1 ティモシー ティモシーが魔女の館にたどり着いたのは夕闇が忍び寄る頃だった。 屋敷の正門に呼び鈴はなく、頑丈な扉は押しても引いてもびくともしない。ふと横を見 る小さな扉があった。その扉にはちょうど顔の高さに大きな黒いカエルの顔が貼りついて いる。その前に立つと突然カエルがにんまり笑い、ティモシーはギョッとした。逃げ出し たい気持ちをやっと押さえ、涎を流し、舌を出してティモシーの顔をなめまわそうとする カエルをさけて扉を叩いた。誰も出てこないし返事もない。しかたなくカエルをよけなが ら取っ手を回した。鍵はかかっていなかった。 「誰かいませんか?」中に入ってみるとそこ朽ち果てた中庭だった。「誰かいませんか?」 奥に進みながら、もう一度言ってみた。 「何か用かい?」突然、すりきれたマントを着て、右手に血のついた刀、左手にウサギを 下げた老女が後ろに立っていた。 「あの……その……ここで働かせていただきたいんです」いきなり声をかけられ驚いたテ ィモシーは前もって準備していた言葉がのどにひっかかった。 「間に合っているよ、とっととお帰り」老女は言った。 「でも僕、困るんです。いえ……、あの……帰るところがないんです」 「家や、両親はどうした?」 「家は猟師で、両親はイノシシにやられちゃったんです」ティモシーは必死だった。 「ふたりとも?」老女は眉を上げた。 「ええ、ふたりとも。それに身よりも親戚も誰もいないんです」急いでつけ足した。 「で、どうしてここにきたんだい。ここがどこかわかっているのかい?」 「ええ……たぶん……。知り合いにここに行くように言われたんです」 「知り合いって?」 「それがよくわからないんです」ティモシーは自分の言ってることがおかしいのは十分わ かっていた。 「よそへお行き」老女は細めた目で少年を見つめると冷たく言い放った。「ここはお前み たいな子供がくるところじゃないよ」 「でもほかに行くところがないんです。お願いです」ティモシーはくいさがった。 「もときた道をさっさとお帰り」老女はそれだけ言うと少年を押しのけ、崩れかけた建物 の中に入って行った。 あたりは薄暗くなってきていた。少年はため息をつくと、あたりを見回し今夜眠れそう な場所をさがした。もとは立派な屋敷であったろうが、その建物は巨人がまるで大きな金 槌で壊し、途中で飽きてそのまま忘れてしまったように崩れ落ち、あちこちに黒く焼け焦 げた跡が残っている。 もう一度ため息をつくと、とりあえず瓦礫の中で休めそうな場所をさがした。もしかし たらあの老女の気が変わり、少年をかわいそうだと思うかも知れない。期待できそうには なかったが。 少しばかりの荷物を降ろすと空腹を抱えながら、あのウサギが今夜のシチューになるの か、それとも何かの儀式の生贄になるのか考えた。いずれにせよどちらもティモシーは招 待されていないことなので横になり休むことにした。どうしてこんなことになったんだ。 こんなところにいること自体がおかしい。本当だったら家族と家で温かいウサギ肉のスー プとパンでも食べているはずだ。こんな恐ろしくて、変てこなところに……。 『いい加減に諦めろ、ティモシー。明日また考えよう。ゆっくり休養するんだ。』ティモ シーの中の住人が言う。 「だからうまくいきっこないっていっただろ」ティモシーは腹がたってきた。 『でも中に入れたじゃないか。ほかに何かいい考えがあったかい?』 悔しいけれどなんにもなかった。 「だからって、たとえ嘘でも僕の両親を殺してしまうなんて」 『納得したはずだ』 確かにそうだったが、気持ちはおさまらなかった。 『それにまったく嘘ではないだろう?』追い討ちをかけるように話してきた。 「全然ちがうよ」ティモシーは叫んだ。 ティモシーはここから遠く離れた村のはずれの森に住む猟師の息子で、いずれは父親の 後を継がなくてはいけない。でも本当はティモシーは猟師になりたくなかった。刃物は嫌 いだし、動物の血を見るのは苦手で、母親が作る畑を手伝うほうが好きだった。もちろん 父親には決してそんなこと言えなかった。 父親はそんな息子の気持ちをうすうす感づいていたのではと思う。だからこそ大きくな ると頻繁に狩りに連れ出し、弓や刀の使い方、動物の足跡の見分け方、罠の仕掛け方なん かを教えようとした。