7 デイジー
そうしてアスターは村の戻った。送るという家族やエメットの申し出を断りバスで帰っ た。バスの中でアスターはすっかり感傷的な気持ちに浸っていた。これから先のことはま だなにも考えていない。望めば村の学校の先生になれるかもしれない。だがその気にはな れなかった。父親のあとを継ぐという選択肢もあるのだがそれもまたありえない。アスタ ーは恐ろしく不器用だった。まったく僕になにができるのだろう。流されるままに生きて きた。やはりエルダーがいいとこ取りで自分にはなにも残していかなかったらしい。バス に揺られなら底なしの絶望に落ち込んでいくのだった。 すっかり重くなった気持ちとともにバスから降りたアスターは久しぶりに見る懐かしい 風景を眺め気持ちが安らいでいくのを感じ大きく深呼吸した。広い空、たくさんの緑、土 の匂い、さわやかに香る風、懐かしの我が家へと一歩、歩くたびに心に積み重なった重た い石が一つ一つ落ちていく気がする。なるようになるさ。玄関に着いたときにはすっかり 軽やかで空っぽの心になっていた。 そしてと扉を開けると……なんとデイジーおばさんがにこやかに出迎えた。
「調べてみたのか?」町の屋敷ではオークが眉をひそめてヴィオラを見つめている。 「ええ、やらずにはいられない。ふたりがどうしても心配なの」ヴィオラは疲れた様子を しているものの肌はつやつやとしている。 「デイジーは……駄目だった……」 「会えたのか?」 「ええ、アスターのことを頼んだわ。ああ、オーク残念だわ。まさかこんなことになって いるなんて。もっと早くやっていればよかった」 「いや、結果は同じだろう。こうなる運命だったんだ。物事を無理にかえてはいけない。 もし、君にそれができるとしても……わたしはそうして欲しくない。君と一緒に同じとき を過ごしたいんだ」普通の人たちのようにと言う言葉をオークは飲み込んだ。ヴィオラが その気になれば色々な状況はもっと違うものにできるかもしれない。だがその代償は……。 オークはヴィオラに妻としてそばにいて欲しかった。
「デイジーおばさん、帰っていたの! みんな心配してたんだよ」アスターはデイジーに 駆け寄り抱きしめようとした。だけどその腕はデイジーの身体をすり抜けアスターは自分 自身を抱きしめることになってしまった。アスターの身体に冷たい旋律が走った。 「おばさん! ああ、なんて事なの」呆然としてつぶやいた。 『アスター、残念だけどそういうことなの』デイジーは寂しそうに言った。 アスターは台所のテーブルに肘をつきデイジーのいれてくれたお茶を飲んだ。 「こんなことができるんだ」カップのお茶はデイジーが大事にしていた特別なお茶だった。 『ええ、やろうと思えばね。でも他の人が見たらやかんやカップが宙を浮いてるように見 えるでしょうね。あまり喜ばれないわね』 「僕はこの特異体質のおかげでおばさんに会えたというわけだ」アスターはため息をつい た。「なにがあったの?」 デイジーはアスターの向かいに座ると遠くを見るような瞳でゆっくり話しだした。
デイジーには誰も知らない恋人がいた。出会ったのはずいぶん前のこと。アスターがま だよちよち歩きの頃、村にトラックのセールスマンがきた。その頃はまだ村で車を持って いる人はほとんどなく馬車が主流だった。アスターの家には馬車もなかった。その男はし ばらく村に滞在し、根気よく一軒一軒を回った。なかなかハンサムで愛想がよく誠実な瞳 を持ったその男はうけがよかったが、トラックのほうは売れなかった。当然アスターの家 にもきたがオークはすげなく断った。 ある日、デイジーが重たい種芋を抱えて湖のそばを通りかかると茂みの陰に隠れるよう にして、水面も見つめぼんやりと座るセールスマンがいた。通り過ぎることもできたのだ がなぜか声をかけずにはいられなかった。 「どうしたの? ぼんやりして。思ったように売れないから落ち込んでいるの?」重たい 種芋を置くと男の横に座った。 「ええっと、君は材木所で働く……オークさんとこの人だね」男は記憶の箱をさがしなが ら言った。 「よく知ってるのね」デイジーは驚いた。 「ああ、この村の人の名前はほとんど知ってる。それも仕事のうちなんだ」そう言ってに っこり笑った。 デイジーは男のことをじっくり見たことはなかったが、あらためてみると思ったより若 いと思った。