12  魔物の館
 
 ティモシーとアルとマギーは桃の木の下にふたりの身体を埋めた。屋敷は以前の姿を取
り戻していた。雑草がぼうぼう生えていた敷地はきちんと整備され、植木はきちんと刈り
込まれ、畑は耕されていた。建物は古めかしさを残してはいたが壊れているところも破れ
ているところもなかった。ただ高い塔だけはなかった。テイモシーは中から見てみたが、
塔に登る階段が行き先もないまま天井で途切れていた。
 誰ともなく、きちんとかたづいた厨房に集まりそれぞれの思いに沈んでお茶を飲んでい
ると、エリックとケイトが現れた。
「やあ兄さん、おはよう。おはよう、ケイト。どうしたの?」アルがまるでいつもとかわ
らない朝だというように言った。
「何があったんだ!」挨拶もそこそこにエリックは話しだす。「明け方、ここが光ったか
と思うと大きな音をたて、村中大騒ぎだったんだぞ。皆、何事かと怖がっている。いった
い何があったんだ?」
 アルとティモシーはいきさつをすっかり話した。マギーはかいがいしくお茶を用意し、
ケイトとの再会を喜んでいた。
「驚いたな。そんなことがあったのか」エリックは腕組みをし、しばらく宙を睨んで考え
た。そしておもむろにアルに訊いた。「で、お前はこれからどうするんだ?」
「もちろん僕はここに残るよ。ここはほっとけないし、誰かが住まなくてはね。でも人が
ここに押し寄せてくるというのは嫌だな。兄さんの力でなんとかこのままにしておけない
かな?」
「そうか、ではここをどうするかはゆっくり考えることにして、取りあえずはこのままで
いられるように考えよう」
「さすが次期領主。頼りになる」アルの言葉にエリックは苦笑いをした。
 ふたりはフィルとエマに挨拶して帰ると言うので、皆で桃の木のところに戻った。お墓
といっても少し土が盛り上がっているだけだったが、そのわずかな盛り上がりの真上に大
きくて黒い年老いた犬が横たわっている。近づくと死んでいた。
「慌てていたから気づかなかった。そういえば門にいつも貼りついていたカエルがいなか
ったな」エリックが思い出した。
 どうわかったのかふたりが逝ってしまったのを知り、後を追ったのだろう。
「最後まで忠実な友達だったんだね。ブラッキー」ティモシーはつぶやいた。考えてみる
と誰も名前を呼んだことがなかった。ブラッキーも一緒に埋めてやると土の盛り上がりが
だいぶ大きくなった。
 帰り際、ケイトはアルを軽く抱きしめ、マギーの頬にキスをし「姉さん、またくるわ」
と言い、ティモシーには「姉さんをよろしくね」と言って帰った。エリックはアルに「た
まには父上に顔を見せるように」と言って帰った。父親はいまではとても元気になり、エ
リックを補佐として、まだ領主を続けていた。
 ふたりが帰るとまた静けさが戻ってきた。
「ケイトはいい人だね」ティモシーはマギーに言った。マギーはさも当然と言わんばかり
に「ケロッ」と鳴きどこかへ行った。
「これからどうなるんだろう」ティモシーがつぶやいた。
「さあ、エリックがうまくやってくれるよ」相変わらずアルは無責任だった。
「君はどうするの、ティモシー。家に帰るのかい?」
 そうだった。僕はもうここにいる理由がない! なぜここにいたか、フィルがいたから
だということを忘れていた。
「もうしばらくここにいてもいいかな?」ティモシーはまだ帰りたくなかった。
「もちろん、大歓迎だよ。いつまででも好きなだけいればいい」
 しばらくは不安な日々を過ごしていたが、何も変わったことは起こらず一同ほっとして
いた。だけど本当は全然違う。エマがいないのは愛すべき主がいなくなったように寂しか
ったし、ティモシーはフィルがいないことに慣れるまで穴が開いたような気持ちだった。

 エリックはすぐに村中におふれを出した。
 《 『呪われた館』の魔女はいなくなり、いまは違う魔物が棲みついている。ただしそ
の魔物は人間がそばにくるのを嫌がる。近寄ると何をするかわからないから決して、なん
びとたりとも館には近づいてはいけない 》
 厨房でその話をエリック本人から聞いたとき皆、ほくそえんだ。
「だが、いずれはここも有効に使うつもりだ。それまではお前が管理するんだ」エリック
はアルに言った。
「えー、僕が? そんな面倒なことは僕には無理だ」アルが抗議した。
「これは命令だ」エリックは許さなかった。それからティモシーのほうに向くと優しく言
った。「これからもアルを助けてやってくれないか?」
 もちろんティモシーはうなずいた。これで館にとどまる正当な理由ができた。だが両親
をこのままにしておくわけにはいかない。きっととても心配している。テイモシーは一度
家に帰る決心をした。
「ティモシー。絶対に戻ってきてくれよ。僕ひとりでは不安なんだ」アルが泣きつく。
「マギーがいるじゃないか」あれからもアルはマギーに平気でさわれるようにと一生懸命
にがんばってはいるが、いつもどこかに赤いブツブツをつくっている。
「戻ってくるよ。たぶん」ティモシーにもわからなかった。 

 皆が寝静まった夜、ティモシーは画伯の前に立っていた。
「画伯、眠っているところ悪いんだけどお願いがあるんだ」
「なんじゃい、今度はお前か。なんの用じゃ?」
「フィルとエマを描いて欲しいんだ。お願い、画伯ならそんな手間はかからないでしょ?」
 画伯はしばらく考えていたが、やがて描き始めた。いつ見てもひとりでに絵が現れる様
子には目を奪われる。そこには最高に着飾ったフィルとエマが寄り添って微笑んでいた。
 エマはとても幸せそうだった。ティモシーはフィルが『ありがとう』と言う声を聞いた
ような気がした。
「あのとき、エマにもっときれいな服を着せてあげればよかったね」ティモシーは言った。
「しかたないじゃろ、あれを始めたときはまだばあさんだったからな」
 
