5  エマ

 エマは桃の木の下にただずんでいた。気がつくといつもこの木のところにきてしまう。
何か意味があるのだろうか? いまはちょうど桃の花が満開であたりは甘い香りに包まれ
ていた。
 エマはずいぶん長い間生きてきた。だが実感がない。だいたいエマという名前すら怪し
いものだ。いったい自分は何者なのか、エマには昔の記憶がなかった。この館の広間の真
ん中で干からびてしなびた木の枝を胸に抱いて倒れていたところから記憶は始まる。館は
すでに崩れていたが、まだ煙がくすぶり、焼けたにおいが立ち込めていた。エマのほかに
は誰もいなかった。木の枝を抱いたまま、ゆっくり立ち上がるとあたりを見回した。立派
な屋敷のようだが、何が起こったのだろう? エマは自分の姿を見下ろしてみた。豪華で
美しい衣装を身につけている。このときエマはまだとても若かった。
 わけがわからないまま、頭痛のする頭を押さえ記憶をたどってみた。すると枯れ木がき
しむような声が遠くから聞こえてくる。
『お前には悪いことをしたな。しかたないんだ、約束は約束だ。お前はいい奴だ。このま
ま生きていくのもつらいだろう。お前の記憶をすべてこの指輪に閉じ込めよう。それとこ
の種の力を与えよう。好きに使うがいい。新しい人生を生きるんだ。もしこの指輪を見つ
けたらお前はすべてを思い出す。でもやめておいたほうがいい』
 これはどういうこと? いったい何があったというの? 何もわからないまま取り残さ
れてしまった自分はいったい何をしてしまったというのだろう。頭痛はどんどんひどくな
ってきている。今度は違う声が聞こえた。
『エマ、あんたには悪いけどわたしも行くわ。皆、怖がって逃げて行く。この館は呪われ
ている、そしてあんたも。エマ、恨まないでね。あんたのことは大好きだけどやっぱり怖
い』
 どうやらこの館とエマは呪われているらしい。館の外に出てあたりを見回した。激しい
嵐が通り過ぎたあとのようだった。
 これからどうしよう?
 エマは館に残った。出て行くこともできたのだが人に会うのが怖かった。呪われている
という自分がどう扱われるのか試してみる勇気はなかった。
 館を見て回り、住める場所をさがし、誰か戻ってくるのではないかとびくびくして暮ら
した。 
 そんな生活がしばらく続いたが、誰も戻ってはこなかった。この館はよほど恐れられて
いるらしい。気持ちが落ち着くとエマはあの変な声が言っていたことを考えた。 種の力
? どんな力だろう。エマは内なる力に神経を集中してみた。すると何ができるかがおの
ずとわかった。それはものの姿を変える力、なんでもできるわけではなく、相手に意思が
あり望んでいないといけない。その代償として相手の生命力をいただくというものだ。そ
して貰った生命力を違う力に変え自分の好きなように利用できる。生命力といってもほん
の少しなので相手が死ぬことはない。しばらくの間は弱るかも知れないがまた回復する。
 これがなんの役にたつのだろう? エマには必要のないもののように思えた。
 ひっそりとした館を見てまわっても何も思い出せない。考えるのに疲れはて、ぼんやり
と中庭のベンチに座っていると近くの茂みがざわざわと音をたてた。驚いて隠れようとす
ると、突然大きな黒い犬が現れ、エマを見るとうれしそうに尻尾を振り駆けよってきた。
長い間何も食べていなかったらしくあばら骨が浮き出るほど痩せている。
 「驚いた。お前はわたしを知ってるの?」
 犬はエマの顔をぺろぺろなめ、「クゥーン」と鳴いた。
 エマはひとりで寂しかったので犬の存在はうれしく、また心強かった。とても賢い犬で
言葉をよく理解し、エマを守るようにいつもそばによりそい、よい話し相手になった。エ
マの作るスープには野菜しか入ってなかったから物足りなかったのだろう。ときには野ウ
サギやキジを獲ってきた。
 平穏な日々が続きエマは自分が何か思い違いをしているのではないかと思うようになっ
た。ここはただ人々から忘れさられいているだけ、自分のことなど本当は誰も知らないの
では。
 ある日、思い切って村に降りてみようと思った。館は村を見下ろす丘の上にあり、途中
の道は荒れ果てていたがどうにかなるだろう。運よく、途中で誰にも会わず村に行くこと
ができた。犬はエマの不安を察してついてきてくれた。その頃はまだ行きかう旅人や行商
人も多く、村人は見知らぬ人にもそれほど関心をしめさなかった。エマはほっとして広場
のベンチに座ってあたりを眺めていると、小さな子供を連れた女がそばを通った。女はエ
マを見ると目を大きく見開いた。「エマ、あんた生きていたの? あんたは……」そう言
うと子供を抱き上げ逃げるように走り去った。あの声は覚えている。あのときの……。エ
マが追い駆けようとしたとき、いかつい男がこぶしを握りしめて近づいてきた。
「ここで何をしている。俺の女房がお前は呪われた女だと言っている。お前がいると災い
が起こるとな。さっさともといたところに帰れ」
 エマは女のほうを見ると、遠く離れた場所で子供を後ろに隠し、恐ろしいものを見るよ
うな目でエマを見ている。騒ぎを聞きつけ人が集まり始めた。結局何もわからないまま追
われるように帰った。
 村では呪われた魔女が黒く恐ろしい魔物をつれて現れたという噂が広がった。村人を食
おうとしたとか、子供を連れ去ろうとしたとか、まことしやかに囁かれた。言うことを聞
かない子供に手を焼く親達はいい子にしないと魔女が夜中にさらいにくると言っておどか
した。
 それらはエマには知る由もないし、知っていたとしてもどうでもよかった。
 館にいればなんの心配もいらない。井戸があるし小川もある。貧弱だが畑もあれば、果
物の木もある。食べ物はどうにかなるだろう。建物もすべて壊れているわけではない。必
要な物はすべてあった。
 エマはそれから二度と館から出ることはなく、呪われた屋敷の主となった。
 畑を耕し、屋敷をかたづけ、荒れ果てた廃墟になるのをなんとかくいとめようと頑張っ
ているのだが女手ひとつでは限度がある。このままだと雑草に侵略されちゃうわね。エマ
はため息をついた。
 館を取り囲む空間は、そこだけ時が止まったように何も変わらなかったが、エマと犬は
静かに年を取って行った。あんなに活発だった犬もだんだん動きが鈍くなり、狩りもしな
くなった。 
 エマはこのままひとりぽっちで残ると思うととても悲しかった。そしてこのとき初めて
自分の持っている力が使えることに気がついた。そばにいないのは寂しいけれど、いつも
いてくれるのにかわりはない。
 中庭で寝そべっている犬のもとに行くと優しく話しかけた。
「わたしたちはすっかり年を取っちゃたわね。でもこのままだとお前はわたしを置いて先
に逝ってしまう。わたしはお前がいなくなるととても寂しい。わたしのお願いを聞いてく
れる?」
 犬は寝そべったまま頭を持ち上げエマを見つめ、コクンとうなずいた。
 それ以来、犬は館の入り口の扉についた番ガエルとなってエマを守りその役目を立派に
果たしている。エマ自身、なぜ犬の姿ではなくわざわざカエルに変えたのかはわからなか
ったが、それがとても当然なような気がした。扉の飾りにはもともと生命があるものでは
ないので、これで犬は死ぬことはない。いつでも望めばもとの姿に戻れるが、残った寿命
はほとんどないので戻るというのは死ぬことを意味する。もちろん賢い犬は納得している。
 エマは犬から貰った力で館を封鎖した。見た目には何も変わらないが館に入るには必ず
番ガエルのついた扉を通らなければいけない。外から人が入るのは容易ではなかった。番
ガエルは犬であったときにそうであったようにとても賢いし、鼻が利くので悪人をかぎわ
けることができる。そのうえ、口の中には本来カエルにはない鋭い牙を持っていた。
 これでエマはますます外の世界から孤立してしまったが、用事を見つけて忙しくして気
を紛らわした。寂しくなったら番ガエルに会いに行った。訪れるものはめったにいないの
でいつも眠っている番ガエルはまるで本物の飾りのように見える。ときどき鼾をかくこと
をのぞけば。