若いといっても自分よりはいくつか年上のようだが。それにしょんぼりして いるより笑ったほうがずっといい。 「この村の人たちはそんなに裕福じゃないから難しいと思うわよ」 「そうだね。だから違う方法を考えなくてはと思っていたところなんだ」 「なにがなんでも売りたいわけね」 「そりゃもちろん。どんな手を使っても。それが僕の仕事だ」そこでいったん言葉を切る とデイジーの呆れた顔を見てつけくわえた。「なにも悪どい事をしようなんて思っちゃい ないよ。いいトラックだ、それは間違いない。それに購入後のメンテナンスもちゃんとす る」 「あなたが造っているの?」 「いや、義理の父が造っているんだ」男は空を見上げてふうっと息を吐いた。 「義父はもとは農耕具の会社をやっていたんだ。だが新し物好きだし、何より機械が大好 きなんだ。そしてこれからは車の時代だと言って、手はじめに働く車を造ることにしたん だ。洒落てかっこいい金持ちの車よりそのほうが性にあっていると言ってね。だけど現実 にはやはり高い代物だ。簡単に買える物ではない。義父にはそこのところがいまひとつわ かっていない。根っからの職人なんだ。そこで僕が現実に立ち向かっているとこさ。一族 が路頭に迷わないようにね」 「なんだか、責任重大ね」 「まあね、でも義父にはずいぶん世話になっているし、家族もいるからね」 「もっと、裕福な人たちがいるところへ行けばいいじゃない」 「そういう種類の車じゃないんだ。汗水たらして働く車だ」 「もっと安くならないの?」 「もちろんそうできればいちばんいいんだが、僕たちも儲けなくてはいけない。それが商 売だ」男はきっぱり言った。 「ふーん、なんだか難しいわね」 ふたりはしばらく黙って水鳥が水の中にもぐりきらきらと光る鱗を持った小魚をくわえ て出てくるのを見ていた。 「さて、わたしは行かなくちゃ」そう言うとデイジーは重たい荷物を抱えた。 「よかったら送るよ」そう言って男はデイジーの荷物を取るとトラックに乗せた。「君は なんだかリスに似ているね、眼の色といい髪の色といい。君と話したおかげで気持ちが軽 くなった」 デイジーは眉をひそめた。子供の頃のあだ名はまさしく『おせっかいリス』だった。 家の前で男を見送るとデイジーは「売れるといいわね」とつぶやいた。 それからしばらくの間、あちこちで男の姿を見かけたかと思うとまったく見かけなくな った。男はデイジーに会うといつも親しげにっこり笑った。男を見かけなくなりデイジー はなんとなく寂しかった。だが間もなく男はまた現れた。今度はひとりではなく数人の仲 間を連れてなん台かのトラックを運んできたのだった。そして新しい持ち主を集め運転講 習会を開いた。驚いたことにその中にはオークの姿があった。デイジーはトラックを運転 して帰ってきたオークにつめよった。 「黙ってて悪かった。だけど姉さんに話すと反対されるに決まっている」 「どこにこんなお金があったの?」 「お金はないよ、だけど支払いは少しずつでいいんだ。毎月決まった額以上のお金を払う。 多いのはいいけど少ないと駄目なんだ。全部払い終わったら車は僕の物になる。それがで きなくなったら返すことになっている」 なるほど、あの男はそういう方法を考えたのね。デイジーは心の中でひそかに思った。 「あんたは大丈夫なの? ちゃんと支払えるんでしょうね」デイジーはオークを睨んだ。 「もちろん、僕が無理をしたことがあるかい?」 あるじゃない、あんたの結婚はずいぶん無理をしたわ。思わず口に出そうになった言葉 を飲み込み息をゆっくり吸った。 「それに、内緒だと言って僕だけ一回目の支払いはサービスしてくれたんだ。なんでも僕 の目がリスに似ているかららしい。ちょっと変わった男だな」オークは首をかしげた。 トラックを手にいれた男たちは新しいおもちゃを楽しむように村の中を走り回っている。 しばらくはうるさいことになりそうだ。だがこれであのセールスマンはまたあらたな客を つかまえることができるだろう。デイジーには関係ないことなのだが。 オークはヴィオラを新しいトラックに乗せ仕事に行った。子供たちも学校に行きデイジ ーもゆっくり外の空気を吸いに出た。きのうはひと晩中みんなでドライヴをした。デイジ ーと子供たちは荷台に乗りでこぼこな道をはねながら走り大騒ぎした。