7  アル

「僕にお客? 誰だい?」
「わからない。でもエマはなんだか慌てていたよ」
「嫌な予感がする。僕は留守だと言っておくれ」
「何、子供みたいなこと言ってるの」嫌がるアルを無理やり連れて戻った。
 厨房に入るとありえないほどに美しい青年がお茶を飲んでいた。まだ年は若く二十歳を
越えて少しくらい、背の高さはほどほど、ほっそりとした身体付きでさらさらの長く輝く
金髪をひとつにまとめ、明るく澄んだ青い瞳に長いまつげが影を落としていた。そばにい
るエマは落ち着かないようで必要もないのにスープをかき混ぜている。
 男は長い指で優雅にカップを置くとアルを上から下までじっと見つめ、おもむろに言っ
た。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」声まで透き通って美しい。
「そちらこそ変わりなく。すぐに髪を切ると思っていたのに」アルは会えてうれしそうで
はなかった。
「そうしたかったんだが勝手に切るのも悪いと思ってね。それにしてもひどい格好だな」
美しい眉をひそめた。
「そう? 僕はとても気に入ってる」
 ふたりはしばらく黙って見つめあっていた。
「父上が引退しようとしている。それでわたしを跡継ぎに決めたと言われた」美しい男は
落ち着いていた。
「よかったじゃないか。それこそ望んでいたことだよ」アルが言った。
「それがよくないんだ」
「なぜ? そうすればすべてうまく行く。皆も喜ぶ。何か問題でもあるの?」
「おおありだ。事情が変わったんだ。僕は結婚したいと思っている」これにはアルもちょ
っと驚いた。
「まさかケイトとかい?」
「そうだ」
「でも、ケイトはエリックを好きだと思っていた」
「そうだ。僕はエリックじゃなかったか?」
「確かにそうだけど……」
「おっほん」エマが咳払いをした。「お前さんがた、あたしらにもちょっとその事情とや
らを説明してもらえないかい? あたしもちょっとはかかわったことだし、それにこの坊
やときたらさっきから口が開きっぱなしだよ」
 美しい男はティモシーを見ると礼儀正しく挨拶した。「挨拶が遅れて悪かったね。僕は
領主の息子のエリック。君は?」
「僕の友達のティモシーだよ」呆然としているティモシーのかわりにアルは答えた。
「お前の友達?」エリックはちょっと驚いていた。
「僕はアルにいろいろ世話してもらっています」なんだかこう言わなくてはいけない気が
した。
「ほう、疑っているわけじゃないんだ。僕達には友達がいなかったんでね。それにしても
お前はアルという名前を使っているのか?」
「ああ、この名前のほうが馴染んでいるんでね。どうせ知った人はいないし」
「まったくいい加減な奴だ」
「ところでなんでまたここにきたの?」
「僕はここに自分の身体を返しに貰いにきたんだ」
「そんな! 僕は嫌だ。兄さん、冗談でしょ!」
「僕が冗談を言ったことがあるか?」
 兄さん? ティモシーのあごは床まで落ちた。
 
 初めての男の子が生まれたとき、領主は大喜びした。子供はエリックと名づけられ、父
親と母親に似て濃い茶色の髪と賢そうな明るい茶色の瞳をしていた。が、生まれてまもな
く親子ともどもちょっとした風邪をひどくこじらせ、危うい状態にまで陥ってしまった。
どうにか命はとりとめたものの、母親の目は見えなくなり、息子は高熱で体中が捻じれて
しまった。領主は嘆き悲しみあらゆる手立てを尽くしたが誰もふたりを治せなかった。
 何もわからない赤ん坊はすくすく育ち、母親は子供の身体について何も教えられなかっ
た。
 そして二年後、また男の子が生まれた。アレックスと名づけられた赤ん坊は両親のどち
らにも似ず、輝く金髪と明るく青い瞳をもち、お人形のようにとても愛らしかった。領主
はもちろん喜んだが、あまりにも自分達とかけ離れたその容貌に違和感をおぼえずにはい
られなかった。
 エリックは大きくなるにつれ、手足はごつごつと捻じれ背中が丸くなっていく。使用人
達はその姿を見てはいけないかのように目をそらすのだった。
 一方アルはこの世の物とは思えないほど愛らしくなっていく。そばにいる者すべてが思
わず抱き上げほほをすり寄せずにはいられなかった。
 母親はふたりを同じようにとても愛した。とはいえいつもそばにいるのはエリックでア
ルは母親のもとにたどり着く前に、いつも誰かにつかまり、その腕に抱き上げられてしま
う。運よく母親のもとにたどり着くことができても一番いい席はすでにふさがっている。
エリックが母親の膝にしっかり座りやさしく抱きしめられていた。
「わたしのかわりにあなたのよく見えるその目で見たものを教えてちょうだい」
 エリックは朝露の輝き、毎日変わる空の色、面白い雲のかたち、木の葉が色づいたこと、
初めて霜が降りたこと、母が喜びそうなことをなんでも一生懸命話した。
 そして毎朝、庭から香りのよい花を摘んできては母に届けるのだった。
 父親もやはりふたりのことをとても愛していた。ただ領主と父親の威厳を保ちべたべた
とはしなかった。
 ふたりには身の回りの世話をするための乳母と領主の息子としての教養を身につけるた
めの教師がつけられた。エリックは早くから聡明さを現し物覚えがよかった。アルはとい
うといつもぼーっとしていて上の空だったが、その愛らしさと要領の良さで教師を煙に巻
いた。
 エリックは物心がつく頃、父親に尋ねた。なぜ自分と弟がこんなにも違うのかと。
 父親は答えた。「お前の姿はちょっと変わっているが誰よりも賢い頭と強い身体を持っ
ている。お前の弟はちょっと可愛いが頭は空っぽで軟弱な身体をしている。だから平等に
できている。だけどお前達ふたりともとても優しい心を持っている。これは同じなんだよ」
 ふたりはとても仲がよかった。もっとも人前でそれを見せはしなかった。ふたりの部屋
は続き部屋になっており、いつもどちらかの部屋に集まった。そしてどこにでもいる兄弟
のようにささいなことで取っ組み合いの喧嘩もする。兄は弟の愛らしい容貌にごまかせら
れず、弟は兄の恐ろしい風体を気にしない。そして兄は弟をかわいがり、弟は賢い兄をと
ても慕っていた。
 エリックが十歳を過ぎた頃の冬の初め、村全体を襲った流感で多くの命が失われた。娘
夫婦が危ないという知らせを聞き乳母は家へ戻った。領主の妻、ふたりの母親もあっけな
く亡くなった。死ぬ間際にふたりをそばに呼ぶと最後の言葉を残した。
「エリック、お前は賢くて強い子です。父上を支え、弟の面倒を見てやってね。アル、お
前は優しくて明るい子です。兄を助けて力になってあげてね。ふたりともとても素晴らし
い子供たちです。とても愛していますよ」
 エリックは部屋に閉じこもり一歩も外に出なくなった。いつまでも、もと戻らない兄を
見てアルは不甲斐なくなった。ベッドにもぐり込み布団をかぶったまま出でこない兄のと
ころに行くと上にのしかかった。
「兄さん、いつまでそうしているつもり。そんな姿を知ったら母上は喜ばない。母上は兄
さんは強いと言った。こんなのはエリックじゃない」
 エリックは顔をださずに言った。
「お前に何がわかるんだ。僕は……僕を抱きしめてくれるのは母上だけだったんだ!」最