しかしまだ子供だということを差し引いてもあまり見込みがあると は思えなかった。ある日いつものように父親と森に入った。狩りはまずまずで、仕掛けて いた罠にウサギがかかり、父親は山鳩を2羽、弓で射落とした。 「もうこれくらいにして帰ろう」と父親が言ったとき、ティモシーはほっとした。獲物を 下げ、父親の後ろをついて行く途中、靴紐がほどけてしまった。 「父さん、先に行ってて。すぐ追いつくから」結びなおそうとしゃがむと、こぶしほどの 大きさがあるヒキガエルが靴の紐を口にくわえて引っ張っている。 「いたずらな奴だな」ちょっと驚いたが優しく引き離していると、後ろの茂みがガサガサ となった。嫌な予感がして振り返ると涎を流し鼻息の荒いイノシシがティモシーを睨みつ けていた。ティモシーは足がすくみ、金縛りにあったように動けなかった。ずいぶん時間 がたったように思えたけれど、実際はほんのちょっとの間の出来事だった。しばらくどう しようかその小さなおつむで考えていたイノシシが、とうとうティモシーを襲うことに決 め飛びかかろうとしたとき、矢がイノシシの横腹に突き刺さった。 「ティモシー、大丈夫か」父親が飛び出してきた。 ティモシーはすっかりおびえて声が出せなかった。 イノシシは向きを変えると、戦う相手を変えた。手負いのイノシシはがむしゃらに父親 に飛びかかっていった。父親はとっさに腰の刀を抜きその胸に深くつきたてた。イノシシ はどさり大きな音をたて、地面に落ちた。その間、ティモシーは怖くて動けなかった。 「父さん、大丈夫?」声が震えていた。 「ああ、大丈夫だ」父親は左肩を押さえていた。 やっと動けるようになったティモシーは父親の左肩から血が出ているのに気がついた。 「噛まれたの?」 「たいしたことない。さあ帰ろう」 「イノシシは?」 「後で取りにくればいいさ」 家に着くと母親はてきぱきと傷口の手当てをした。アルコールで消毒しシーツを裂いて ぐるぐる巻くとベッドに連れて行った。 ティモシーは急に情けなくなってきた。 「母さん、僕はなんにもできなかった。僕は……」落ち込んでいるティモシーを抱きしめ て母は言った。 「ティモシー、猟師にはよくあることなの。お前が悪いんじゃないよ」 「母さんは知らないんだ。父さんが襲われているのに、僕は怖くて動けなかったんだ」 母親さんは何も言わず、村に行ってお医者様を呼んできてくれと言った。 ふうふう言いながらやってきた医者は傷口を消毒しなおし、薬を塗り、新しい包帯でや はりぐるぐる巻きにした。 「幸い腱は切れていないからしばらく安静にすればもとどおり動くようになるじゃろう。 今晩は熱がひどいじゃろうから十分に冷やすんじゃ」そう言って薬を置いて行った。 ティモシーはほっとして、眠っている父のベッドの横に椅子を寄せ座った。 母親は医者と入り口でしばらく話していたが、台所から大事に取ってあった大きな鹿肉 の燻製のかたまりを持ってきた。特別のときに食べる肉だ。気を良くした医者は何かあっ たらすぐ呼ぶようにと行ってさっさと帰って行った。 母親がベッドのそばにやってきた。 「なんて情けない顔をしているの。お医者の先生も言っていたでしょう。大丈夫だって。 心配しないで。明日、マチルダにも知らせないとね」 マチルダはティモシーの姉で森の暮らしを嫌い、村の雑貨屋に住み込みで働いる。はっ きりとした性格でずけずけとものを言う姉さんは父親とはそりが合わなかったが、母親は そばにいないのを寂しがっていた。 明日は散々マチルダになじられるだろう。意気地なし、卑怯者、臆病者……でも、それ こそがティモシーの望んでいることだった。 「母さん、今夜は僕がそばについているよ。そうさせて」 「わかったわ」そう言うと母親はティモシーの頬をなでて出て行った。 父親が静かに眠っていたので安心したティモシーは眠ってしまった。明け方にふと目が 覚めると奇妙な胸騒ぎがした。急にのどの渇きを感じて台所に水を飲みに行き、ついでに 顔を洗おうと、たらいに水を汲み顔をつけようとしたとき、ギョッとした。たらいのふち に小さなアマガエルがとまってティモシーをじっと見ている。