おかげで今日、お 尻がすっかり痛くなってしまった。今度乗るときはクッションを持って行くのを忘れない ようにしよう。踏ん張ったせいで突っ張ってしまった足をほぐすため歩いていると知らず 知らずのうちに湖のところまできてしまった。ふと見ると水べりにセールスマンが座って デイジーを見ている。 「やあ、ここにいると君に会えるような気がしたんだ」そう言ってさわやかに笑った。 デイジーはちょっとためらうと、少しはなれて座った。 「うちの弟がおたくのトラックを買ったようね」そっけなく言った。 「ああ、正確にはまだ君の弟の物ではない。だけど無理やり売りつけたわけではないよ。 みな喜んで買ってくれた。いいトラックだということは僕が保障する。それにあとあとま でちゃんと面倒は見る、それが我が社の方針だ」 「信用できるの?」デイジーは男を見つめた。 「もちろん」男の目はまっすぐデイジーを見返した。 急に気まずさを感じたデイジーはあわてて目をそらし話題をかえた。 「長いこと留守にして、おうちの方が寂しがっているんじゃない?」 「どうかな? でも子供たちに会えないのは僕も寂しい。女の子と男の子がひとりづつ、 今とてもかわいい盛りなんだ」 奥さんは? デイジーは訊きたかったのだがなぜか言い出せない。そんな気持ちを察し てか男は続けた。 「僕は身寄りがないんだ。機械と新しい物が好きで運よく今の会社に入ることができた。 仕事が楽しかったから一生懸命働いた。僕の能力が認められ、だんだん重要な仕事もまか せられるようになった。やりがいもある。そして社長にとても気に入られひとり娘の婿に ならないかと言われた。周りの人間からは妬まれたりやっかまれたりもしたが反対できる 者はいなかった。仕事においては誰よりも僕は抜きん出ていたことはみんなも認めていた からね。僕もうれしかった。なん持たない人間がすべてを手にいれたと思ったよ。僕はな に考えていなかった。仕事がすべてだった。社長のお嬢さんとはあまり話したことはなか った。ときどき食事に招かれたりしたときに少しばかり言葉を交わすぐらいでね。綺麗で 上品でおとなしい人だと思っていた。 後でわかったんだけど彼女は僕のことをよく思っていなかった。だから話さなかったん だね。彼女はもっと家柄のいい上流階級の人間を望んでいたようだ。だが、父親には逆ら えなかった。彼女の望むような人間になろうと努力したよ。だけど根が粗雑なんだ。彼女 の望むような人間にはなかなかなれない。僕にできることは彼女をもっと裕福にして、贅 沢をさせてやりたい。それで少しは僕を見直してくれるかな?」 男は遠くを見つめるようにしてとつとつとしゃべった。 「ああ、こんな話をするつもりじゃなかったんだ」突然叫ぶと頭をかきむしった。「どう も君を前にすると調子が狂ってしまう。すまない、君には関係ない話だ」 デイジーは驚いたがなに言えなかった。 「僕は今日帰る、仲間を車につんでね」 「あなたが運転するの?」 「もちろん、荷台に乗るのはごめんだ。あそこは人が乗るように造ってないんだ」
男と別れたあと、デイジーは複雑な気持ちになった。村にだっていろいろな人間がいて、 いろいろな家庭がある。だがもっとそれらはみんな単純なような気がする。いや、そうで もないかもしれない。弟とヴィオラのことを思い出した。あの子たちはとても普通ではな い。だけどふたりはとても愛しあっている。あの男のように決して不幸ではない。そして デイジーにとって今いる場所は自分自身の家庭ではないのかもしれないが大切な家族であ りじゅうぶん満足していた。 それからも男は購入されたトラックの様子を見るために村にやってきて細やかな気遣い を見せた。いつしかデイジーも男がくるのを心待ちにしていることに気がついた。まった くわたしときたら何を考えているのかしら。彼には妻も子供もいるというのに。 今までだってデイジーにもそれなりの交際や縁談もあった。だけどその気になることは 一度もなかった。早く亡くなった両親の替わりに弟の面倒を見て家を取り仕切ってきた。 その弟も結婚し子供がふたりいる。だけど弟の相手はちょと風変わりで家事向きではない。 結局、デイジーが家を切り盛りすることになってしまったのだが別に不満はなかった。い や、家族がふえ楽しかった。