後の言葉は叫び声になった。
「僕だって……。僕はほとんど母上のひざの上に乗ったことがない。いつも兄さんがいた
からね。でも僕も本当は……」アルは黙り込んだ。やがて優しくエリックを背中から抱き
しめて言った。
「僕がいる。僕が兄さんをいつでも抱きしめてあげる」
 エリックは顔をうずめたままじっとしていた。大きく息を吐くと落ち着いた声で言った。
「アル、もういいよ、わかった。もう大丈夫だ。でも、もう少しだけひとりにしてくれ」
 それからエリックは外に出るようになるにはなったが、ますますひとりでいるのを好む
ようになった。
 領主の屋敷は村を見下ろす小高い丘の上に建っていた。正面には村まで続く豊かな畑が
広がり、小作人がのんびりと働く様子がいつも見てとれる。屋敷の横を流れる川は畑をつ
たい村を横切って森へと続いていた。左前方の遠く離れたもうひとつの高い丘に『魔女の
館』と呼ばれる廃墟がある。
 空が晴れ渡った日でも、空気が澄み切った日でも、どんなに目を凝らしてもその建物の
あたりはぼんやりとかすみはっきり見えない。もちろんそれはエマのまじないなのだが、
誰も知らない。右前方には森が広がっている。その森には村と外の世界をつなぐ重要な道
がある。
 エリックはもっぱら館の裏手にある小さな森を駆けまわり、木に登り、獣のように動き
回った。実際、館の猟師が仕掛けた網にかかってしまい、みじめに夕暮れまで木にぶら下
がる羽目になったこともある。このときは罠を確かめにきた猟師に恐ろしい獣と間違われ、
危うく命を落としそうになった。
 それからしばらくの間、エリックは狩りをすることに興味を覚え、館の厨房の前には野
ウサギやリスやイノシシまでもが誰も知らない間に置かれているのだった。それに飽きる
と釣りを始めた。そして厨房の前には魚が並ぶというありさまだった。
 成長するにつれエリックの姿は以前に少しはあった柔らかさがなくなり、ごつごつした
岩のようになっていった。
 ある日、庭番が生垣の中から飛び出してきたエリックを恐ろしい獣と間違え、手に持っ
ていた鎌を振り下ろした。エリックがとっさによけたから助かったものの危ないところだ
った。
 人間離れしていくエリックを心配していた父親は、館から見えないところへ行くことを
禁じた。人に会いたくないエリックは図書室にこもるようになった。日に焼けた肌は青白
くなり、以前よりも不気味さを増した。これではいかんと父親は馬術と剣術の先生をつけ、
なんとか健全な人間にしようと苦労していた。
 初めは嫌がっていたエリックもしだいに夢中になっていった。先生はエリックがその姿
とは裏腹にとても身軽で器用なのに驚き、とても素質のある生徒だとわかると熱心に教え
た。この稽古のあいだだけはエリックは自分の姿を忘れることができた。
 一方アルは皆にかわいがられ、砂糖をまぶしたお菓子のように甘やかされた。その愛ら
しい姿を見ると何かをしてあげずにはいられない。朝の着替えから食事の世話、夜眠る時
間にいたるまで絶えず誰かがそばにいるありさまだった。さすがに父親は見かねて、ふた
りについた乳母以外の者には一切手を出すことを禁じた。それでもこっそりと世話を焼く
手はなくならなかった。アルはにっこりと微笑むだけで喜んで人々が自分のためになんで
もやってくれるのに慣れてしまい、何もしなくなった。何もする必要がなかった。
 エリックが森を駆けまわり始めた頃、アルもふさぎ込むようになった。まるで周りの人
間が作り物のように見える。話しかけられる声はどこか遠く、はるかかなたから聞こえる
ようだった。ぼんやりとして笑わなくなったアルを館の皆は心配した。ある日、部屋の窓
からぼんやりと外を見ていたアルは庭の木のてっぺんに一枚の赤い葉っぱが揺れているの
を見つけた。ほかの葉は枯れぜんぶ落ちてしまっているのだが、その葉っぱだけはとても
鮮やかにひらめいている。
 急いでその木のそばに行ってみたが、大人でもとても届かないかなり高いところにある。
そばで仕事をするふりをしながら様子をうかがっていた庭師のほうを振り向くと「あのき
れいな赤い葉っぱを取って」アルはこともなげに言った。
 庭師は木の高さを見上げ肩をすくめた。とても無理だ。だがつぶらな瞳で見上げるアル
のけなげな姿にできないとは言えない。覚悟を決めると恐々とゆっくりと登った。何度も
足を滑らせ、細い枝を注意深く掴み、やっと葉っぱを手にした。ほっとして大きな息を吐
いたそのとき、つかんでいた枝が折れ、恐れていたとおり真逆さまに落ちて頭と腰をした
たかに打ってしまった。庭師が朦朧とした頭で痛む腰をさすりながら差し出す赤い葉っぱ
を受け取ると、アルは「ありがとう」と言ってにっこり笑った。いつの間にかまわりに集
まってきた人々は一同、胸をなでおろした。
 だが、アルの憂鬱はおさまったわけではなかった。相変わらずぼんやりと遠くを見てい
るアルを見かねた教師が一冊の本を渡した。アルのために選んだ一番絵が多く、一番文字
が少ない本。何気なく本を開いてみると、ある一枚の絵に釘付けになった。それはどこか
知らない異国の地で、腰に布を巻いただけで靴さえはいていない少年が楽しそうに大きな
動物に乗っている絵。絵の中の動物は大きな耳を横一杯に広げ、立ち上がろうとするかの
ように片ほうの前足を上げ、長い鼻を誇らしげに高く上げていた。アルは本を抱えると大
急ぎで部屋を飛び出した。
 猟師が小屋の前で仕掛け罠の網の破れを繕っていると、アルが走ってくるのが見えた。
まさか自分に用があるとは思っていない猟師は後ろを見たが誰もいない。
「どうしたんですかい?」息を切らしているアルに優しく訊いた。猟師はいつもぶっきら
ぼうで乱暴な男なのだが、アルが相手だと別人のようになる。これは猟師だけでなく皆そ
うなのだが。
 アルは本の挿絵を見せて言った。「この動物を捕まえてきて!」
 絵を見た猟師は驚きのあまりあいた口がふさがらなかった。普通なら馬鹿じゃないかと
取り合わないところだが、アルが相手だとそうはいかない。期待ではちきれそうな瞳を見
るとなんでも願いを叶えてあげたくなる。
 思わず「あー、坊ちゃん。こいつは簡単には捕まりません。なんせ森の奥のほうにいま
すんでね。めったにお目にはかかれない」猟師は諦めてくれることを願いながら言った。
「わかった。じゃあ待ってるから捕まえたら教えてね。約束だよ」そういうと本を置いて
館に戻っていた。
 猟師は座り込んで頭を抱えた。しばらく考えると本を引っ掴み教師のところへ飛んで行
った。使用人達の食堂で教師はのんきに昼食を取っている。
「先生! 助けてくれ。困ったことになっちまった」猟師は泣きついた。話を聞いた教師
は呆れた顔をして言った。「そりゃ無理だ。こんな動物はこのあたりにはいない。これは
遠い異国の動物だ」
「でも、俺は捕まえると約束しちまった。俺は約束を破らない男だ。それにアル坊ちゃん
の顔を見てるとできないと言えなかったんだ。わかるだろ?」
 周りにはしだいに人が集まって、ちょっとした騒動になっていた。いろんな意見が出た