 ティモシーが帰ってみると家はもぬけの殻だった。父さんは死んでしまったんだろうか? いままで連絡すら取ろうとしなかったことを心底悔やんだ。そのとき家を出るときに書き置きしたエプロンが食卓の上に広げて置いてあるのに気がついた。フィルが書いた文字の下に父親と母親とマチルダの顔らしいへたくそな絵が描いてあった。皆、笑っている。マチルダのところに行ってみよう。
 姉のマチルダは村で鍋や鎌、その他日用品何でもありの雑貨屋に住み込みで働いている。そこに行けばどうなったかわかるだろう。ティモシーはエプロンをつかむと胸につかえる不安を抑えながら村へと急いだ。息を切らして雑貨屋に行くとマチルダが太ったおばさんに鍋を売りつけているところだった。マチルダはティモシーを見るなり鍋を振り回しながら駆け寄ってきた。おばさんは危うく鍋をぶつけられそうになり文句を言いながら店を出て行った。
「まったくあんたはどこに行ってたのよ」
「ああ、マチルダ姉さん。家に行ったら誰もいないんだ。父さんと母さんは?」
「父さん達はここに引越してきたの。いまはおじさんの仕事を手伝っているわ。この時間
なら母さんもそこにいると思う」
 後ろから雑貨屋の主人がマチルダに早く戻れと叫んでいる。
「もう、まったく、心配させて。わたしもいま、父さん達と一緒に住んでるから帰ったら
ゆっくり話を聞くわ。もう、まったくあんたのおかげで客をひとり逃がしたわ」そう言う
とティモシーをきつく抱きしめ店に戻って行った。
 おじさんは父親の弟で、皮なめし職人をしている。ということは父さんは生きている。
ティモシーは張り詰めていた気がほぐれ、やっとまともに呼吸できるようになった。
 おじさんの仕事場は雑貨屋からそう離れていない。表の店先には誰もいなかった。裏の
作業場に行こうとしたがいったいどんな顔をして会えばいいのか悩んでいると、裏口から
母親が出てきた。ティモシーに気がつくと何も言わずに思いっきり強く抱きしめ涙を流し
た。顔がよく見えるようにと少し離すと「なんだか大人っぽくなったねえ」と言ってまた
抱きしめた。
 「母さん、黙って出かけてごめんね」ティモシーはそれだけ言うのがやっとだった。
 母親に連れられて裏の仕事場に行くと、父親はおじさんと数人の若い見習い職人と一緒
にいた。父親はティモシーを見るとにっこり笑って腕を広げた。ティモシーはその胸に飛
び込んで行った。
 そのまま父親は仕事を切り上げると、村に構えたこぢんまりとした家に三人で戻った。
そこへ早く帰らせてもらったマチルダが息を切らして走ってきた。皆、大喜びで抱き合い、
お互いが元気で無事生きていることを何度も確かめあった。
 新しい家にはすぐに馴染んだ。家族の温もりがとても心地よかった。母親のおいしいシ
チューと手作りのパン、それだけの相変わらず質素な食事だったが何よりもご馳走だった。
食事をしながらティモシーは最初から終わりまでを一気に話した。また館に戻るつもりで
あるのを除いて。マチルダでさえ口を挟まずに静かに聞いていた。
「お前は不思議な体験をしたようだね」母親が最初に口を開いた。
「信じられないかも知れないけどぜんぶ本当なんだ」
「信じているさ」父親が言った。「わしはイノシシに噛まれて死にかけていたとき、どう
やら魂が半分飛び出ていたらしい。そのときお前とそのフィルとやらの話が聞こえたんだ」
 ティモシーは驚いた。
「だからお前が行かなきゃいかんわけもわかっていた。だから母さんにも心配するなと言
っていた」
「そうだったの。でも僕はあんなふうに出て行って本当に悪かったと思っている」
「気にするな」父親はティモシーの肩をたたいた。
 夜もふけマチルダはもう寝ると言って部屋に行こうとしたが、思い出したようにティモ
シーに言った。「あんたが話してた大ガラスの娘を見たことあるけど、飛んでいるのは見
たことないわ」
 やれやれ、姉さんらしい。ティモシーはおかしくなった。
 同じく寝室に引き上げようとする父親を呼び止めた。「ちょっといい?」ふたりは玄関
の外に座った。
 前に住んでいた森の家と違い、ここには人の活気に満ちあふれている。
「父さんは、僕のせいで猟師をやめたの?」
「いや、違う。もともと猟師は好きではなかった」
 ティモシーは意外だった。父親は腕のよい猟師だったから。
「わしはわしの父親の後を継いだだけだ。父親がそれを望んでいたからな。本当は違うも
のになりたかった」
「何になりたかったの?」父親のことを何も知らなかった。父親はティモシーが生まれた
ときから猟師だった。
「それが……実はな……」言いにくそうだった。「仕立屋なんだ」
「仕立屋って、あの洋服なんかを作る?」父親はがっしりした体格で手もごつごつしてる。
とてもあんな細い針を使えそうには見えない。
「そうだ。お前に残していった母さんの白いエプロン、あれはわしが縫ったんだ。結婚す
るときにプレゼントとして」
「本当なの! 驚いたよ!」
 父親はとても恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
「すごいな、父さん。感激したよ。母さんはあれをとても大切にしてた。ごめんね、あん
なふうにしちゃって。ちゃんと持ってきたんだ。明日洗ってみるよ。消えるといいんだけ
ど」
「いや、いいんだ。役に立った」父親は元気を取り戻した。「これからその道を進もうと
思っているんだ。とはいっても布ではなく皮を使ってね。いま、皮のことをもっとよく勉
強しているところだ。財布や小袋なんかを少し作って店先に置かせてもらっている。それ
がぼちぼち売れているんだ。これからもっとうまくなってもっと大きなものを作っていく
つもりだ。鞄や洋服や帽子や靴、それに家具だって! できるものもできないものもなん
でもだ」父親の声はだんだん大きくなっていった。
「そして店を構えるんだ。わくわくしてくるよ、まったく」
 こんなにしゃべる父親ではなかったし、こんなに話をしたこともなかった。ティモシー
までうれしくなった。
「母さんはなんて言ってるの?」
「応援してくれとる。ここは賑やかだ。ああ見えて母さんは寂しがりやだからここにきて
よかったと思っとるよ。ティモシーお前は何も心配しなくていい。すべてはよい方向に進
んでいるさ」そう言ってティモシーの肩を優しく叩いた。「さあ、家の中に入ろう。母さ
んが心配する」
 ティモシーの部屋はいつでも使えるようにしてあった。清潔なベッドに横たわり幸せな
気分に包まれながらぐっすりと眠った。