そうしているうちにデイジーは適齢期を過ぎてしまったが、 デイジーずっとこのままでもかまわないと思っていた。 それなのに今頃になって平和で穏やかだったデイジーの生活に波風をたてる男が現れた。 湖で飛び跳ねるキラキラ輝く魚のように目を惹きつけられてしまう。 この思いは胸の奥 にしまっておかなくては……。 それでもデイジーは男を見かけると、いつも男が休憩をするのにいちばんだという湖の ほとりに足がむいてしまう。そして必ず男に会うことができた。まるでデイジーを待って いるかのように。 たいした話はしなかった。生い立ちや子供の話、家族の話、住んでいる町の話、政治や 経済、娯楽や流行、なんでもよかった。だけど男の妻だけは話題にのぼることはなかった。 なに話さずふたりして水面を見つめていることもあった。そしてその空間を包む空気はほ かの誰とも共有できないふたりだけのものだった。 そうやって年月が過ぎるうちに男はだんだん忙しくなり、代理の者がやってくることが 多くなった。 そして男はとうとうこなくなった。デイジーは寂しかったと同時にホッとした。はじめ からいなかったと思えばいい。どうあがいたってどうにかなる相手ではない。いくら好き でも妻子のある男とつきあうことはデイジーにはできない。見なければ心が惑わされるこ ともないだろう。 心にぽっかり穴が開いたようで、世界の色が褪せてしまったような気分だったが、家事 を忙しくすることで気を紛らわせた。この時期、オークの家は床から天井まで塵ひとつな く、鍋はピカピカに磨かれ、山のような洗濯物が毎日、庭で気持ちよさそうに泳ぎ、必要 以上に洗濯される衣類やシーツはどんどん擦り切れていった。雑草ひとつないまっすぐな 畑の畝の間に立ち見事な野菜を収穫しながらも、知らないうちに湖のある方向をぼんやり と見ていることにデイジーはが気がついてなかった。 ときどきオークにトラックの調子を訊き、「絶好調」と言われると「そうでしょうとも 」といまいましそうにつぶやく。ぼんやり空を見つめていたかと思うと頭をぶんぶん振り ながら動き出す。 オークはデイジーがなんだか変だとは気がついていたがヴィオラと結婚したことでなに かストレスを抱えてしまったのかと思いそれとなく訊いてみたが、違うと言う。デイジー はヴィオラも子供たちも本当にかわいがっていた。 ある日いつものように湖のほとりにひとりで座っていた。男がいなくてもそこに行くの が習慣になっていた。足をつつかれ驚くと首をかしげたリスがデイジーを見つめていた。 「わたしはあんたに似ているって言われたことがあるのよ。遠い昔のことのようだわ」 そのとき、後ろからがさがさいう音がしてリスは飛び跳ねるように行ってしまった。 「そんなに昔のことではないだろう?」突然現れたセールスマンは優しく言った。見るか らに高価そうな洗練された服装だった。 「まあ、久しぶりね。もうこでこの仕事は終わったのかと思っていたわ」デイジーは平然 を装った。 「そうではない。今でも我が社の者がやってきているだろ? うちの会社は売りっぱなし にはしない。あとあとまでの面倒もきちんと見る方針だ」 「それはみんなまだ支払いが終わってないからでしょ」 「もちろん、それもある」男はそういうと微笑んだ。が、すぐに真剣な面持ちで続けた。 「めでたいことに会社がとてもうまくいっているんだ。売り上げがうなぎのぼりに伸びて いる。生産が追いつかないくらいさ。社長は根っからの技術屋で工場の中にいるのが好き なんだ。そして僕は社長代理として事務的な仕事をほとんどしている。こうしている間に も机の上には書類が山積みされている」そういうとため息をついた。 「よかったじゃない。あなたもそれを望んでいたんでしょ。奥様も鼻高々じゃないの?」 言ってしまってからデイジーは後悔した。こんなことを言うつもりではなかった。 「ああ、そうだね。いや……本当はなに変わらない。仕事がうまくいきお金がたくさん入 ってきても僕の育ちはよくならない。でも、子供たちは良家の子女たちのための学校に入 ったし、妻も贅沢な生活は楽しんでいるようだ」 今日は魚が跳ねない。魚も気まずく思っているのだろうか? 「ごめんなさい。あなたの生活に立ち入る気はなかったの。久しぶりに会ったから調子が 狂っているんだわ、きっと」 「いや、いいんだ。仕事はとても順調だ。