のだがそのなかで見込みがあるものはひとつだけ、―象を作る―。なんだかんだいっても
相手は子供だ。それもアル坊ちゃん。うまくやれば気づかない。
 早速、教師を監督として当然ながら猟師、そして大工や庭師や金物師、あらゆる職人が
かりだされた。教師は本をアルに渡した責任を感じていたので、その仕事を断るわけには
いかない。まず大工が木材で枠組みを作った。丸太のような足は立ち上がらんばかりに前
足を一本上げている。長く曲がった鼻は高だかと誇らしげに振り上げられ、広く大きな耳
は横に張り出すよう細工師が器用に木のつたを編み上げ、本に忠実に作られていった。
 外側の形が出き上がると上から紙や布、皮、あらゆるものを貼りつけ、ガラスの目玉を
はめ、尻尾の先に切り取った馬のたてがみの毛をつけ、もう少しで完成だというときに誰
かが言い出した。
「ところでこれはなんという動物だい?」
「象という動物だ」教師は答えた。
「で、先生はこの象とやらを見たことあるのかい?」
「いや、見たことはない。遠く離れた暖かい国の動物だ」
「でも、こいつがどんな色をしているかは知ってなさるんだろ?」
 教師は答えに詰まった。本には色がついていなかった。そして当然教師は知らなかった。
 皆で頭を寄せあって考えた。
「茶色だろ、動物はほとんど茶色だ」「でもこいつには毛皮がない」「黒なんかどうだい、
黒い動物は珍しくない」「いや、これは珍しい動物なんだ」「いろんな色をつけるってい
うのはどうだい、俺は南の国の珍しい鳥を見たことがある。村にきた異国の商人が持って
いた。赤や黄色や青やとてもきれいな色をしてたぞ」皆、好き勝手に話し出しまったくま
とまらない。
 とうとう最後に教師の一声で決まった。「赤だ、赤色にしよう。暑い国には赤い色がよ
く似合う」ちょっとばかりやけになっていた。どうせ誰も知らないのだ。そうして象を鮮
やかな赤色に塗り上げ完成した。
 そのとき誰かがぽつりと言った。「こいつはどんなふうに動くんだい?」皆がはっとし
た。この動物は生きているところを捕まえたのだった。ふたたびもめたが結局どうにか落
着いた。眠っているのだと。危なくないように薬で眠らせていると。
 猟師は胸をなでおろした。作業は猟師小屋の裏手にある森の入り口で内密に進められて
いたのだけれど、ときどきアル坊ちゃんが小屋まで捕まったかと尋ねにくる。あの動物は
めったにいないとか、用心深いからなかなか現れないとか言ってなんとかごまかしてきた。
途中に見張りを立てアル坊ちゃんが近づいてくるのがわかるようにしたのだが、一度は森
の奥まで一緒に罠を見に行くと言い出し、冷や汗をかく始末だった。たった子供ひとりに
大人が振り回され滑稽ではあるが、人々はアル坊ちゃんのために喜んでそれをやってしま
う。
 少し寒くはあるものの晴れ渡った気持ちのいい朝、アルは乳母に猟師が待っていると起
こされた。アルは着替えるのももどかしく急いで庭に降りた。そこには得意満面の猟師と
気難しい顔をした教師、たくさんの野次馬……そして真っ赤な大きな動物がいた。
 アルは興奮のあまり顔を真っ赤に輝かせながらもこわごわと近づいて行った。そっとさ
わってみるとざらざらとして冷たかった。
「どうして動かないの?」猟師に訊いた。
「アル坊ちゃんに怪我をさせないよう眠らせたんでさあ」猟師は胸を張って言った。
「そうなんだ。よく本と同じ格好で眠らせることができたね」アルはあどけなく言った。
 猟師は冷や汗を隠しながら「乗ってみますかい?」と訊いた。
「もちろん! 着替えないと」アルはいきなり靴と服を脱ぎ始めた。
「何をしているのですか?」教師が慌てて止めた。
「だって本ではこんな格好ではなかった」
「何をおっしゃるんですか。この国ではあんな格好をしなくてもいいのです。だいいち風
邪を引いてしまいます」
 アルはちょっと不服そうだったがおとなしく猟師に抱えられ象の背中に乗った。やはり
ざらざらして冷たい背中の上でアルは本の少年と同じように片手を上げにっこりと微笑み
皆に手を振った。周りで見ていた人々は、歓声をあげ拍手喝采した。
 二階の書斎で仕事をしていた領主が外の騒ぎ気づき窓から庭を見ると、赤く奇妙で大き
な動物に乗ったアルが多くの人々に皆に取り囲まれているではないか。何事かと大急ぎで
庭に降り、しかめ面をしてアルに近づいて行った。集まっていた使用人達は罰の悪そうな
顔をしながら成り行きを見守った。
「誰だ? こんな馬鹿げた騒ぎをやっているのは」領主はアルをじろりと見た。
「父上、見て! この動物は象って言うんだよ。猟師が僕のために捕まえてくれたんだ」
「象だって? お前のために捕まえたんだって?」領主は猟師のほうをじろりと見た。
 猟師はその大きな身体を可能な限り小さくしながら「いや、あの……このところアル坊
ちゃんの元気がないもんで喜んでいただけたらと思って……」
 横から教師が慌てて言った。「旦那様、もとはといえばわたしめが坊ちゃんに本を見せ
たのが始まりで……あんまりふさいでらっしゃたんで……」そうすると大工や庭師や皮細
工師や金物師、皆がいっせいにしゃべりだした。
 領主は呆れた顔で、手をあげると皆の口をふさいだ。そしてそんな騒ぎをよそにひとり
無邪気に楽しんでいるアルのほうを向くと気を静めて話しかけた。「アル。お前は十分楽
しんだか?」
 アルはにっこり微笑むと「ええ、とっても素敵だ。大満足」
「ならば……」領主はゆっくり考えた。「そうだな……その動物は……」
「象って言うんだよ」アルが訂正する。
「ああ、その象とやらはここで飼うにはちょっと大きすぎる。皆の仕事の邪魔になるしな。
だから村の広場に連れて行ったらどうだろう。村の子供達もきっと喜ぶ」
「それっていいね。父上」
 こうして象は引越し、館はもとの生活に戻り、村の子供達はとても喜んだ。
 アルはそれからしばらくおとなしくしていたが、まだまだ元気とは言えず何かぼんやり
考え込んでいた。部屋に運んでもらったおやつをフォークでつつきながら見つめていたか
と思うと突然厨房に走って行った。
 夕食の準備をしている料理長を見つけるとそっと近づき前掛けを引っ張った。突然のお
客に驚いた料理長はちょっと戸惑ったが、かがみこんで訊いた。
「アル坊ちゃん、どうしたんですか?」
「お願いがあるの」アルはつぶらな瞳で料理長を見つめた。なぜか料理長は胸が切なくな
った。もうすでにアルのペースにはまっている。
「ケーキが欲しいの。特別なケーキが」
「お誕生日のケーキみたいなのですか?」
「うん。いや、そうなんだけど、もっともっと大きいケーキ。天井まで届くほど大きいケ
ーキ。それを食べたらとても幸せになれそうな気がするの」
 料理長は言葉を失った。そんなものを……だいいち食べきれるわけがない! でも相手
は小さな子供だ。わかっていないのは無理もない。それに、これがもっとも重要なところ
なのだが、相手はアル坊ちゃん、ただの子供とは違う。料理長は目をつぶった。ゆっくり
数を数え、目を開けると期待で胸をふくらませているアルに言った。
「わかりました、なんとかしましょう。楽しみに待っていてください」