 次の日、皆が出かけるとひとりで村を見て回った。行商人や異国の人がちらほら目につ
く。大ガラスがいなくなりこれから村も発展していくだろう。足は自然と館で聞いた話の
場所へと向かう。どこにいっても懐かしい感じがした。
 大ガラスの巣があった森は開墾されることになり、大勢の人が木を切ったり運んだり忙
しそうに働いていた。邪魔にならないようにしながら先に進むと大ガラスの木はすでに切
り倒され、その上で十人は軽く食事ができるほどの切り株が残っていた。見つかったおび
ただしい数の骨は丁重に埋葬されたということだった。
 両親の無事を確認し、わけを話したら館に戻るつもりだったがまだ戻る決心がつかなか
った。僕は戻って何かの役に立つのかな。とはいえここで何をしたいかもわからなかった。
いつまでも僕だけ遊んでもいられない。気持ちが宙ぶらりんだった。
 広場に向かっていると見知らぬ娘から話しかけられた。
「あらあなた、ティモシーじゃない」
 ティモシーはあまり知り合いはいない。
「わたしよ」そういうと頭に巻いていたスカーフを取り、見事に輝く金色の髪を見せ、背
中の黒いマントを少し広げた。
「えっ! 君はもしかして……」
「そう、大ガラスの娘。わたしにはいま、名前があるの。ゴールディっていうのよ。アー
ロンがつけてくれたの。アーロンはあの鍛冶屋の息子よ」ゴールディはスカーフを巻きな
おしながら言った。
「でも、どうして僕のことを知っているの?」
「あのとき、わたし達は動けなかったけど見たり聞いたりはできてたのよ。だからあなた
のことも知ってる。ねえ、エマがいなくなったって本当?」
 ふたりは広場のベンチに場所を変え、ティモシーは大体のあらましを話した。
「大変だったのね。でもエマが幸せになってよかった。ああ見えてエマはとても優しくわ
たし達の面倒を見てくれてたのよ」ゴールディはしみじみと言った。
「まあ、大変。遅くなっちゃった。お義母さんに頼まれたお使いの帰りなの。遅くなると
お義母さんの機嫌がすぐ悪くなるのよ。飛んで帰ったら早いんだけどね」
 また会う約束をして別れた。しばらくぼうっとそのまま座っていたが目の前にあるくた
びれた象のそばに行ってみた。この象のところには何度もきた。話に聞いていた鮮やかさ
はもはや失われ、張りぼてはあちこち破れ、残った色はほとんど剥げ落ちている。それで
も子供達にとても人気があり、いつも誰かがその背中に乗っている。
「ずいぶん古ぼけてしまったな」いきなり後ろから話しかけられた。エリックだった。
「どうしてここにいるの?」今日はいろんな人に会う。
「ときどき村にきているんだよ」こうして話している間にも、通りすがりの村人がエリッ
クに挨拶し、エリックは手をあげて答える。
「皆から好かれているんだね」
「さあ、どうかな? 本当はまだ慣れていないんだ」
 エリックは以前の自分を忘れないようにいつも身体のどこかに赤いものをつけている。
今日は首に赤い大きなリボンを結んでいる。ティモシーの目はどうしてもそこに惹きつけ
られる。
「言わなくてもわかってる。ケイトがつけたんだ」エリックは決まり悪そうにぼやいた。
「この象のことは前から気になっていたんだ」エリックは話を変えた。「アルの大切な宝
物だし僕にとっても大切な思い出だ。今度、修理することにするよ。色もきれいに塗りな
おす、鮮やかな赤色にね」
「子供達が喜ぶね」ふたりは象の背中を取りあって喧嘩する子供達を見ていた。
「ところで君はここに残るの?」エリックが真剣な面持ちで言う。
「館に戻るつもりだったんだけど、どうしていいかわからなくなってしまって……」
「昨日、あそこに行ったんだが、いやはやあいつの頭の中にはいったい何が詰まっている
やら。エマもまったく厄介なものを残していったものだよ」首を振りながら言った。
「何かあったの?」
「アルだよ。戻って自分の目で見たほうがいい。マギーもよくやってくれているが、あの
館には君のようなまともな人間が必要だ。そこで僕からのお願いだ。館に戻ってくれない
か?」
 ティモシーは迷わずうなずいた。
 そうなると今度は心配で、居ても立ってもいられなくなった。エリックは呆れはてた様
子だった。いったい何があったんだろう。
 その夜、ティモシーは家族に館に戻る決心を話した。マギーはやれやれという顔をした
が、両親は驚かなかった。
「わかってたよ、ティモシー。いつかそう言うだろうと母さんと話してた。お前はあの館
が好きなんだろ? きっとお前のやりたいことはここではなくそこにあるんだろう」
「僕は何がしたいのかわからない。本当はどこにあるのかもわからない。でもいま僕がい
るべき場所はあそこのような気がするんだ」
「お前は自分が信じることをやればいい」
 翌朝、母親は泣きそうな顔を無理やり笑顔に変えていた。
「わたし達も遊びに行っていい?」マギーが言った。
「もちろんだよ」声が頼りない。ティモシーは本気でそう思ってはいるものの、不安は隠
せない。

 館に入る扉にはあの懐かしいカエルはいない。そのかわり青い火がともるランタンが下
げてあった。まだ明かりが必要な時間でない。ティモシーが近づくと炎がひときわ明るく
なった。今度はかまどの火が門番をしているらしい。
 真っ先に厨房に行った。そこには……なんと鍋をかき回している赤い髪の娘と、そのそ
ばには青白い火の柱が立っていた。
「これは……」驚きのあまり声がうわずった。二人を見据えたままあとずさり、逃げよう
としとたん慌てた声で呼び止められた。
「待って、ティモシー。わたし達よ。マギーとかまどの火」
 ティモシーはゆっくり振り返ると、大きく息を吸ってふたりをよく見た。確かにマギー
は話に聞いていたとおり赤くまとまらないクルクルの髪をしている。だけどもうひとりは
……人間じゃない! それでもよく目を凝らしてみると青白い炎に包まれたその中に紳士
のいでたちをした男がぼんやり見える。ふたりはティモシーがじろじろ見終わるのを辛抱
強く待っていた。
「帰ってきたのね。ティモシー」
「君は人間に戻ったの?」
「ええ、でもいつもじゃない」
「どういう意味?」
「エマが残してくれたもの。わたしは好きなときに人間に戻れるの。そしてかまどの火も
好きなときに人の姿になれる」かまどの火が帽子を取ってティモシーに挨拶した。
「でもかまどの火はしゃべれないの。どうやって会話するかいま、考えているところ。そ
れから……このことをアルは知らないの。かまどの火のことではなくってわたしが人間に
戻れるっていうことを」
「どうして?」
「あいつに教えるのが癪だから。もうちょっと苦労してもらわないと。カエルだとしても
わたしにかわりないんだから慣れるまで許さない」
「急にアルが現れたらどうするの?」
「大丈夫。近づいたらすぐわかるから。でも……アルを見ても驚かないでね。あいつは変
わった奴だと思っていたけど、あそこまでとはね……」マギーはため息をついた。
 そのとき、重たい足音とともにチリンチリンと鳴る鈴の音が厨房のほうに近づいてくる。
扉が開くと現れたのは大きな熊。それも二本足で歩く熊が前足で取っ手を握っている。
「うわっ」叫ぶティモシーを熊はがっちりと抱きしめた。
「もう、帰ってこないかと思ったよ」聞き覚えのある声だ。嫌な予感がする。
「もしかして、アル?」
「そうだよ。もちろんだよ。君がいなくて寂しかった」
 ティモシーは大ガエルが鍋をかき回しているのを横目で見た。かまどの火はニヤニヤ笑
っているように見える。
「これはどういうこと?」
「外でゆっくり話そう」そう言うと熊はマギーのほうをチラッと見た。

