涙を流していた主演
女優。
「やあ、ちょっとご挨拶に伺ったよ」そこにつくまでには大部屋や小道具の隙間、劇場に
かかわる多くの人々をくぐり抜けていかなくてはならなかった。
 アスターはあまりの熱気に気分が悪くなりそうになったとき、ヒヤッとした空気を感じ
た。目の隅で誰かが色とりどりの羽であしらえた、ばかでかい舞台用の扇を揺らしている
のが見えた。
「エルダー、きてくれたのね!」ヒロインはエルダーに抱きついた。あたりはむせ返るほ
ど濃厚な香水の匂いが満ち溢れている。いつのまにか用意したのかエルダーは真っ赤なバ
ラの花を一本さりげなく渡した。
「とてもいい芝居だったよ。ハンカチを何度もしぼらないといけないほど涙が出てしまっ
たよ」そう言うエルダーの目は潤んでいた。
 そこまでやるか! アスターが呆れ果てていると麗しのヒロインがアスターに気がつい
た。
「こちらは……どなた?」
「僕の弟だよ」
「なにをなさっているの?」
「学校の先生です」アスターが答えた。
「あら、はじめまして。お兄さんにあまり似てないのね」いっきに興味を失ったようだっ
た。
 エルダーをなかなか離してくれない麗しの女優をどうにか振り払いふたりは外に出た。
「なんでわざわざ楽屋まで行ったの?」
「一応、挨拶しとかないとね。舞台からどうせいることがばれている。顔を出しておかな
いとあとで恐ろしいことになる」それから間を置くと「なにか見えたか?」なに気なく訊
いた。
 アスターはすっかり忘れていた。
「いや、気づかなかった」
「あの劇場はその昔、火事で焼け落ちて死者が何人か出たらしい。今あるのはその後建替
えられたものだ。いかにも出そうだろ?」からかうように言ったが目は笑っていなかった。
「本当のところ出るらしいんだ。芝居で使う小道具が壊れていたりすると人知れず修繕す
る奴や、主役に抜擢された女優が初演を目前にして劇場もろとも……」
「もういいよ。誰も見たことがないの?」
「噂だ。だが、気配はあるらしい」
 アスターはため息をついた。「もしいたとしても僕にはわからない。ネリーのときだっ
て死んでいるとは気づかなかった。あの中にその便利な幽霊がいたとしても生きてるよう
に見えただろうよ」
「そうか、ならなにも恐がることはないじゃないか。むこうもお前に見られているなんて
気がついていないかもしれない」
「そうかな?」そういえばネリーもアスターが声をかけたとき驚いた顔をしていた。だが、
問題はアスターには相手が生きているのか死んでいるのかの見分けがつかないことだ。や
れやれ……。
 エルダーは用事があるといって、劇場の外にアスターを残しどこかへ行ってしまった。
アスターは久しぶりに感じる外の空気を思い切り吸いながらゆっくりと屋敷に帰った。
 その日の夕食のとき、アスターはみんなに自分の決心を伝えた。
「学校をやめようと思うんだ。あそこにはもう戻りたくない」
 エルダーはフンと鼻を鳴らした。
「あれから校長が店にやってきてアスターのことをとても褒めていたわ。よくやってくれ
たって上機嫌でたくさん買って行ってくれたわ。ネリーのご両親は寄付の額をさらに増や
したそうよ」ヴィオラが言った。そのあと校長の息子もやってきて嫌味たらたら言いなが
ら、それでも大量のパンやケーキを抱えて帰ったことは言わなかった。
「で、どうするんだ? どこに行っても状況は変わらないんだぞ」オークは落着いていた。
「わかってる。村に帰ろうと思うんだ。あそこでデイジーおばさんを待ちながらこれから
のことをゆっくり考えたいんだ」
 村は以前とはだいぶ変わってしまったが、今でも心が安らぐどころだ。それにデイジー
のことはとても気にかかる。確かにこれはいいのかもしれない。オークは頷いた。
「そうか。しばらく気分転換するのもいいかもしれないな」
「オーク!」ヴィオラが小さな声で叫んだ。オークには息子が目の届かないところにいく
のをヴィオラがとても心配するのをよくわかっていたが、息子はいつまでも子供ではない。
いつかは自分で生きてはいかなくてはならない。アスターはもうとっくに大人なのだから。
 アスターは学校に手続きに行った。校長はあらゆる魅力的な条件を出し引き止めたがア
スターの気持ちを変えることはできなかった。荷物を箱にまとめていると校長の息子が近
寄ってきた。すっかりもとの大きさに戻り、手には砂糖をたっぶりまぶしたドーナツを握
っている。
「やあ、残念ですな。健康上の理由ですって、確かに先生は痩せすぎている。それにもう
少し図太い神経の持ち主だと思っていたが案外気が小さいんですな。じきにネリーの弟が
この学校に入ってくる。そうすれば先生ももっといい立場になれたかもしれないのに、ま
ったく欲がない。まあ、しかたないですなあ。その気がないんなら。でもあとのことはな
にも心配しなくても結構、わたしがいますからな」
 そう言うと楽しそうに砂糖をばらまきながら離れて行った。
 やれやれ。たいした物はないのですぐに終わったのだが、引き出しに放り込んだまます
っかり忘れていた文鎮が出てきた。ああ、これは。すっかり忘れていたな。アスターは温
かみのある重たい文鎮を箱の中に放り込んだ。

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