「天井まで届くくらいのをね」アルは念を押して帰って行くと近くで耳をそばだてていた
料理人達が料理長のもとに集まってきた。
「どうするんですか? 料理長。いったいなんでまた……そんなものを」
「いいから急いで卵と粉とミルク、なんでも必要な物をいますぐ、どこからでもいい、あ
るだけ全部集めてこい!」料理長は皆を追い出し、ひとり頭を抱えた。とうとう自分のと
ころにやってきた。庭師も猟師もやってのけた。わたしだってやれる。料理長のプライド
がかかっていた。
 領主は夕食を三人揃って取ると決めていた。食事の間には長い食卓があり、大勢で食事
ができるがそうされることはなかった。上座の領主をはさむようにふたりの息子が座り、
あとは長い空間が残るのだった。もともと贅沢な食事を好むほうではなかったが、その日
の夕食は思わず領主も顔をしかめるほど質素で冷たかった。
 エリックを見るといつもと同じように黙ってもくもくと捻じれた指で器用にナイフとフ
ォークを使っている。見かけとは違いとても上品だ。アルはというと、やはりいつもと同
じようにお皿の上の物をフォークでつつきながら食べ散らかしている。アルが食べ終わっ
たあとは食べくずとシミだらけになる。
 ひととおりの食事が終わると料理長が現れ「デザートをお持ちします」と言った。
 ふだんはそんなことしないのだがと領主がいぶがしがっているとなにやら部屋の入り口
が騒々しくなってきた。何事かと振り向くと、なんと天井まで届かんばかりの巨大なケー
キが大きなお盆にのせられ十人ががりで運ばれてきた。三人の前にでんと置かれたケーキ
は何段にも積み重ねられたスポンジの上にクリーム、ジャム、チョコレート、果物、木の
実、ありとあらゆる物で色鮮やかに飾り立てられ、重たそうにゆらゆらと揺れていた。
 領主はアルをじっと見つめながら料理長に訊いた。「今日は何か特別な日なのか?」
 料理長はしどろもどろに答えた。「いえ、その……今日はなぜかニワトリがたくさんの
卵をいっぺんに生み、牛は牛で乳が溢れて止まらないほど出るし、ならばいっそのこと、
旦那様がたに喜んでもらおうかと……」
「もうよい」領主はさえぎった。アルはというと気まずい雰囲気をものともせず大喜びで
料理長のもとへ飛んで行き「とっても素敵だよ。僕が切りわける」と言って止めるまもな
くケーキにナイフをつきたてた。
 そのとき、巨大なケーキは揺れることに疲れたのか横になって一休みしようと決めた。
ただ選んだ場所が悪かった。ケーキは領主とエリックを覆いつくすように傾いた。あっけ
にとられ、口を開けたまま見つめるふたりの上にケーキは情け容赦なく襲いかかり、おい
しそうなクリーム人間を作り上げた。
 領主は口の周りのクリームをなめ取ると叫んだ。「アル! あとでわたしのところへき
なさい!」
そう言い捨てると怒りの熱で溶けたクリームの雫をたらしながら出て行った。
 エリックもまたアルの顔を見ると何も言わずに出て行った。本当は呆れはてた顔をして
いたのだが、クリームの下でわからなかっただけ。
 「無駄になっちゃたね」アルが言うと料理長は複雑な表情を浮かべて言った。「いいえ、
大丈夫。食べられるところは皆でわけますから」
 アルが出て行くと料理長はほっとため息をついた。――結果がどうあれやり遂げたんだ
――。
 アルは父親が落ち着く頃を見計らって書斎に行った。父親は仕事をしているときのよう
に険しい顔をして机の前に座りアルを見据えた。
「お前はいったい何を考えているんだ。お前は確かに甘やかされてはいるかも知れんが、
無茶なわがままを言う子ではなかったはずだ」
「父上、ごめんなさい。僕、そんなつもりはなかったんだ。ほんのちょっとの軽い気持ち
で言ったんだよ。すると皆、一生懸命に僕の願いを叶えてくれようとする。」
「お前は皆を試しているのか?」
「いや、ちがうよ。いや、やっぱりそうかな? どれほどのことを言ったら駄目だと言わ
れるのかな」アルは真剣に考えている。
「駄目だ、アル。今後一切、人を困らせるようなことを言うのはわたしが許さん。わかっ
たな」父親は厳しい声で言った。
「ねえ、父上。もし、僕がこんな顔でなかったら皆、僕の言うことなんか聞いてくれない
よね。皆、僕が笑うととても喜ぶ。僕はいつも皆を喜ばせないといけないのかな?」半分
は自分に聞いているようだった。
 父親は慎重に言った。「お前が笑うのは皆、うれしい。もちろんわたしもだ。可愛いら
しいからだけじゃない。お前が優しくて思いやりがある子だからだ。皆、お前がとても好
きなんだ。だが、無理しなくてよい。皆と同じようにすればいいんだ。わかったか? た
だしもう無茶を言っては駄目だ」
「はい……わかりました」アルは答えたが本当は普通にするといのがよくわからない。生
まれたときからずっと注目されてきたアルはその一挙一動をいつも誰かが見ている。何か
あろうものなら誰かが飛んでくる。アルはつきまとう人目を意識して動くのを自然に身に
つけ、そしてなおかつ目立たないのを望んでいた。本来はおとなしい子だった。
 その夜、アルはエリックの部屋の扉を叩いた。エリックが開けると「兄さんさっきはご
めんね」アルはかすかに微笑んだ。「入ってもいい?」
「いつも勝手に入ってくるじゃないか」エリックは道をあけた。
 子供らしく飾られているアルの部屋と違ってエリックの部屋はまるでそっけない。ベッ
ドと箪笥、机と椅子そのほかには必要なだけの棚や小物が置いてあるだけで寒々とした感
じすらした。部屋には甘いにおいが漂っている。
「何をしてたの?」アルは訊いた。
「髪が伸びて邪魔なんで切ってたのさ」そう言うとロウソクをそばに置き、窓に映った頭
を見ながらはさみを動かした。エリックの部屋には鏡がない。
「僕が切ってあげようか?」
「いや、やめとくよ。お前にはさみを持たせたら顔を切られるのがおちだ」
「ひどいなあ」アルはベッドに座りエリックをじっと見ていた。いつもここにきてエリッ
クのやっていることを見るのが好きだった。だいたいいつも剣の手入れをするか、本を読
んでいた。なんでもよかった。話をするときもあれば、黙っているときもある。エリック
がアルを部屋から追い出すことは決してなかった。
 窓に映ったエリックが言った。「お前はいったい何をしているんだ?」
「兄さんこそ森の中で新しい動物になろうとしているのかと思ったよ」アルは言い返した。
「僕はもうもとに戻ったよ」エリックは苦笑いした。
「僕はまだだ」アルはつぶやいた。

 次の朝、いつまでも起きないアルに乳母のマーサは優しく言った。「アル坊ちゃん、い
つまで寝てるんですか。早く起きてくださいよ」
「マーサ! もう戻ってこないかと思っていたよ」アルは喜んで布団から顔を出したが、
外の天気がみぞれまじりでとても寒そうなのを見てとると、また頭から布団をかぶりもご
もごと言った。「今日は起きたくないんだ。今日一日このまま寝巻きでいていい?」とび
っきりの甘え声を出したがマーサには通用しなかった。
 「何をおっしゃるんですか。そんなだらしないことは許しませんよ」そう言うと布団を
ひっぺがした。