 マギーの入れてくれたお茶を持って中庭のベンチに座った。アルのお茶は水差しに入っ
ている。口の形からして普通のカップでは飲めない。マギーは本当に気が利く。水差しを
器用に持ちベンチに座る熊、頭がくらくらしそう。
「で、どうしてアルは熊になったの?」
「優しいエマの贈り物だよ。熊だけじゃなくなんにでもなれるんだ。ただ、何になるか選
べないんだよ。エマから貰った指輪をつけたとき、その力がわかったんだ」
 エマが残した指輪にはアルのために変身のまじないがかけられていた。それをはめてい
ると毎朝違う姿に変身する。そして夜がくるとその変身はとける。その姿が気に入らなく
ても一度姿を変えたらその日は違う姿に変われない。もしやめたければ途中で指輪をはず
せばいい。そして、何になるかはその朝のお楽しみということらしい。
「声は変わらないんだね」
「ああ、どんな姿になっても話せるんだ」
「いままでどんな姿になったの? いや、やっぱり言わなくていい」いまから嫌でも知る
ことになる。
「館のごたごたが落ち着いたから、やっと試し始めたばかりなんだよ。なかなか楽しい」
「アルはとてもきれいなのにどうしてそんな変なものになりたがるの?」
 アルは肩を落としてため息をついた。
「確かに僕はきれいだ。それもありえないほど美しい。だけど考えてみてよ。いまはまだ
若いからいいけど、どんどん年を取って美しさもなくなっていく。エリックのように頭も
よくないし、顔の他には何もない。ならばいっそ違う姿のほうがいい。そのほうが気が楽
なんだ。僕も君のようにどこにでもある平凡な顔だったらよかったのに」
 ティモシーは呆れたらいいのか怒ればいいのかわからなかった。だけど背中を丸めて落
ち込むアルを見ていると笑いがあふれてくる。笑いをこらえるティモシーを見てアルは変
な顔をする。熊の顔のできる範囲で。
「ねえ、画伯は元気?」笑いがおさまるとティモシーは訊いた。
「ああ、元気だよ。いまから会いに行こう。でもどこかに出かけているろうな」
「でかけるって?」

 画伯のいる小広間に行った。ここでいろんなことがあった。いまはきちんと修復され、
うらびれた雰囲気はなくなっている。壁にかかった絵には港町の風景が描かれていた。
「ちゃんといるみたいだけど」ティモシーはほっとした。
「画伯はこの絵の中にいるんだよ」そう言うと「おーい、画伯。ティモシーが戻ってきた
よ!」と絵に向かって大きな声で叫び、毛むくじゃらの手を振った。「ほら、よく見てご
らん」アルは絵の右隅を指差した。海に続く道の真ん中に描かれた人物が手を振っている。
あまりに小さいのでどんな姿をしているのかはわからない。
「よくこれが画伯だとわかるね」ティモシーは感心した。他にも人間がいっぱいいた。
「慣れたらすぐわかるよ」アルはこともなく言った。「画伯は自分の描いたところにいけ
るんだ。この頃はいつもどこかに行ってる」
「これもエマの力?」訊かなくてもわかった。
「そういうこと」
「楽しそうだね」ふたりはしばらく絵を見ていたが、ティモシーはなんだか沈んでいた。
「ティモシー、どうしたんだい?」
「エマは皆に何かを残してる。だけど僕には何もない」
「君だけじゃない。マギーも変わらない。他にも残っているカエルの置物なんかは何も変
わらない」
 目覚めようとしないカエル達はいいとして、マギーはちゃんと貰っている。だがそれを
アルに言うわけにはいかない。