 月日はゆっくりと、確実に過ぎて行った。エマはいまや老女となり動きもすっかり鈍く
なってしまった。このままどんどん年を取るとどうなってしまうのだろう。あとは呪われ
たミイラになるしかないようね。あまり楽しい考えではなかった。だが髪がなくなり腰が
曲がることなく老化は止まった。まっ白になってしまったが編めるだけの豊かな髪はある
し、背筋はピンと伸びていた。これが本来の寿命かしら? もちろんわかるわけもない。
 ある夜ベッドに座り、畑を耕したせいで痛む腰をさすりながら荒れていく屋敷をどうし
たらいいのか考えていると、しなびた木の枝に目がいった。よく見るとこの枝は人間の形
をしているようにも見える。エマはそれをベッドの横の棚に置いていた。この木の枝とと
もに目を覚ましたのは大昔のように思える。これには何か意味があるに違いない。エマは
あのときのことを考えるのを避けてきた。何か恐ろしいことを思い出しそうな気がする。
でもいまとなっては、それがどうだというのだ。もう十分すぎるほど生きた。いまさら何
を恐れる? 
 エマは目を閉じると集中した。あのときの言葉は……(指輪に閉じ込められた記憶)こ
の屋敷のどこかに指輪が隠されているのだろうか?……指輪……ゆびわ…… そのとき、
突然番ガエルが騒ぎだした。
 何事かと急いで行き「どうしたんだい?」番ガエルに声をかけると哀れな男の声が返っ
てきた。