 アルはマーサの怒った顔を見るとにっこり微笑み「着替えるよ」素直に言った。

 マーサは長い間、館で働いていたのだがつれあいの病気を看病するため村に帰りそのま
ま引退した女性だった。領主はマーサとずいぶん長い付き合いなので、マーサをよく知っ
ており信頼していた。つれあいがなくなり長女夫婦とふたりの女の子の孫と暮らしている
ところを無理にきてもらったのだった。もういい加減年だからとことわるマーサを領主は
自ら足を運び説得した。ふたりの変わった子供達の話はマーサの心を動かした。もともと
困った人はほっとけず、世話焼きな性質で何よりも子供は大好きだった。
 初めてエリックに会ったときマーサはうかつにも思わす「まあっ」と小さな声を漏らし
てしまった。敏感なエリックはそれを聞き逃さなかった。マーサがいくら後悔してもエリ
ックはすっかり貝のように閉じてしまった。そして、乳母を無視し手をわずらわせること
は一切なく、自分の面倒はすべて自分でみた。それでもマーサは諦めなかった。洗濯物を
運んだり、水差しの水を替えたりいろんな用事を作ってはエリックの部屋に入り、話かけ
るようにした。決して打ち解けなかったが、しだいに言葉を交わすようになった。マーサ
の問いかけにエリックが短い返事をするだけでとても会話とは言えなかったが、それでも
たいした進歩だった。
 アルは逆に何も自分でしようとしない人一倍手のかかる子だった。それでもマーサはふ
たりがとても個性的ではあるけれど、とてもいい子どもだとわかっていた。
 マーサと子供達の関係が安定した頃の冬の初めに流行った流感は、ふたりから母親を奪
ったばかりでなく多くの人々の命とマーサの長女夫婦の命も取り上げた。マーサはエリッ
クとアルに心を残しながらも残された自分の孫のところへ戻った。母親を亡くしたふたり
の心に開いた大きな穴を埋めてくれる人はいない。ふたりはそれぞれの方法で立ち直る道
をさがした。ふたりはマーサに戻ってきて欲しかった。アルはマーサが大好きだったし、
エリックは別の乳母をつけられたくなかった。
 マーサは冬の寒さがやわらぐ頃、戻ってきた。孫達は次女夫婦が引き取った。子供のい
ない次女夫婦はいつも姪達をかわいがっており安心してまかせられる。休みには必ず会う
約束をして別れた。
 館に戻って聞いたふたりの行動にマーサは呆れたが、まずは様子を見ることにした。
 次の日、マーサが戻ってきたことを知らず、いつまでもぐずぐず寝ているアルを起こし
に行くと、早速甘えてくる。久しぶりに会えたことがうれしくてついついゆるんでしまい
そうな顔を無理やり怖い顔に作り変えた。
 着替えを手伝いながらさりげなく訊いてみた。
「アル坊ちゃん、ずいぶんわがままを言ったそうですね」
「ああ、ちょっとね。母上がいなくなって、マーサまでいなくなるし寂しかったんだ」
 マーサは目頭が熱くなりアルを強く抱きしめた。
「でも、大丈夫だよ。マーサも戻ったし、僕も戻った」
「エリック坊ちゃんはどうなの?」実はエリックにはもう会っていた。朝、部屋にお湯を
持って行くと、すでに着替え終わっているエリックは窓のそばに立ち外を眺めていた。
「おはようございます。しばらく留守にしてご迷惑をおかけしました」マーサは挨拶した。
「おはよう、マーサ。戻ってきたんだね」と何気ない様子で答えた。
 マーサが名前を呼ばれたのは初めてだった。
「マーサも大変だったね。お孫さん達は大丈夫かい?」
「はい、もうひとりの娘夫婦が引き取ることになりました。わたしもちょくちょく顔を出
してやろうと思ってます」
「それがいいね」
 マーサは感激して涙が出そうになった。エリックはとても落ち着いたように見えるのだ
が、どこか痛々しい感じがする。だからこそアルにエリックのことを訊いてみなくてはと
思ったのだった。
「エリックはもう大変だったよ」自分を棚にあげて大げさに言う。「人嫌いはますます激
しくなるし、しゃべらないし、野生化して行くし、きっと森の住人になるつもりだったん
だ。でもいまは諦めておとなしくなったよ。もう大丈夫だよ。兄さんは強いんだ」アルは
楽しそうに話した。
 ちょっと館を離れている間にふたりとも少し大人になっていた。マーサはこの変わった
子供達がこれからの将来に横たわる障害を乗り越える力があるようにと願わずにはいられ
なかった。

 穏やかで平和な日々が続いた。エリックは相変わらず人前に出るのを避けながらも武術
や馬術、勉学にいそしんでいた。アルはのほほんと過ごした。
 娘夫婦が忙しいというのでマーサはふたりの孫をしばらく預かった。同じ年頃の友達が
いないエリックとアルにいい機会かもという考えもあった。孫達には小さい頃からふたり
の子供の話をよくしていたし、いろんな注意は十分にしていたがやはり少々不安だった。
 初めて自分の孫達を紹介したとき、一応挨拶はするもののエリックはほとんど関心をし
めさず、アルは何も言わず面白そうな顔をしていた。
 マーサの孫は姉をマギーといい赤毛の巻き毛にそばかすだらけのがっしりした子供、一
方妹のケイトは栗色のまっすぐな髪をでひょろっとしたおとなしい子供。やはり対照的な
ふたりだった。
 前々から祖母に色々と話を聞かされていたので領主の息子達はすでに知り合いのような
気がしていた。ところが実際に会ってみると、なんとも近づきがたい。マギーとケイトは
祖母の手伝いをしながらふたりを遠くから見ていた。とはいえエリックの姿はめったに見
れなかったし、アルはいつもただぶらぶらしているだけ。ある日マギーが庭を通りかかる
とアルが釣竿をもって行くのが見えた。
 釣りは何もしないアルがする数少ないことのひとつで、エリックに教えてもらったもの
だった。
 マギーは気になって、そっとつけてみると、アルは池に釣り糸をたらし静かに座ってい
た。マギーにはただぼーっとしているよう見える。見る人によっては何か考えごとをして
いるように見えるのだろうか?。
「何が釣れるの?」そっと近づいて声をかけてみた。
「たぶん、魚かな」アルは正面を向いたまま答えた。
 マギーはからかわれているのかと思ってちょっとむっとした。
「そうね。そうでしょうとも。他には?」
 アルは初めて気がついたようにマギーのほうを見た。「ああ、君はマーサんところのえ
えっと……」
「マギーよ」またちょっといらついた。「迷惑だったかしら?」
「いや、ちょっと考えことをしてたんだよ」
 マギーは怪しいもんだと思ったが顔には出さなかった。「よく釣りにくるの?」意外に
も慣れた手付きだった。
「まあね。ここは静かだし、景色もいいから気持ちいい。ときどき大きなナマズが釣れる
んだ。スープにしたらおいしいよ。それに……」アルはにっこり笑って言った。
「それに釣り糸を垂らしていると何か有意義なことをしているように見えるでしょ。そこ
が気にいっているんだよ」
 マギーはかろうじて「そうかもね」と言っておく。
「あの子は一緒じゃないの? あの……」
「ケイトよ、わたしの妹。たぶんおばあちゃんと一緒にいると思うわ」まったく覚えてい
ないのだろうか。それともからかわれているのだろうか?