 しばらくは平和な日々が続いた。アルは毎日ちゃんと変な姿で鈴の音とともに朝食のテ
ーブルにやってくる。どんな姿になってもアルだとわかるようにマギーから首に鈴を下げ
るように指示されたらしい。実際、それがマギー都合のためだけではなくとても役にたっ
た。突然、廊下の曲がり角で変な物体に出会ったら、それがアルだとわかっていても心臓
に悪い。だけど事前にアル接近の合図があると少しは心構えができる。
 ある日は案山子、ある日はワニ(このときアルは這いずり回りマギーは近らなかった)
 そしてゾンビ(この日は一日中マギーは全身マント脱ぐことを許さなかった) 決して
同じ姿になることはなかったし、アルは絶対途中で指輪をはずそうとはしなかった。不気
味で気持ちの悪い巨大ナメクジになった日でさえも。
 そんななかでも何も知らないアルはマギーを人間に戻そうと努力し、ちょっと位ならさ
わってもブツブツがでないまでになった。それでもまだまだ道は遠い。
 いつものように皆、揃って厨房で朝食を取っていると、かまどの火がはじけ人の姿にな
った。口から白い煙を吐くと、煙は館の扉の前で大きな荷物とふたりの男が立っている様
子を形作った。どうやら客がきたらしい。かまどの火もなかなか考えたもんだ。
 ティモシーが行って見ると、ふたりの男は汗を拭きながら頼まれた荷物を持ってきたと
言った。ティモシーがどこからと聞く間もなく、突然顔をひきつらせた男達はもときた道
を転げるように走り去った。後ろを見るとアルがいる。今日は骸骨だった。
 やれやれと肩をすくめるとティモシーは台車に乗った荷物に近づいた。それは大きな樽
で布の蓋がかぶせてある。
「なんだろう? アル、心当たりある?」
「ねえ、そこのあなた。蓋を取ってくれない? 窮屈でしかたないの」樽の中から声がし
た。
 驚いたティモシーがこわごわと樽にかぶせてある布を取ると、女の顔がぬっと出てきた。
「ぷはーっ」
「君は誰?」ティモシーはあとずさった。
「初めまして、わたしは人魚のウェンディ。画伯に聞いてここにきたの」
 ティモシーは一瞬、口を閉じることもできず呆然としてしまったが、気を取り直してウ
ェンディを厨房に運んだ。力仕事は骨が折れるから無理だと言うアルのせいでティモシー
は重たい台車をひとりで引っ張る羽目になった。その間、ふたりは何も気にせずにぺちゃ
くちゃとおしゃべりしている。ウェンディはアルの姿をなんとも思わないらしい。
 話しだすと止まらないウェンディの話をまとめるとだいたいこうだった。
 長い間サーカスで働いていたのだが、年を化粧でごまかすのが難しくなり、尻尾の色も
冴えなくなったという理由である日突然、団長から解雇を言い渡され、移動中に通りかか
った湖にぽんと置いていかれてしまった。あまりの出来事にショックを受け毎日泣いて暮
らしていたら、旅の途中だと言う老人にたまたま出会いこの館を訪ねてみてはと言われた。
画伯の名前を出せば大丈夫、皆、いい奴ばかりだと。しばらく迷ったが画伯の言葉を信じ、
ときどき様子を見に訪れてくれる狼男に頼んで旅の手配をしてもらいやってきたというの
だった。
 一息つくとウェンディはマギーの差し出したお菓子をおいしそうに食べた。
 結局、人魚は池に落ち着くことになった。幸いなことにウェンディは淡水を好んだ。湖
より小さいが水槽よりずっと大きい。
 ウェンディは池を気に入り毎日せっせと池の中を掃除している。お菓子も大好きだが、
なんといっても主食は水草らしい。この点でも大満足だった。ティモシーとアルはきれい
好きな人魚のために池の周りをきれいにする手伝いをした。長い間、呪われた池と立ち入
り禁止になっていたので荒れ放題だった。草を刈り取り、邪魔な石をどける。ときには見
晴らしがよくなるように木を切る。汗をかき働くティモシーの横でアルはウェンディとし
ゃべっているばかりだったが、ティモシーはもうとっくに諦めていた。
 池が見違えるようになり、後はベンチでも置いて憩いの場にしようと話しているところ
へマギーが息せき切って飛び跳ねてきた。ティモシーとアルに向かって「ゲロッ」と鳴く
とついてこいというように館に戻って行く。ふたりが後を追って厨房に入るとそこには大
ガラスの娘と鍛冶屋の息子がいた。
「どうしたの、ふたりとも?」ティモシーは嫌な予感がした。足元には大きな荷物がある。
ふたりは遊びにきたようには見えない。
「わたし達、家を出てきたの。ここに置いてもらえないかしら?」ゴールディが訴えアー
ロンがうなずいた。
 結婚して妻らしいこと、家事や日常生活を教えてもらうためにアーロンの実家で一緒に
暮らしていたゴールディは義母とうまくいかないらしい。生まれてから人間らしい生活を
したことがないゴールディは当然何もできない。それを理解できない義母はゴールディを
頭が足りないのではと思って、まるで小さな子供のように扱う。それがゴールディには我
慢できない。
 そして何よりも一番こたえるのが義母がゴールディの姿をとても嫌がってることだった。
なぜ自分の息子の嫁は普通ではないのか? 義母は決して口に出すことはないが、態度に
はっきり表れていた。それは自分の息子が望んだことでゴールディのせいではないのに。
で、とうとうふたりして家を出てきたと言うのだった。
「ここならわたし達が住むくらいのゆとりがあると思うし、アーロンは器用でなんでもで
きるのよ。とても役にたてると思うわ。お願い」横でアーロンがまたうなずく。
「それにわたしも結構、物覚えはいいの」そう言ってあたりを見回した。「料理だって、
少しはできるわ、まだ少しだけど……」
「アル、どうする? 君が決めてよ。君がここの責任者なんだから」
「そうだな……、いいんじゃない。ここは広いわりに住人が少ない。賑やかになって楽し
い」このときのアルはロバだった。誰も驚かない。やっぱりね。ティモシーはこっそりた
め息をついた。
 ふたりは森番の小屋を新居とした。アーロンはそこでいろいろと道具をそろえ、本来の
鍛冶の仕事から大工、庭仕事、畑仕事なんでも本当に器用にこなし、とても役に立った。
ゴールディはマギーを先生として家事全般を教えてもらっている。ふたりはなかなか相性
がいいようだ。ゴールディは自由に飛べることをとても喜んだ。村では義母に禁止されて
いたらしい。それでもときどき、村まで飛んで行きアーロンの実家に顔を見せている。も
ちろん村の手前で羽をたたんで歩いて行くことを忘れなかった。たまに会うと義母も優し
いと喜んでいる。なかなかゴールディはいじらしい。
 意外だったがゴールディはマチルダと友達になっていた。ティモシーから話を聞いてい
たマチルダがゴールディに話しかけてきたのが始まりだそうだ。
「はっきりしていて頼りになる人だわ。実はここにくるのを勧めてくれたのはあなたのお
姉さんなの」後でティモシーは言われた。そんなことがあったなんて、姉さんもだいぶ変
わったな。結構うれしかった。
 