思わずたじろぐとそいつは にんまり笑い、突然、その小さな口から水を吹きかけてきた。「うわっ!」思わず叫ぶ ティモシーの口の中にアマガエルは見事なジャンプをして飛び込んんだ。「ゲホッ、ゲホ ッ」慌てて水を飲み吐き出そうとしたけど駄目だった。 「気持ち悪い、ゲェ」なんだかお腹の中がムズムズするがどうすることもできず父親の そばに戻った。父親の様子が変だ。額に脂汗を浮かべ真っ赤な顔で荒い息をしている。 「さっきまで静かに寝てたのに!」ティモシーは母親を呼びに行こうとしたが身体が動か なかった。 『君は動けないよ』誰かがティモシーに話しかける。 「誰?」あたりを見回した。 『僕はさっきのアマガエルだよ。君の中から話しかけているんだ』 ティモシーは思わずお腹を押さえた。悪い夢を見ているんだ。でも確かに声はティモシ ーの中からしている。 『君が驚くのは無理もないが、これは夢ではないんだよ。さっきは勝手に口から入らせて もらって悪かったね。でもそうしないと君と話ができないんだ。ところで君の父さんだけ ど、気の毒だがこのままだと助からない』 「いったい何を言っているんだ」ティモシーは叫びだしそうになった。 「痛い!」突然、内側から殴られた。 『ごめんよ、でも気を確かにして。これから僕の話を落ち着いて聞いておくれ。いまから 君のお父さんは危ない状態になる』 「君がしたのか?」 『ちがうよ。この症状は突然くる。あのイノシシは病気だったんだ』 そういえば目はぎらぎらしていたし、鼻息が荒く涎をたらしてなんだか変だった。 「でも、父さんだったら気づいていたはずだ」 『君のことが心配でそれどころではなかったんだよ。僕はあのときイノシシがいることを 君に教えようとしたんだ』 「君が? 確かあのときいたのはヒキガエルだった。もっと大きかった」 『あれも僕さ。あれから君達の後を追っ駆けてきたんだ』 「君は姿を変えられるの?」 ティモシーはだんだん自分の頭がおかしくなってしまったような気がした。まともじゃ ない。夜中にお腹の中のカエルと話をするなんて。やはり悪い夢だ。 『いや、できない。だいたい僕はカエルじゃないんだ。以前は君と同じ人間だった。僕も カエルの中にいるんだよ』 話がますますわからなくなってきた。 『僕はまじないをかけられてカエルの中でしか生きられなくなった。だけど困ったことが あってね、もう長い間ずっと助けてくれる人間をさがしていたんだ。やっと君に会えて必 死なんだよ。君を追い駆けてここに着いたとき、できる限り一番小さいカエルを選んだん だよ。そのほうが君もいいだろう?』 なんだか恩着せがましい。 「でも、君は姿を変えられないんだろ」 『ああ、入り口の横になたが置いてあったのをちょっと借りたんだ。ヒキガエルにはかわ いそうだったけどね』 ティモシーはなんだか気持ち悪くなってきてそれ以上訊くのをやめた。 『君と取引をしたいんだ』お腹の中のアマガエルは言った。 「取引?」 『僕が君の父さんを助けるのと引き換えに君に僕を助けて欲しいんだ』 「父さんを助ける? そんなことが君にできるの?」 『僕はまじないを使えない。だけど実体のない僕は僕の力をわけることができる。このま まだと君の父さんは死んでしまう』アマガエルは真剣だった。 こうしている間にも、確かに父親の具合は刻一刻と悪くなっているようだった。 「で、どうすればいいの?」ティモシーに迷っているひまはないようだった。 『僕にまかせればいい』 ティモシーの右手が勝手に動き、父親の左肩にそっと置かれた。父親の身体はとても熱 かった。ティモシーの手から何かが流れ出すのがわかった。ひんやりとして気持ちのいい 力だ。アマガエルは何もしゃべらなかった。しばらくすると父親の呼吸が穏やかになり、 身体の熱もおさまっていった。 『もう大丈夫だ』アマガエルの声はくたびれていた。『さあ、出発しよう』 「えっ?」 『約束しただろう』 あれからずいぶん時間がたったような気がする。実際は今朝のことだった。ティモシー はどこに行くのかと尋ねたが、すぐにわかるといって教えてもらえなかった。面白くはな かったが、ただ言われるままに進むしかなかった。半日歩き続けるとさすがに足が痛くな ってきた。 「もう歩けない」ティモシーは訴えた。 『ああ、悪かったね。