「君達もあまり似てないんだね」
「そうかしら」あんた達よりは似てると思ったがさすがに口には出さなかった。
 アルはマギーの頭をじろじろと眺め面白そうに言った。「君の妹の髪は栗色でまっすぐ
なのに、君の髪は真っ赤で……まるで爆発したみたいだね」
 マギーは確かに爆発した。マギーをよく知っている人ならわかっているのだが髪の毛の
話題を口に出してはいけない。マギーは編んでも結んでも決しておさまらない自分の髪の
毛が大嫌いだった。だからそれにふれられるとつい我を失ってしまう。男のアルがまっす
ぐで輝く金髪であるのが余計に癪にさわった。
「余計なお世話よ! 自分がちょっとばかり可愛いからって図に乗るんじゃないわよ」そ
う言い捨てると、あっけに取られたアルを残して、どすどすと館に戻って行った。
 たまたま通りかかったエリックがそばにやってきた。
「何やってんだ? あの子ものすごく怒ってたみたいだけど」
「さあ、何か気に障ることを言ってしまったみたい。でも面白い子だったよ」アルは悪び
れずに言った。
 エリックは肩をすくめてどこかに行ってしまった。アルはしばらく退屈しないかもと内
心とても喜んでいた。
 マギーはというととても面白くなかった。あれからアルは顔を合わせるたびに、やれ素
敵な髪だとか、元気がいい髪だとか、挙句の果てにはどうしたらそんなふうになれるのか
とまで訊いてくる。それらの言葉を罪のない顔で可愛く無邪気に言うのが憎たらしい。あ
の顔にだまされてはいけない。あいつは人をからかって楽しんでいる。ケイトからは考え
過ぎじゃないのと言われるが、絶対そうは思えなかった。
 ある朝、祖母に頼まれて庭師のところへ傷に効く薬草を貰いに行った帰り、いつものよ
うにアルに何か仕返しができないかと考えながら歩いていた。近道をしようと草むらを抜
けたとき、いきなり足に冷やりとしてのっぺりした物が飛びついてきた。突然のことに驚
いて、力いっぱい振り払うと足についた何かが近くの木にへばりついた。恐る恐る近づい
て見ると手のひらを広げた位の大きなカエルが白いお腹を見せて気絶している。びっくり
させるわね、まったく。ただのカエルじゃない。そのときある考えが浮かんだ。マギーは
カエルが目を覚まさないようにそっとつかむとアルの部屋に急いだ。朝寝坊のアルはまだ
寝ているはず。静かに部屋に入ると案の定、アルは幸せそうな顔をして安らかに寝ている。
寝ていても可愛いその顔を見ているとますます無性に腹がたってきた。マギーはゆっくり
とカエルをアルの顔の上にぴったり広がるように乗せるとそっと部屋を出た。それでも寝
ているアルだったが、口の中が何やらもぞもぞして目が覚めた。突然ぱっと目を開けると
口の中に入ろうとしているものを掴み「ぎゃーっ!」と叫んだ。がばっと起き上がるとア
ルの大きな声に驚いて戻ってきたマギーを見つめた。
 マギーはアルの顔に赤い発疹がひとつ、ふたつと浮かぶのをじっと見つめた。それはま
たたくまに顔中に広がった。予想外の出来事に慌てたマギーは急いで祖母のもとに走った。
 マギーは祖母にこっぴどく叱られた。アルは身体中に蕁麻疹が出てベッドから一週間出
られなくなった。
 謝りにきたマギーにアルは言った。「すごいことになっちゃたよ。熱いし、かゆいし大
変なんだ。何か冷たい物が飲みたいんだけど持ってきくれる?」
 マギーはアルがなぜ怒ってないのか不思議だったが、ほっとしながら飲み物を取りに行
った。だが、それからが大変だった。アルはお菓子が食べたい、違う飲み物、退屈だから
何か話をして、背中をかけだの、マギーを容赦なくこき使った。さすがに自分のせいだと
いううしろめたさから文句も言わずにかいがいしく世話をしていたマギーが癇癪を起こし
そうになった頃、妹のケイトが怪我をしてしまった。
 姉がアルの世話にかかりきりになってしまいケイトはひとりで退屈した。そして自然と
エリックの姿を目で追うようになった。たいてい朝早くからひとりでどこかへ出かけ夕方
遅く帰ってくるか、剣術や馬術の稽古をしている。ふとした好奇心からある朝、こっそり
あとをつけてみた。その日は森のほうへ歩いて行くようだった。見つからないように距離
を保ちながらついて行ったが、エリックの足はとても速い。それでも幸いにもとても目立
つ真っ赤なシャツを着ているので見失うことはなかった。ときどき立ち止まってはしゃが
みこんだり、上を見上げたりするのでその間にそっと息を調えた。そしてとある木のもと
にたどり着くとエリックはゆっくりと近づき、その幹に腕を回して優しく抱きしめた。長
い時間そうして目をつぶっていたが、やがて名残惜しそうに木から離れると、また奥へ進
んだ。
 途中、何かを拾いあげ上を見た。そして手に持った何かを優しく懐に入れるとそばの木
に登り始めた。どうやら鳩の雛が巣から落ちたらしい。無事、雛を巣に戻すとするすると
降りてきてケイトのほうにまっすぐ向かってきた。驚いたケイトは慌てて隠れていた木の
陰から動いたが、飛び出した根っこにつまずき足をくじいてしまった。
「こんなところで何をしてるんだ?」エリックはケイトのそばまでやってきた。 
「その……、ちょっと散歩をしようとしてたらあなたが見えたんで……まあ……ひとりで
何をしてるのかなと思って……」
「で、あとをつけてきたのか? 残念だけど君の期待するようなことは何もない」エリッ
クは冷たく言い放った。どうやらケイトが化け物に変身するエリックを見にきたとでも思
っているらしい。
「邪魔してごめんなさい。もう帰る」ケイトは決まり悪そうに言うと館に向かって歩きだ
したが、くじいた足はひどく痛んだ。
 その様子を後ろから見つめていたエリックはケイトを引きとめると、かがんで足を確か
めた。
「ひどく腫れている。これでは歩けない」
「大丈夫よ。帰ったらすぐおばあちゃんに湿布してもらうから」なおも歩こうとしたケイ
トをエリックはひょいと抱えた。「歩けるわ。大丈夫ったら」ケイトは慌てた。
「歩ける足ではない。それに君に何かあったらマーサに叱られる」それだけ言うとエリッ
クはすたすたと館に向かった。
 エリックの背中は瘤があるので、胸のほうにしか抱えることはできない。ケイトはちょ
っとどきどきしたが、どうも自分が狩られた獲物になったような気もする。
 なんとなく気詰まりなので話しかけてみた。「さっきは鳩の雛を助けてあげてたのね。