 エリックはケイトとときどきアルや皆と屋敷の様子を見にくる。アルを見て思いっきり
顔をしかめるのだが、当の本人は何も気にしていない。幾度となくアルに館の主の自覚に
ついて言い聞かせるのだが、どこ吹く風で頭には届いていない。おまけにいつも表情がわ
かりづらい何か得たいの知れないものなのだから余計にやりにくそうだ。諦めている? 
それとも逆に信頼しきっているのかも知れない。そこは兄弟だから他人にはわからない強
い絆があった。
 エリックは大ガラスが残した莫大な財産を画伯の後ろに隠し金庫を作り置こうとしたが、
画伯が金庫を開けるたびに動かされるのが嫌だと言ってしぶった。そこでエリックが新し
い立派な額縁を贈ると言うと手のひらを返したように、いつでもどうぞとまで言った。
 大ガラスの財産は本来娘であるゴールディのものだとエリックは申し出たのだが、ゴー
ルディは受け取らなかった。エリックは村のために有意義に使う約束をして譲り受けた。
 ティモシーはエリックからちょっとした仕事をまかされた。それは館の残るカエルの置
物、エマのまじないを解いていない者をすべて捜しだし、管理するというものだった。屋
敷中をくまなく回り、十三体の置物を見つけた。まだあるのかも知れないが、なんせ何に
変わっているのかわからないのですべてを知るのは難しい。それらのいる場所を覚え、毎
朝確認してまわった。なかにはたびたび場所を変えたがるものもいて厄介だった。どこか
にまとめて閉じ込めておければいいのだろうが、もとは人間なのだから粗末には扱えない。
 ティモシーは記録を残す必要を強く感じ、文字を学ぶことにした。はじめアルに頼んだ
のだが、アルはすぐ飽きてしまい、あるわけもない用事を思い出しすぐにどこかへ消えて
しまう。画伯もいつもどこかへ出かけていてあてにならない。ところがマギーにも読み書
きができた。なんでも子供の頃、エリックに本を読んでもらったことから、興味を持って
学んだらしい。ただ、マギーはいつも忙しい上に鈴の音がするたびに中断するのでなかな
かはかどらないのが悩みの種だ。それでもなんとか置物に番号札を貼りつけ、場所と特徴
を記録できるようになった。
 
 村にお使いに行っていたゴールディが、明日、三人で遊びにくると言うティモシーの両
親からの伝言を持ってきた。ティモシーはとてもうれしかったが、同時に不安にもなった。
 次の日、館の扉のところまで出迎えに行くと、人の姿をしたかまどの火が白い煙を吐い
て挨拶していた。おののきあとずさる両親が急な用事を思い出す前に引きずるようにして
厨房へと案内した。
 そこにはよそ行きの服を着た大きなチンパンジーと小さな子供ほどの大きさで頭の赤い
カエルがティモシーの両親を歓迎するために待っていた。カチカチにかたまっている家族
にふたりを紹介すると、アルは真っ白い歯とピンク色の歯ぐきをむき出しながらにっこり
笑い、礼儀正しく皆に椅子を勧めた。話には聞いていたが聞くと見るとでは大違い、両親
は口もきけずただ目を丸くして、マギーが入れてくれたお茶を受け取った。マチルダだけ
は平静を装って「どうもありがとう」と言ったが手が震えていることは隠せなかった。
 アルのもてなしと、マギーの心遣いで緊張はしだいにほぐれ、両親にも少しずつ笑みが
戻ってきた。ティモシーはそっと息を吐くと、やっと冷めたお茶に口をつけた。
 屋敷の外を案内しがてら他の皆を紹介したらというアルの言葉にティモシーの家族は興
味を持った。まず画伯のところに行ったがやはり出かけていた。草木の生い茂った恐ろし
い沼地にいるようだ。最近は変わった場所に行きたがる。一応、適当に手を振って家族を
紹介しておいた。それから果樹園に行き、桃の木の下に眠るフィルとエマとブラッキーに
会いに行った。
 そこにはアーロンが作った白くてなめらかで美しい石の球が仲良く並んでふたつ、そし
てふたつの石の前にひと回り小さい黒い石の球がひとつ置いてある。それぞれには名前が
刻んである。そこに花が絶えることはない。
 そのあと、畑にいたアーロンとゴールディに挨拶し、池のところに行ってウェンディを
紹介しても、もはや誰も驚かなかった。
 父親が話し好きなウェンディに捕まり悩みを聞いているのを、母親とティモシーは池の
ほとりのベンチに座り見ていた。マチルダはゴールディのところに行った。
 ウェンディは腰から下を水につけ、父親はズボンをまくりあげ膝から下を水につけてい
る。とてものどかだ。
 ティモシーはさっきから立ったり座ったり、妙に動きがぎこちない母親が気になりじっ
と見ていると母親はぱっと顔を明るくした。
「やっと気がついたね、このスカート。父さんが初めて作った服だよ」
 さわってみると見た目は布のようだが、実は皮でできているのがわかった。それもかな
り固い。そういえば完璧な形に広がったスカートの裾はその形を変えるのを嫌がり、母親
が座るたびに前へと持ち上がりスカートの中身を皆に見せたがるのだが、母親はそれを上
から強く抑えることで阻止していた。
「どうりでなんだかギシギシ、音がすると思ったよ」ティモシーの言葉に母親は「はいて
いるうちにだんだん柔らかくなるのよ」と父親を弁護した。それから「まあ、改善の余地
はあるはね」とつぶやいた。
 そのとき「大丈夫だとも、わしにまかしとけ!」父親が人魚の背中をばしんと叩いた。
「動物の皮も魚の皮も同じ様なもんだろ」父親は立ち上がり腕組みをして歩き回りながら
考えごとを始めた。ウェンディが気分を害しているのには気がついていない。
「どうしたの?」母親がウェンディのそばに行った。
「わたしの尾びれの色が褪せて魅力的ではなくなったと言ったの。これでも若い頃はとて
も新鮮できれいに輝く青色の鱗だったのよ。」そう言うといまや灰色に近い尾びれを持ち
上げて見せた。
「そうしたら好きな色に染めてくれるって言うの。素敵ね、あなたのだんな様は。染める
ならやっぱり青色がいいわ、鮮やかなサファイアブルー、わたしの瞳と同じ色。それから、
もしよかったらお揃いの胸当ても欲しいんだけど。これはもうすっかり古ぼけちゃったし、
すぐずれて困ってるの」
 人魚は貝殻に紐を通した胸当てをしている。
「確かに古臭いし時代遅れだわね。ちゃんと主人に言っとくわ。あの人にまかせておけば
大丈夫よ」母親は請け負った。ウェンディはすっかり機嫌を直していた。
 館に戻る途中、ティモシーは母親に訊いてみた。父親はあれからずっと考え込んでいる。
「あんなに簡単に約束しちゃって大丈夫なの?」
「もちろんだよ。ちょうどいま、皮を染める研究をしているところだったんだよ。でなき
ゃあんなことは言わない。父さんはできない約束はしない人だよ」
「なんだか父さん変わったね」
「ああ、前から素敵な人だったけど、いまはもっと素敵だよ」