今ではかっこいいスポーツカーまで扱っている んだ。労働階級から上流階級まですべてに対応してるんだ。そして僕は死ぬほど忙しい」 その声は淡々としていた。 かわいそうに、馬車馬のように働いているのに奥さんはこの人を認めようとしない。使 用人のひとりとでも思っているのかしら。デイジーは腹が立ったが口に出していえること ではない。よその家庭の問題だ。黙ってはいても頭から湯気が出ている。が、ふと気がつ くと男が面白そうな顔をしてデイジーを見ている。デイジーは怪訝に思った。 「僕は君に会いたくてたまらなかった。この村にきて君に会うのがとても楽しみだった。 どんな話でもいいから、いや話さなくてもいい、君と並んで座っているだけで安らぐこと ができた。それが今ではできなくなった。きのう僕は会社の机で知らないうちに眠ってし まった。そして君の夢を見た。ここでこうしてふたりだけで座っていた。そのときの気持 ちは…信じられないほど幸せだった。目が覚めて現実に戻ったときには目の前が真っ暗に なった。そして気がついたら車に飛び乗りここにきてたと言うわけさ」 デイジーの心臓は小魚のように跳ね上がった。振り返ると真っ赤なスポーツカーがとま っている。 「かっこいい車ね」 「あれがいちばん早いんだ。乗ってみるかい?」 「また今度にしとくわ」あんな車で走ったら村中の噂になってしまう。「……わたしはな んていえば言いのかしら。そんな話を聞いて」本当のところデイジーはうれしいのか困っ ているのか自分でもわからなかった。 「そうだね。僕も無我夢中で君に会いたいとしか考えていなかった。でもこうして君の顔 を見てわかったよ。僕は君と一緒にいたいんだ」そういうと正面からデイジーの顔を見つ めて言った。「僕と結婚して欲しい」 デイジーは呆れて開いた口がふさがらなかった。しばらくして男の顔を見つめていたが 首を振った。 「確かあなたには奥さんと子供がいたわよね。その人たちはどこに行ってしまったの?」 「別れる」 「仕事は?」 「誰か違う奴に引き継ぐ」 デイジーは空を見上げると流れていく雲のかたまりをいくつか数えた。 「あなたは働きすぎて頭がおかしくなったんだわ。あなたはもうすでに結婚しているの。 そして家族がいるのよ、奥さんは……まあ置いといて、子供たちはどうなの? やはりあ なたのことを馬鹿にしているの?」 男は肩を落とした。「いや、僕たちふたりの子にしてはとてもいい子たちだ。優しくて 思いやりがあり、賢い。そして僕は父親として尊敬され愛されている」男は頭を抱えた。 「僕も子供たちをとても愛している。ああ、僕はどうしたらいいんだ。」 デイジーは横をむくと優しく男を抱きかかえた。男はデイジーの肩に頭を乗せじっとし ていた。 「あなたは家族のもとに帰らなくてはいけない。あなたには子供たちを一人前にする責任 と義務がある」デイジーの言葉はかたかった。「もし、あなたが……あなたが責任をはた したあと、まだわたしのことを思っていてくれるのなら、そのときは……」小さくため息 をつくと小さな声で続けた。「わたしは待っていてもいいわ」 「本当かい? ああ、でも先はなんて長いんだ。君は他の男に心変わりをするかもしれな い」 「そうね。でもたぶん大丈夫よ。わたしは一途な性格だから」 湖の真ん中で見たこともないような大きな魚が大きく飛び跳ねた。
またくると言って帰る男を見送りながらデイジーは大きなため息をついた。 まったくなんでわたしはこんなに真面目でつまんないんだろう。駆け落ちでもなんでも してしまえばいいのに。できるわけはなかった。もしそうしたらきっと罪悪感で胸がつぶ れてしまう。 デイジーには恋人ができた。いつかきっと一緒になれる日がくる。たとえ先の長い話で も人生に意味ができた。目的ができると平凡な毎日も違うものになるに違いない。実際、 どしゃ降りの雨が降ろうが、甥っ子たちがどんなに汚れて帰ってこようが、毎日が今まで よりずっととても楽しくなった。これから会うときは知り合いではなく恋人として会うの だ。だけどデイジーは誰にも言うつもりはなかった、弟のオークにも。姉思いのオークは デイジーが岩のように頑固なところも知っているからやめさせることはできないとわかっ ているだろうが、とても心配するだろう。オークはオークの問題がある。