やさしいのね」
「大きくならないと獲れないからね」そっけなく答えた。
 取りつくしまもないエリックにケイトも黙っていたが、やはり話したかった。
「さっき、木を抱きしめていたでしょ。特別な木なの?」
 エリックは何も言わなかった。
「話したくないならいいわ。もう黙ってる」
「いや、いいんだ……あの木は白いきれいな花が咲く。そしてとてもいい香りがする。亡
くなった母上と同じ香りなんだ」
 エリックがとても気まずそうにしているのを感じたが、ケイトはとても感動した。
「素敵ね。わたし達の母さんの木もあるかしら?」
「そうだった。君達も両親を失くしたんだったね」
「わたしも母さんの木をさがしてみたい。一緒に手伝ってくれる?」
「ああ」エリックは答えた。
 マーサを見つけケイトの赤く腫れた足を見せるとすぐに湿布をしてくれた。
「二三日はおとなしくしてなくてはいけません」そう言って目を細めたが、それ以上は何
も訊かないでくれたのでふたりはほっとした。
 アルはケイトが自分の部屋の長椅子で休むように言い張った。マギーはアルのことに責
任を感じていたし、エリックもまたケイトのことに責任を感じていたので、自然と四人は
アルの部屋に集まった。
 アルはエリックに本を読んでとねだった。エリックはしぶったが皆から頼まれると嫌と
は言えず、しかたなく誰もが喜ぶようなおとぎ話を選び読み聞かせた。アルのベッドの横
で椅子の背もたれを前にして寄りかかり本を読むエリック、その声ははっきりとしていて
落ち着いている。目を閉じて聞いているとまるで違う姿が浮かんでくるようだ。物語が終
わるとアルが言った。
「エリックは読み書きがとても上手なんだよ」
「ふーん、すごいわね。わたし達はどちらもできない」マギーが感心して言った。
「ねえ、君達は村でどんな暮らしをしているの?」アルは興味深そうに訊いた。
「そうね、おばさん達の手伝いで、家の用事をしたり、お使いを頼まれたり普通のことよ」
もっともその普通の暮らしが領主の息子達にはわからないのだが。
「村にはいろんなお店があるんでしょ?」
「行ったことないの? そんなに遠くはないのに」もっぱらしゃべるのはマギーだった。
「ああ、あんまり人に会うのが好きじゃないんだ」アルが言った。エリックは眉をあげた。
「僕を見ると人は特別なものを見るような目をする。僕はとても大切にされるんだよ」
「それの何が不満なの。うらやましい話じゃない」
「そうでもないんだ。僕は頭が空っぽの人形なんだ」アルは笑った。
「お前が馬鹿ばかりするからだろ」エリックは言った。「だからそう思われるんだ」
「何をしたの?」ケイトが訊いた。
 エリックはこの間の事件を話した。
「ばっかじゃないの!」マギーは呆れはてて言った。
「そうだね。でも皆、結構楽しんでたよ」アルは澄まして言った。
「あの広場の動物はあなたが作らせたのね」ケイトが言った。
「象っていうんだ、あの動物は。それに作らせたんじゃないよ。捕まえてもらったんだよ」
アルは訂正した。
「何言ってるの。あれは作り物よ、生きてなんかいない」マギーがにべもなく言う。
「いや、眠らされているんだ」アルは引かない。「そういうことになっている」
「そうね、そのほうが安全よね。村の子供達は皆あの……象が大好きよ」ケイトが優しく
言った。
 アルは「それはよかった」微笑んだ。「ねえ、ケイトはどこで足をくじいたの?」
「森で木の根に足を引っかけちゃって」
「なんでまた森へなんか行ったの?」
「なんとなく行ってみたかったの。エリックがいてくれて助かったわ」ケイトはごまかし
た。
「エリックがどこにいるかすぐわかったでしょ? いつも赤いシャツを着ているからね。
なぜだと思う?」
「やめろよ」エリックが睨んだ。
「いいじゃない」アルはいたずらっぽく笑った。
「それは皆とエリックの身の安全を守るためなんだよ。ある夜、エリックは喉が渇いたん
で水を飲みに行こうとした。するとたまたま階段の上のところで夜回りをしていた警備の
男にばったり出会ったんだ。かわいそうにロウソクに照らしだされたエリックの姿に驚い
た男は階段から転げ落ちてしまった。ほかにも森で猟師から獲物と間違えられて何度も殺
されそうになったりしてね。そんなことが数え切れないくらいあってとても危険なんだ。
おたがいにね。そこで父上がいつもエリックとすぐわかるように真っ赤なシャツを着るよ
う命じた」
「まあ、なんだかひどい話ね」ケイトが言った。
「しかたないさ。こんな姿なんでね」エリックはあっさりと言った。
「それにしても、あんた達って変わってるわね」マギーは思わず言ってしまった。
「僕たちが変わってるって、どこが?」アルはエリックを見ながら言った。
 エリックは顔色を変えずに「そうだね。確かに変だ。特にこいつは」エリックはアルを
あごでしゃくった。
 気まずい空気が薄れ、それからはあたり障りのない話をして別れた。部屋を出るとき、
マギーはこっそりアルに訊いた。「彼は気を悪くしたかしら?」
 アルは「エリックは大丈夫だよ。とても楽しんでたよ」そう言うと布団にもぐった。
 マギーとケイトは、アルの蕁麻疹が治らないうちにおばさんの家へ戻された。ふたりと
もちょっと残念だったけどまたすぐ会えると思っていた。あの男の子達はちょっと変わっ
ているけど楽しい友達。
 一方、エリックとアルも口には出さないけれど本当はとても寂しくなっていた。気がね
なく話せる同じ年頃の子供というのはふたりにとって何よりも貴重なものだった。
 だけど四人がまた顔を合わせるようになったのはそれからずいぶん後になってからだっ
た。
 子供のいなかったおばさんにも次々と子供が生まれ家が手狭となり、年頃になったふた
りは領主のところで働くようになった。ふたりは密かにエリックとアルに会えるのをとて
も楽しみにしていたのだが、いざ見てみると以前とはずいぶん様変わりしていた。
 エリックはすっかり大人で、がっしりとよりたくましく強そうになっていたが背丈が少
年ほどしかない。アルはというと子供の頃のあどけない可愛いらしさが影をひそめ、驚く
ほどの美貌の持ち主になっていた。マギーとケイトは変わりばえしない自分達に気後れを
感じ、そばに寄れないまま遠くから見ていた。
 エリックは相変わらずいつもどこかに出かけていた。以前よりは遠出しているようで真