 厨房に戻ると皆、大騒ぎをしていた。
「パーティの準備だ。手伝って」チンパンジーがテーブルクロスやらナプキンを運んでい
る。
「どこへ?」
「もちろん画伯の部屋だよ!」
 ゴールディもマチルダも温かい料理や食器を運んでいる。両親も言われるままにワイン
や椅子を運んでいた。
 広いテーブルがすでに運び込まれており、その上にテーブルクロスを広げると、いつの
まに作ったのかテーブルいっぱいのご馳走が並べられた。ゴトゴトと音がしたかと思うと
アーロンが樽に入ったウェンディを台車に乗せて連れてきた。ウェンディはいつの間にか
しっかり化粧をしている。どちらかという地味で平凡な顔立ちなのだがしっかり化粧をす
ると謎めいた美女になる。男達だけでなく女性陣も感心していた。アルは何も気がつかな
い。
 あたりが薄暗くなり始めるとかまどの火が、壁とテーブルの蜀台のロウソクに指先から
火を移す。アルがちょっと失礼と言って部屋から出て行った。そのとき、かまどの火が新
しい客の到着を告げた。まもなくエリックとケイトが入ってきた。
「間に合ったかな? ゴールディから知らせを聞いて急いできたんだ。僕達も飛べたらも
っと早くこれたのだが」
 それからひとしきり初対面の挨拶があった。久しぶりに戻ってきた画伯は、フィルとエ
マの姿を描いた。ふたりの足元にはブラッキーが寝そべっている。
 ティモシーがいなくなったアルをさがしに行こうとすると、ふらふらと悲しげなアルが
入ってきた。「戻ってしまったよ。まったく中途半端なんだから」それから気を取り直し、
パーティの始まりを宣言した。
 アルの本当の姿を初めて見たティモシーの家族はその美しさに恐れおののき、話しかけ
るのをためらった。さっきまで平気で話していたのに。それでもワインの樽が空になる頃
には皆、遠慮も何もない。自分が誰に話しかけているのかさえわかっているのか怪しくな
っていた。
 マギーは酔っ払ってときどき人間に戻っている。アルが気がつかなければよいのだけど。
皆とても楽しそうだ。かまどの火はワインを飲みチキンパイを食べている。ワインは口に
運ばれると水蒸気になり、食べ物は灰になる。なのに燃やすことなく椅子に座っている。
かまどの火の心は本当にまだ冷たいのだろうか? 
 アーロンがグラスを叩いて皆の注目を集め、ふたりの子供ができたことを発表した。ゴ
ールディは横で頬を染めている。皆からの盛大な祝福を受けながらアーロンは顔を真っ赤
にして満面の笑みを浮かべている。
 アルがどこかから持ってきたヴァイオリンを弾きだすとティモシーの両親とエリックと
ケイトが踊りだした。マギーはウェンディの樽に入り込みふたりでなまめかしく身体を揺
らしている。壁の絵の中でフィルとエマとブラッキーも踊っている。マチルダがかまどの
火からダンスの相手に誘われている。 
 ほんの少しのワインでいい気分になったティモシーは賑やかな馬鹿騒ぎを見ながら幸せ
な気分に浸っていた。

 気がつけばティモシーは服を着たまま自分のベッドで寝ていた。昨日のことは夢だった
のか?  
 着替えもそこそこに急いで厨房に行った。厨房にはくすんだ色をしたマギーと青い顔を
した父親とどんよりとしたマチルダが、母親が庭から摘んだ薬草を煎じた二日酔いのお茶
を飲んでいる。母親はせっせと昨日の残骸をかたづけていた。かまどの火の勢いが悪い。
「おはよう、ティモシー」母親が小さな声で話す。他はうなずくだけだった。
「昨日は楽しかったよ。こんなに面白いことは初めてだ」やはり皆うなずいたのでティモ
シーもそうした。
 エリックとケイトも馬からずり落ちそうになりながら帰ったそうだった。両親は空いて
いる部屋でマチルダはゴールディのところで休んでいた。ティモシーがどうやって部屋の
戻ったか覚えていないと言うとマチルダがティモシーを引きずって運んでいるアルを見た
と言う。
 母親のお茶のおかげで生き返った家族が家に帰るのを見送りながら、別れ際に言ったマ
チルダの言葉を考えていた。
「ティモシー、ここは本当に変わったところね。『魔物の館』というよりは『いかれた館』
ね。でも面白かった。大好きよ」そう言って笑った。
 ティモシーはこれ以上むやみに何かを連れてこないように画伯に釘をさしておかなくて
はと心に留めた。
 厨房に戻るとゴールディが浮かない顔でテーブルに両肘をつきお茶を見つめていた。マ
ギーはいない。
「おはよう、アーロンは大丈夫?」
「いま、ウェンディに頼まれたベッドを作ってる。あの人は強いのよ」そう言ってため息
をついた。
「どうしたの、何かあったの?」
「心配なの、本当はとても不安なの」そう言うとカップの中をのぞきこんだ。「もし、生
まれてきる子供が変だったら、羽くらいだったらいいけど、頭がカラスとか、人の肉を食
べるとか……」
 後のほうは確かにかなりまずい。ティモシーはなんと言えばいいのかわからなかった。
「アーロンはなんて言ってるの?」
「彼は僕たちふたりの子供ならどんな子でも可愛いと言って何も心配していない」
「それならいいじゃない。心配することはないよ」ティモシーは気安めに聞こえないこと
を願った。
「そうよね、なんとかなるわよね」ゴールディは少し明るくなった。「今日、アーロンと
お義母さん達のところに報告に行くの。食料も底をついてるし。お義母さんはどんな顔を
するかしら?」また顔が曇る。
「きっと、喜ぶよ」
 ゴールディはすっきりしたのか元気に飛んで行った。
 それにどんな子供でもこの館なら受け入れることができるだろう。ティモシーは心の中
でそうつけ加えた。

 ティモシーはいつものように沈黙する住人達に挨拶をしてまわった。ほとんどに変わり
はなかったが、中には廊下の隅に隠れていたり、耳をふさいでいる者もいた。うるさくて
眠れなかったのだろう。
 画伯の様子を見に行くと小広間の中はまるで嵐が過ぎ去った後のようだった。椅子は思
い思いの格好で転げまわり、テーブルクロスはしみだらけ、床はところどころ水浸し、ゴ
ミや食べかすがあちこちに散らかっている。やれやれ。ティモシーは道具を取ってくると
掃除を始めた。食器は母親がかたづけてくれていたのでずいぶん助かった。椅子を部屋の
片隅に積んでいると、カーテンの後ろにヴァイオリンが隠れていた。手に取るとそっと棚
の上に置き掃除を続けた。画伯のキャンバスは真っ白のままで、ときどき小さな鼾を描い
ているのがわかる。
 以前と同じ静けさだったがいまでは屋敷中が生気を取り戻したように喜んでいる。