これ以上複雑な ことを家族の中に持ち込むつもりはない。 そうはいっても男はいつも忙しくめったに会えなかった。もっぱら手紙で我慢するしか なくとても寂しかった。だが、時間が積み重ねられるうちに自然とそんな関係にも慣れ、 穏やかともいえる月日が流れた。ただ、静かな種火だけは決して消えることなく、あらた に燃えあがる日を待ち焦がれていた。 そうしているうちにデイジーの生活にも変化があった。甥であるエルダーやアスターも 大きくなり手がかからなくなった頃、グレートローズからの呼び出しで弟家族は町に移り 住むことになった。デイジーもぜひにと呼ばれたがまったくその気はなかった。いずれあ らたな人生を慣れ親しんできたこの家で送ろう、ふたりだけで。 そうして長い年月が流れとうとう男から待ちに待ったときがきたという連絡がきた。だ がそれは思いがけないかたちとなった。
男はデイジーと一緒になるために、第一の人生を完璧なものとして終わらせることを約 束した。それは途方もなく長く感じられたが、子供たちのことはとても愛していたし、も ちろん責任があることもわかっていた。あのとき、衝動のままに行動していたらどうなっ ていただろう? 男の地位は家族への責任だけでなく社会にも大きくかかわっていた。そ の上、すべての従業員の生活も彼が握っているといってもよい。男の投げた小石が大津波 を起こし、みんなを飲み込むところだった。 男はしかたなくデイジーを心の中の宝箱にそっとしまい、ときどき取り出して眺めた。 そして優しく蓋をすると現実を生きた。それまで以上にがむしゃらに働いた。息子は跡取 りとして三代目のボンボンと呼ばれないように慎重に経営学を教えた。一人前になるため には大学を卒業してからも外の社会を見ておいたほうがいい。実際に息子が男の会社に戻 ってくるまでにはずいぶん時間がかかった。 その間、義理の父親は亡くなり、娘は母親が文句をつけようがないくらい家柄が立派で 見栄えがよく賢い若者と結婚した。はためから見れば男の人生は人のうらやむものだろう。 誰も男の胸のうちなど知らない。招かれたパーティで普通の夫婦に見えるふたりが一歩外 に出ると一言も口を利かない、それどころかまるで相手が目の前から消えてしまうことま では知らなかった。 そしてとうとうすべてが終わった。娘は結婚し幸せに暮している。息子は若いながらも しっかり会社をやっていけることがわかった。そして妻といえば…男は知らないと思って いるが、つねに若い愛人が切れることなくいつも存在している。 長年ぎりぎりまで張りつめていた糸が切れたとき、男は倒れてしまった。一日でも早く デイジーに会いたい。男はやっとの思いでデイジーに連絡を取り呼び寄せた。 突然のデイジーの出現に男の家族は驚いた。青天の霹靂、天から降ってきたか、はたま た地から湧いて出たか。男とデイジーの関係を知っているものは誰もいなかった。一方、 デイジーはたったひとりで男の家族と向かい合う羽目になってしまったが、以前から話を よく聞いていたのではじめてあった気がしない。ただ、奥さんが想像していた以上に美し いだけだ。 有無を言わさぬ態度で強引に男の寝ているベッドのもとに行くとすっかりやつれてしま った男の手をそっと握った。男は顔を輝かせ優しくデイジーを引き寄せ抱きしめた。 子供たちはなぜかホッとするのを感じた。ふたりの間にかよう深い愛情は誰が見てもあ ふれんばかりだった。両親が仲がよくないのはとっくの昔に理解していた。幼い頃はそん なふたりがとてもいやだったが大人になるにつれ冷静に見れるようになていた。そして仕 事に没頭する父親を尊敬しつつもどこかでかわいそうだと思っていた。これは母親に対す る裏切りになるのだろうが、母親は妻としてはもはやとっくの昔に存在していない。父親 はどんなかたちででも幸せになって欲しいと願っていた。とうとうその日がきたのだ。子 供たちはデイジーをすんなりと受け入れることができた。 ただひとり、男の妻だけはヘビのように冷たい目でふたりを見ていた。 「あなたは誰なの?」 デイジーは男の妻を見た。 「この人は僕の大切な人だ」男が答えた。ふらふらしながらも歯を食いしばり、ベッドか ら降りるとデイジーの横に立ちその手を握った。 男の妻は顔をゆがめデイジーをけがわらしいものを見るような目で見つめた。 