「助けてくれ! わたしは怪しい者ではない。この館の魔女に会いにきたんだ」
 魔女? エマはそれが自分のことだと気がつくまでに時間がかかった。扉を開けると番
ガエルに襟首をくわえられおびえる男がいる。番ガエルは悪い人間には牙を立てる。この
人間は悪人ではないらしい。
「あんたは誰だい?」
「わたしはすべてを失くした哀れな男だ。ここにくればどうにかなるかと思ってやってき
たんだ。あんたが魔女かい?」
 とりあえず厨房に入れた。最後に人間と話したのはいつだっただろう?
 身体が冷えていたのでお湯を沸かしお茶を入れた。その間、男はじっとエマを見ていた。
戸惑っていたがおびえてはいない。ただ投げやりな感じでくたびれていた。
「なんだか思っていたのと違うな」
「どういう意味だい?」
「もっと、恐ろしいところだと思っていた。あの入り口では驚いたけど」男はニヤリとし
てお茶を一口飲んだ。
「あんたももっと怖い人だと思っていた」
「怖くないのかい?」
「ああ、なんだか普通のばあさんで……」
 エマに睨まれ男は口をつぐんだ。エマはなんとなく面白くなかった。
「で、お前さんはどうしてこの『呪われた魔女の館』にきたんだい?」
 男はうつむくとカップを覗き込み静かに話し始めた。

 「わたしは早くから行商人の見習いとして働いてきた。とても真面目に働いた。ひとり
立ちするとますます仕事が面白くなり世界中を廻って珍しいもの、高価なものをうまい具
合に売り歩き、やがてかなり裕福な商人となることができた。ある日この村に立ち寄った
とき、年がいもなく親子ほど年の離れた若く美しい女性に夢中になってしまった。わたし
は働きづめだったので、そろそろここいらで腰を落ち着けるのもいいと考え、思い切って
彼女に求婚したら喜んで受け入れてくれた。わたしは天にも昇る気持ちだったよ。それか
ら村に屋敷を建て、故郷から財産を移すために一度帰った。荷物の手配がすむとあとは信
頼できる部下にまかせ、早く彼女に会いたかったわたしは一足先に村に戻った。だけど荷
物が着くはずの日になってもこない。心配になってさがしに行くと森の中で血だらけの眼
ん玉が落ちているのを見つけた」
「眼ん玉?」エマは訊き返した。
「そう、部下の片目はは義眼だったんだ」
「どうしてそれが部下のだとわかる?」
「あいつの眼はすぐに落っこちるんで裏側に名前を書いていた」
「おやまあ!」
「何者かに財産を奪われたとわかり、すっかり落ち込んで戻ると屋敷はなかった。燃えて
しまっていたんだ。わたしは信じられない気持ちで慌てて婚約者をさがしたんだがいなく
なってしまった。わたしは村中を血眼になってさがしたんだがどこにもいない」
「一緒に燃えてしまったんじゃないのかい?」
「いや、死体はひとつもなかった」男は頭を抱えた。
「わたしはすべてを失くしてしまった。頭が真っ白になり何も考えられなくなってしまい、
気がつけばここにきていた。わたしはどうしたらいいのだろう?」男はすがるようにエマ
を見た。
「わたしにどうかしろって言ってもねえ……」エマは考え込むように虚ろな男の目をじっ
と見つめた。
「お前さんがいなくなって困る人はいないのかい?」
「誰もいない」男は抜け殻のようだった。
「それではお前さんをしばらくここで預かろう」そう言うと男の頭に手をそっと置き、目
を閉じた。
 男は悲しげな表情のカエルの像になった。エマはそのとき一緒に現れた小さな光の球を
つかむと近くにあったガラスのビンに入れた。
「何でまたカエルにしてしまったんだろう?」エマはひとりつぶやいた。