 元気を取り戻したマギーが人の姿で手伝だってくれたのでずいぶん早くかたづいた。洗
ったテーブルクロスとナプキンを干すと一息つくことにした。
「マギー。どうしてエマは僕には何も残していってくれなかったんだろう?」
「そうね、あんたはここにきた理由が皆と違うわ」
「でも、僕だけ何も変わらないなんて」
「あんたも何か変わりたいの?」
 ティモシーはしばらく考えた。「わからない」
「そのままでいいじゃない。あんたはとても普通の子だわ。いい意味で言ってるのよ。普
通でいるってのはとても難しいわ」そう言ってマギーは笑った。
 ティモシーは何が普通なのかよくわからないが、この館の中では自分が一番普通でない
ような気がする。それからマギーと残ったお菓子を食べながら取りとめのない話をしてい
たが、ふと気がついた。そういえば一度もアルを見ていない。
「アルはどうしたんだろう?」
「まだ寝てる」
「具合が悪いんじゃないの? 見に行ってこようか?」
「ほっとけばいいのよ。鼾をかいて寝ていたわ」
「見てきたの?」
「いま、わたしアルの部屋で寝てるの」
 少しでもカエルのマギーに慣れるためにアルが提案したらしい。アルも涙ぐましい努力
をしている。マギーが好きなときに人間になれるとも知らずに。
「もうそろそろ教えてあげたら?」
「まだまだ、なんだか面白くなっちゃって」マギーはにやりと笑った。
「最初はベッドの足元の隅にいたんだけどだんだん上がって行って、いまはアルの頭の横
で寝てる。枕を三個分へだててね。でも夜中にこっそり寝顔をさわってみると、ブツブツ
なんかできない。本当は図太い神経持っているくせにね、まったく」
 結局ふたりはいいコンビなのだろう。その日とうとうアルは姿を見せなかった。

 夜、ベッドに横になりティモシーは考えていた。これまでいろんなことがあった。誰に
話しても信じられないようなことがここでは当たり前のことだ。これからも驚くようなこ
とがたくさんあるだろう。自分はいつかそれらのことに慣れてしまって何も感じなくなっ
てしまうのだろうか。目をつぶって想像してみる。答えは出ない。実際に生きてみないと
わからないこともある。
 ティモシーはいままでのこと、これからのことを書き残そうと思った。いつか読み返し
たときにどう感じるのか楽しみだ。

 次の朝、ティモシーはすっきりさわやかな気分で目が覚めた。厨房に行くと巨大な七面
鳥が大ガエルにスープを食べさせてもらっている。
「おはよう、アル、マギー、かまどの火」
 スープをついで振り返ると七面鳥の背中の羽が逆立っているのに気がついた。そういえ
ばアルは何になっても背の高さが変わらない。だから余計に気持ちが悪い。
「さっきアーロンが池にベッドを沈めるから手伝ってと言ってたよ。僕も手伝いたいんだ
けど、あいにく今日は手がないんだ」アルはその気もないのにすまなそうに言う。
 番小屋に行くとアーロンが腕組みをして外から小屋を眺めている。
「アーロン、手伝いにきたよ」ティモシーが声をかけるとアーロンは顔を輝かせて話しだ
した。
「どうだい、ティモシー。この小屋を改造してもっと大きくしようと思うんだ。赤ん坊も
生まれるし、子供部屋もいるだろう? 仕事場もいまのままでは手狭だし、広い居間も欲
しい。それに子供はもっと欲しいし、ああ、きりがないな」とても幸せそうだった。
「素敵だね、アーロン。僕も手伝うよ」
「ありがとう。そうだ、アルの許可を取らなきゃ駄目かな? ここの家主だし」
「そうだね、言っておいたほうがいいと思うよ。一応、家主だから」

 池にベッドを運ぶと先にきていたゴールディとウェンディがなにやら話し込んでいる。
「何の話?」アーロンが訊くと「内緒」ふたり揃って答えた。
 ベッドの足に重石をつけふたりがかりで沈めると、ウェンディは池の底に潜って行った。
アーロンが一緒に行こうかと言うと散らかってるから駄目だ、きちんとかたづいたら皆を
招待すると言った。アーロンはほかにもテーブルやソファー、箪笥やらを頼まれているら
しい。ベビーベッドを作りたいのにウェンディは人使いが荒いとぼやいていた。
 それにしてもウェンディが池を広げているのは気づいていたが、住居を改造するのがい
ま流行っているらしい。かまどの火も何か始めるのだろうか?
 忙しいアーロンとゴールディは先に戻って行った。別れ際、ゴールディはティモシーの
耳元で囁いた。「お義母さんは喜んでくれたわ」

 ウェンディは潜ったっきり上がってこない。ティモシーはベンチに座って物思いに沈ん
でいた。そこへ七面鳥がひょこひょこやってきて横に座った。
「気持ちのいい日だね」優しいそよ風が吹いていた。
「ヴァイオリンが弾けるんだね」
「僕も知らなかったよ。小さい頃、習ったことがあるけどいつも逃げていた」
「アル、ありがとう」
「何がだい?」
「僕の家族はとても喜んでいた」
「大切な君の家族だからね、当然だよ。それに君はここでは貴重な人間だ」アルは笑った。
 ふたりはしばらく黙って館を眺めていた。
「ねえ、アル。この池のほとりに柳の木を植えたいんだけど」
「素敵だね。まず、ウェンデイの許可を取らないとね」
「うまく根付くかな?」
「うまく根付くといいね」

 その夜、ティモシーは夢を見た。
 銀色に輝く満月に照らしだされた美しい湖があった。
 湖のほとりには若々しい貴婦人のような柳の木が並んでいる。優しい月の光に包まれた
そのしとやかな姿を水晶のように澄んだ湖に映し、長く垂らしたしなやかな枝で時折り水
面に波紋を描く。かすかにたなびく白いもやの中、薄緑色に輝く無数の光の球が戯れるよ
うに飛びまわっていた。
 そこは静かで満ち足りた世界だった。


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