君の身体が疲れることを忘れていたよ』 睨んではみたものの目の前に相手はいない。 木陰に入りひと休みした。「どこに向かっているの?」 『素敵なところさ』 「遠いの?」 『そんなに遠くはない』 ティモシーはなんとなく答えをはぐらかされているようで気にくわない。「肝心なこと を教えてもらってないんだけど」声がとがる。「僕はいったい何をすればいいの?」 『着いたら教えてあげるよ』 それだけ言うと腹の中のアマガエルは黙ってしまった。しばらく歩いているとティモシ ーは彼の名前を知らないことに気がついた。「ねえ、寝てるの? 君の名前はなんて言う の」 『フィル』 また静かになってしまった。 どっちへ行けばいいのかは足が知っているので、ティモシーはただ黙々と歩いた。歩きな がら後にした両親のことを考えているとフィルが話しかけてきた。 『何を考えているの?』 「やあ、君は僕の中で溶けてしまったのかと思ったよ」ティモシーはそっけなく答えた。 『心配してくれてるのかな? 大丈夫、僕は簡単には溶けない。それともほかの心配事か な?』 「あたりまえだろ。僕は黙って家を出てきた。母さん達は心配している」いっそ溶けてし まえばいいのにと心から願った。 『ちゃんと書置きしてきただろ』 あのとき、わずかばかりの荷物をまとめそっと家を出た。母親に黙って行くのはつらか ったが、言っても信じてもらえないだろう。それに……本当は目を覚ました父親に会うの がつらかった。イノシシを倒したあと、黙って帰る父親の背中はとても寂しそうだった。 アマガエルは何か書置きを残すといいと言った。でもティモシーは字が書けない。アマ ガエルに言われるまま台所で炭を見つけ、母さんが大事にしている白いよそ行きのエプロ ンに文字を並べテーブルの上に広げて置いた。もちろん実際に身体を使ったのはティモシ ーだったがなんと書いたかわからない。 『出発!』入り口の扉を開けるとお腹をぱっくり開いたヒキガエルが転がっていた。 「なんて書いたの」ティモシーは訊いた。 『しばらく旅に出ます、心配しないで。ティモシー』 「短いんだね」 『時間がなかったし、まともに書くものがなかったんだからしかたがない。ところで君の 両親は字が読めるの?』 「読めない」 それからしばらく黙って旅を続けていたが、館に近づくにつれフィルはおしゃべりにな った。 『君に出会うまで本当に大変だったんだ。もうずいぶん長い間いろんなカエルの中にいた んだ。ヒキガエル、アカガエル、アオガエル、トノサマガエル、イボガエル、アマガエル、 そして……』 「もういいよ。わかった、わかった」どれだけいたってカエルはカエルだ。ティモシーに 興味はない。 『だけど、どうしても人間の近くに行けないんだ。カエルのお腹からやっと出られたと思 うと、もう次のカエルが僕を食べるのを待ち構えている。半分やけになって一匹のカエル に最後の最後までおさまっているとこれがまた大変さ。カエルの肉が腐って穴があくまで 待たなくてはいけないんだ。とても気持ちがいいもんじゃない。おまけにカエルときたら 食べることしか考えてない。何も考えないんだ。あるときなんかカエルに入ったままヘビ にぱくりと飲み込まれてしまった。ハハッ、いまの君みたいだね』 ティモシーには笑えない。 『まったく僕は運がよかった。君だってそうだろ、父親を助けることができたんだから』 ティモシーは複雑な気持ちだった。それからもフィルはぺちゃくちゃといろんなくだら ないことをしゃべり続けた。まるでいままで話し相手がいなかったのを取り戻すかのよう だった。 突然、足が止まった。『あそこだ』丘の上の大きな屋敷を指差して言った。いや、もと は立派であっただろう屋敷と言うべきか。 「あそこは呪われた魔女の館だ」ティモシーは驚いた。 『そう呼ばれているのか?』 魔女の館の噂はティモシーのところまで届いていた。なんでも館に入った人は二度と出 てこない。魔女に食べられてしまうというものだった。 フィルにそう言うと『噂だろ。くだらない』相手にされなかった。 「行くのは嫌だ」ティモシーは抵抗した。 『約束した。君は守らなくてはいけない』フィルは厳かに言った。 BACK NEXT HOME Chap.1