 エマはその光のエネルギーを屋敷の外に振りまいた。すると押し寄せていた雑草がなく
なりきれいになった。すべてを取り除くほどの力はなかったがエマは満足した。
「これは使えるね」

 カエルの像になった男はその硬い身体の中で違う人生を夢見ていた。その人生の中で男
は財産を無事に受け取り、若く美しい女性と結婚し幸せに暮らしていた。
 だがその生活も長くは続かなかった。妻はしだいに本性を現し始めた。わがままで、金
遣いは荒く、生真面目な男を馬鹿にした。ある日、男は予定より早く外出から戻ると寝室
で妻が見知らぬ若い男とひそひそ話をしている。気づかれないように扉の影で耳をそばだ
てた。ふたりは男を殺し財産を奪う計画を立てていた。男は逆上して若い男を殴り倒すと
妻の首をしめたが馬鹿らしくなってやめた。
「わたしは何も見えてなかった。考えてみればお前みたいな女がそう簡単にわたしと結婚
するはずがない。まったくおかげで目が覚めたよ」
 男は本当に目を覚ました。もとの姿に戻った男はエマに別れを告げた。
「故郷に戻って初めからやり直すよ。今度はもっと楽しく生きることにする」男の顔は晴
れ晴れとしていた。男が像になってから一年近く過ぎていた。

 物言わぬ像でもいなくなると寂しくなった。しかし、噂はかたちを変えて広がるもの。
『呪われた魔女の館』には世の中に絶望したものや、無理難題、不可能な願いを抱えた人
々が訪れるようになった。中にはよこしまな盗人や、悪人もいたが番ガエルがよく利く鼻
で追い払った。館はしだいに置物やへんてこなものが増えていき賑やかになっていった。
ずいぶん長くいるものもあれば、知らない間にいなくなっているものもある。
 エマは集めた力でほどほどに見苦しくない程度に屋敷を維持した。そのほうがここには
似合っている。
 外の世界にふれるようになるとエマは自分の人生がむなしいと思い知らされる。ただ年
を取ってきただけ、だからといっていまさら屋敷を出る気はなかった。
 記憶を失う前はどうだったのだろう。エマはやっと指輪をさがす決心がついた。
 時間はいくらでもあった。館の中は床から天井まで、かまどの下から鍋の中まで隅から
隅まで三度はさがした。館の外も草の合間から小石の下まで三度はさがした。この屋敷の
どこかにあるのはわかっていた。いったいどこに隠してあるんだい。それはエマにとって
まるで永遠に続く呪いのようだった。
 夜、部屋に戻るとしなびた木の枝の横に置いたビンが目に入った。ビンの中にはいまま
で集めた光の球が入れてある。暗闇で揺れながらボーっと光る球にはなんだか温かみがあ
る。
 だがこの光の球にはエマの指輪をさがす力がなかった。――ふん、役立たず! ―― 
思わずビンを叩いた。
 謎の少年が現れ、ますます館には生きている人間の気配が増えた。賑やかになったもん
だねぇ。エマは嫌ではなかった。ただ、若さや活気がちょっと妬ましかったが。
 あの色男はまったくこれからどうするつもりだろう? 困った奴だ。それにあの子供、
あの子を見るなぜかと落ち着かない気持ちになる……。エマは戸惑っていた。