「こんなかたちでこの人をみんなに会わせるつもりではなかった。僕は…まさかこんなこ とになるとは…すまない、デイジー」最後の言葉はデイジーにむけられた。 男の妻のプライドはずたずたに引き裂かれ、その激しい怒りでゆがんだ顔はもはや美し いとは程遠い。 「なんということ! まったく。どこの馬ともしれないあなたがここまでなれたのはいっ たい誰のおかげだと思っているの。わたしにこんな仕打ちをするなんて…」 間にはいった息子が厳かに言った。「母さん、父さんがここまでなれたのは自分自身の 力だ。それに人のことをとやかく言える立場ではないだろう」 母親は信じられないといった顔で血走った目を息子にむけた。息子は姉に目配せをする と姉は有無を言わせない強さで抱えるように母親を部屋の外に連れだした。 力尽きたようにベッドに座り込む男にデイジーは寄り添った。 「すまない」男は息子に謝った。 「いいんだ、父さんは僕たちのために自分の人生を捨てているんじゃないかと思っていた。 子供の頃から仕事をしている姿しか見たことがなかったからね。正直なところ…うれしい んだ」そう言うとデイジーに微笑んだ。「父はいつも僕たちのことをなによりも気にかけ ていた。僕たちが幼い頃は両親がもっと仲よくしてくれたらと思ったこともあった。だけ どどうしようもないこともあるんだと思えるようになった」 「すまない」男はもう一度言った。 「母さんのことは僕たちがなんとかする。そうだね、父さんを悪者にして世間体を取り繕 うとかね」 「それがいい。好きなようにしてくれ」 「これからどうするの?」 「この人とこの家を出て行く。今すぐ」 「今すぐ? そんな状態で大丈夫なの?」 「たいしたことはない、疲れているだけだ。外の空気を吸えば元気になる」 息子はデイジーのほうをむくと手を出した。「まだあなたのお名前も聞いていませんで した」 「はじめまして、わたしはデイジー。あなたのことは彼からよく聞いていたからはじめて あった気がしないわ。あなたのお父さんと出会った馴れ初めから話したほうがいいのかし ら?」差し出された手をそっと握った。 「ぜひ、聞きたいですね」 「うおっほん」男が水をさした。「大変申し訳ないんだが、それらのことはまた次の機会 にしようか。実はわたしはこのまますぐデイジーと行きたいんだ」 「どこに?」息子は驚いた。 「デイジーの家に」 「だからそれはどこ?」 答えようとするデイジーを男はさえぎった。「今はまだ言いたくない。そうだな、もっ とずっと先に落着いたら……。とにかくここから離れたいんだ。今はこの人と誰にも煩わ されずにゆっくりしたい」 男の声は疲れきっっていた。 息子はそれ以上なに言わずふたりを送り出した。
アスターの前に座ったデイジーは『はあーっ』とため息をついた。『話はおしまい。そ してわたしはここにいる』 「おしまい? なに言ってるの。デイジーおばさんは死んでるじゃない」 『はあーっ。そうなのよね、まったく』 「いったいなにがあったの?」 『わたしたちは彼の洒落たスポーツカーで出発した。いちばん早くてかっこいい車。わた しは運転のしかたを知らなかった。覚えようとしたことはあるんだけどわたしは機械とい うものが大の苦手だったからね。相性が悪かった。彼はフラフラで立っているのもやっと だったのに大丈夫だといて聞かなかった。帰る道すがら彼が気を失わないように一生懸命 話しかけていたんだけど、うっかりやってしまった』 「なにを?」 『やっとふたりになれたという安心感や思ったよりしっかり運転しているように見えたん で油断したんのよ。ふたりとも寝てしまったの。そして車はスポーツカーが出せる最高の 速さで道をそれ、大木の真ん中に突っ込んだ。車は大破して投げ出されひとりは死にひと りは助かった』 「じゃあ彼は生きているってこと?」 『ええ、あれが生きているというならね。意識不明のまま自分の家のベッドで横たわって いる。どこかで迷子になってしまっている』 「デイジーおばさんはどうなったの? 僕たちはなに知らされていない」 『彼の家族はわたしがどこの誰かを知らない。だから家族に連絡の取りようがなかった。 一応さがしたようだけどわからないので彼の息子がわたしの亡骸を埋葬した』 「なんてこと! 彼の家はどこなの。すぐ行かなきゃ。