 フィルは昼間顔を出さない。ティモシーは夜ふたりきりになると話しかけるようにした。
「複雑な気持ちなんだ」フィルが言った。
「何が?」すると以外にもすんなり返事が来た。
「僕はここに、こういうかたちでもエマといるのがうれしいんだ。だけどこのままではい
られない。君にも迷惑だろ? でももう少しこのままでいたいんだ」
「君とエマはどういう関係なの」ティモシーはわけがわからない。
「エマは僕の花嫁だよ」

 その夜また不思議な夢を見た。今回は夢の中だとはっきりわかっていた。ティモシーは
色と音のない暗く蒼い空間に浮かんだ水晶の球の中に閉じ込められており、透明の壁に手
をあて外の世界を眺めていた。外には同じような水晶がいくつも浮かびぼんやりと光って
いる。すべてが踊るようにゆっくりと回りながら近づいたり離れたりしている。近くにき
た水晶の中で両親が食事をしているのが見えた。そばでマチルダがスプーンを振り回しな
がら何か話している。ティモシーには気がつかない。その水晶の球がゆっくり離れて行く
と今度は別のが近づいてくる。その中には高い木に止まりあたりを見回す巨大なカラスが
いた。その次のには大ガエルを胸に抱き笑っているアルがいる。近づいては離れて行く球
の中にはいろいろな風景もあった。村や森、崩れていない頃の館。またひとつ近づいてく
る。若く可愛い女の子がひざまずき、黒い犬の頭を抱きしめ笑いながら見えない誰かに話
しかけている。編んだ栗色の髪を頭に巻きつけたその顔は生き生きとして輝いていた。

 朝、肉も魚も入っていないスープを食べながらティモシーは考えていた。あれはエマだ。
なんだか切なくなってきた。いや、そう感じているのは僕ではなくフィルなのか? テイ
モシーが混乱していると問題の当人が入ってきた。
「何をじっと見てるんだい?」いつものようにカエルの置物を動かしながら眉をひそめた。
「いや、別に……」やっぱり緊張する。すっかり白くなった髪を編みこんで頭に巻きつけ
たエマには夢で見た女の子の面影が確かに残っている。
「ほかの置物も動けるの?」エマと話をしてみたい。
「ああ、その気になれば好きな場所に行ける。だけど身体が硬いからとても時間がかかる。
だからほかのもの達を簡単に動かしてはいけない。どこか居心地のいいところに移動中な
んてものもいるかも知れないからね」
「皆、大変だね」
「望んでそうなっているからいいのさ。ところで……お前さんの願いはなんだい?」
「それが本当のところ言うとよくわからないんだ」
「お前さんは何者だい?」エマは目を細めた。
「えー、僕は猟師の息子で……」
「わかった、わかった。もういいよ」エマは首を振りながら部屋を出て行った。
 ティモシーはどぎまぎしながら外の空気を吸いに出た。――もう、フィルったら出てき
てよ! ――
 途中、小広間を通るとなんだかおかしい。ふと見ると壁の絵が消えている。きれいな風
景画がなくなりキャンバスは真っ白になっている。まさかこの絵も……。ちょうどそのと
き、部屋の外をアルが釣竿をもってひょこひょこ歩いているのが見えた。
「アル、絵が消えてる!」急いで呼んだ。
 アルは窓から中に入ってきた。「ああ、画伯がまた煮詰まったんだね」
「画伯って? これもやっぱりエマのまじないだったの」
「ちょうどいい。いまなら話ができるかも知れない。なかなか気難しいおじいさんでね」
「誰が気難しいだって! わしが何も聞こえないと思っておるのか」
 白いキャンバスにすらすらと文字が浮かび上がってきた。まるで後ろから誰かが書いて
いるようだ。
「やあ、画伯。今日も機嫌がいいね」
 画伯はアルを無視して、ティモシーに話しかけた。「お前さんは新入りの子どもだね」
「はい、ティモシーといいます。どうしてあのきれいな絵を消してしまったんですか?」
「ふん、きれいなだけじゃ」画伯は不愉快そうだった。
「ねえ、画伯。この子にあなたの話を聞かせてくれないかな? 気晴らしになるでしょ」
「お前が話せばいいだろう」
「僕は物覚えが悪くってね。画伯お願いだよ」
 このとき、ティモシーはふと気がついた。「僕は字が読めない。なのに読んでる!」
「これは画伯の言葉だよ。彼は話しているんだ」アルは微笑んだ。


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