いや、その前に父さんに言わない と……」アスターはあわてて腰を浮かした。 『待って!』デイジーはこの上なく落着いていた。『いずれはわたしの身体を連れ戻して 欲しいのだけど、今はこのままにしていて欲しいの。彼が正しい道に戻ってくるまで。つ まりわたしのところにってこと』 アスターはゆっくり座りなおした。「父さんたちには知らせないと。僕たちはみんなデ イジーおばさんがいなくなってとても心配していたんだ。でも……悲しむだろうな」そう 言いながらアスターは不思議な気がした。アスターだってもちろん悲しいはずだ。だけど たとえ幽霊だろうが本人が目の前にいて話をしていると実感がわかない。 『大丈夫、オークたちはわかっているわ』 「わかってるって? いつ? どうやって?」 『……そう、……知らせたの……夢の中で。今はそっとしておいて欲しいとも言ってるか ら』 「……信じたの?」 『ええ』 ふたりはしばらく黙ったままぼんやりとしていた。アスターはひと口お茶を飲むとため らいながら言った。「その……彼と話すことはできないの? 意識がないということは半 分死んでると同じなんじゃないの?だとしたらその半分はデイジーおばさんの領域にいる わけだし……」 『やってみたんだけど駄目だった。きっと違う場所にいるんだわ。迷路の中とかね』そう 言って肩を落とした。『とにかく状況がはっきりするまでここにいることにする。彼のそ ばにいることもできるんだけどこっちのほうが落着くし、あそこには嫌な女がいるのよ。 まったくあの女は毎朝、彼がまだ生きてるのを自分の目で確認すると舌打ちして出て行き やがる。でも、子供たちに手厚く看病されてる。ああもう、彼はいったいどこに行っちゃ たのかしら、往生際の悪い!』デイジーの姿は青白い炎に包まれ輪郭がぼやけてきた。 「デイジーおばさん。落着いて」アスターは複雑な気持ちだ。
意外なことはあったけどアスターの村での生活は穏かなものだった。発展していく村を 散策し、懐かしい人々に会えば挨拶をする。先のことを思い悩む生活からしばし逃げるこ とにした。 デイジーおばさんは現れたり消えたりしながらアスターの面倒を見てくれた。時々彼氏 のところに行っているようだった。普通の交通手段は必要ないらしい。便利なもんだ。 ある気持ちのいい昼下がり、開け放した窓から入るさわやかな風を感じながらふたりは 食卓に座りゆっくりと午後のお茶を楽しんでいた。デイジーがお茶をおいしそうに飲む姿 をアスターが不思議そうに見ているのを気がついた。 『習慣よ、単なる習慣。もちろん飲んだり食べたりする必要はまったくないの。本当は匂 いも味もしない。のどを伝わる感覚もほとんどない。まるで気体を飲んでる感じ。だけど お茶の習慣はやめられない。気持ちの問題ね。だけど血にも肉にもならないんだからもっ たいない。食べ物には手をつけないようにしてる』それでもデイジーおばさんの作ってく れる料理は前と同じ味がした。さすがおばさん、家事の達人。 気楽で穏やかだけど怠惰な日々、いい年をした青年が続けるようなものではない。まる で引退した老人のような生活だった。さすがにアスターも気が咎めてきた。 夜、二階にある自分の部屋の窓から銀色に輝く満月を見ながらアスターは考えていた。 これからどうしよう。町に戻り学校の先生の戻るか。校長は喜んでアスターのことを受 け入れてくれるだろう。それに両親も安心するに違いない。だけどこうして村に帰ると、 ここの空気がいちばん自分にあっているのがよくわかる。それに、デイジーおばさんのこ ともほうってはおけない。そんなことを考えていると机の上で月の明かりに照らされ白く 輝く物が目に入った。荷物を片付けていたときに出てきたこの文鎮をアスターはは無造作 に机の隅に置いたまま忘れていた。そっと手にとって見ると重く生温かい。アスターの変 化はこの文鎮を手にいれたときからはじまった気がする。あの奇妙な店の奇妙な老人、い ったい何者だったんだろう? 急に寒気を感じ、首を振りながら文鎮をもとの所に戻すと ベッドにもぐりこんだ。思い煩うな、なるようになる。いや、なるようにしかならない。 アスターはあまり深く思い悩むたち性質ではなかった。
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