っ赤なシャツを粗末なマントで隠し、馬に乗って颯爽と出かけるのだった。
 アルは庭の片隅にある季節の花に囲まれた静かな東屋で一日のほとんどを過ごしていた。
その近づきがたいまでの美しさのせいで人々はそばに行くことをためらい遠巻きにしてい
る。とはいえ陰には必ず誰かが控えており、アルがあくびでもしようものならすぐにいく
つものクッションが現れた。 
 ケイトは仕事の合間に森に行ってみた。あの木はすぐに見つかった。一回り大きくなっ
ているその幹に腕を回すとエリックの言うとおりいい香りがした。優しい香りだった。
 そのまま目を閉じ、じっとしていると後ろからかさかさと何かが動く音がする。驚いて
振り返るといつの間にかエリックがケイトを静かに見ていた。
 ケイトは思わず赤面した。「ごめんなさい。これはあなたの木だったわ」と急いで離れ
た。
「いや、かまわない」エリックの声は低く穏やかで落ち着いていた。「君が森に行くのを
見かけたんでつけてきたんだ。前と立場が逆だな。君達の母上の木を一緒にさがす約束を
していた」
「覚えていてくれたのね」ケイトは自分でも驚くほどうれしかった。
「ああ、あれから何本か目星をつけてみたんだが、君達の母上がどんな人だかわからない」
「本当はもういいの。母さんが死んだときわたし達ふたりは小さかったから何も覚えてい
ない。どんな木を選べばいいかわからない。でも、もしよかったらわたしもこの木のとこ
ろへときどききてもいいかしら?」
「ああ、かまわない」
「座ってしばらくお話しない?」すぐに戻って行きそうなエリックをケイトは引き止めた。
「とても久しぶりだし……わたし達が屋敷にいるのに気がついてた?」
 エリックは素直に座った。「ああ、僕の部屋には毎日違う花が飾ってある。あれは君だ
ろ?」
「あなたの部屋はとても殺風景だから。もうわたし達を忘れてしまったのかと思ったわ」
「忘れたりはしてない」
「それなら少しは気づいたふりでもしてくれればいいのに。わたし達は少しばかり大きく
なって世間の常識がわかったの。あなた達は領主の息子で気安く話しかけられる相手では
ないって」
「そんなことは関係ない。でも……マギーも言ってただろ。僕達は変わってるって」
「そんなことは関係ないわ。ただ、わたし達のことを見えない幽霊みたいに扱わないで欲
しいの」
 ケイトは胸につかえていたものを吐き出すと気持ちが軽くなった。「さあ、もう戻らな
いと。よかった。あなたとゆっくり話ができて」ふたりは立ち上がった。
 エリックの背はケイトの胸くらいしかなかった。ふたりが向き合うとエリックはケイト
を見上げる形になる。
「あなたならいまでもわたしを抱えることができるでしょうけど、今日は面倒かけずにす
んだみたい。じゃあ、またね」そう言うと軽やかな足取りで戻って行った。
 残ったエリックはしばらく母親の木を見上げていた。
 ケイトはマギーに森でエリックに会った話をした。「彼は変わってなかったわ。きっと
アルもそうだと思う。わたし達は大きくなっていろいろと考えすぎてしまうのね。かとい
って以前のようには気安く接するわけにはいかないわよね。なんせ彼らは領主の息子だも
の。ハァー、なんだか小難しい」
 マギーは黙っていた。
「どうしたの? いつもよくしゃべるくせに黙り込んじゃって。この次はアルに話しかけ
てみるわ。少しくらいならいいわよね?」
 なぜかマギーは面白くない。いつも積極的に動くのはマギーなのだが、今回はケイトに
はかなわない。何をためらっているのだろう?
 しばらくしてケイトが興奮してマギーのもとにやってきた。「ねえ、アルと話したのよ。
ちょっと取り澄ましてたけど変わらなかった。とてもきれいだったわ。わたし達が変わら
ないから気後れしてるんだって。なんだか変よね。あなたのことも訊かれたわ。やっぱり
寂しがってるって言っておいたから」
「わたしは別に寂しがってなんかいない。余計なことを言わないで」
 腹をたてて出て行くマギーにケイトは肩をすくめた。まったく素直じゃないんだから。
 余計なことを! マギーはやはり面白くない。わたし達が変わらない?そんなことはな
い。ケイトの美しくまっすぐな栗色の髪は輝きを増して、しなやかな身体はとても女らし
い。
 それに引きかえマギーの赤毛は相変わらずもじゃもじゃで編みこんでもまとめても跳ね
て飛び出してくる。それをどうにか無理やりおさめていた。顔のそばかすもがっしりした
身体付きも何も変わらない。そう、確かにわたしは変わってないわね。ため息をつくとぶ
らぶらと庭に出てみた。すると向こうのほうをアルが釣竿を抱えて行くではないか。マギ
ーは思わず後をつけた。自分でも何をしているのかと呆れてしまったが、釣り糸を垂らす
アルの後ろ姿をこっそり見ていた。
「マギー、そんなとこで見てないでこっちにこない?」突然アルが振り向きもせず言った。
 マギーは心臓が飛び跳ねたが平静を装ってそばに行った。
「たまたま通りかかったの。何か釣れた?」
「いや、釣りはどうでもいいんだよ。ただこうしていたら君がくるかも知れないと思って」
 マギーは顔が真っ赤になるのがわかった。
「相変わらずの調子のよさね。わたし達をずっと無視してたじゃない」
「そうじゃないんだ。ただ怖かったんだよ。君達のことはずっと楽しく思い出していた。
でも君達が変わっていたら……思い出のまま取って置いたほうがいいかなとも思って」
「ケイトにわたし達は何も変わっていないって言ったくせに」
「嘘だよ。ふたりともとてもきれいになった。ケイトもだけど君のその髪、ますます素敵
だ」
 ケイトの顔がこわばるのを見てアルは微笑んだ。「本当だよ。君のそのびっくりしたフ
クロウのような瞳によく似合っている」
 マギーはどう反応すればいいのかわからい。
「それに見ているととても面白い。君は顔になんでも出るからわかりやすい。君が怒ると
君の髪の毛は元気よく飛び跳ねる」
「あんたって人はまったく! 自分がちょっとばかりいい顔してるからって人をからかう
もんじゃないわ」マギーは鼻を鳴らした。そしてアルをひと睨みすると髪の毛を確かめな
がら戻っていた。
 見送るアルの顔はとても楽しそうだった。
 その後、マギーとケイトはふたりと会えば自然と話すようにはなったが、エリックもア
ルも以前にもまして何を考えているのかはわからなかった。
 ある日ケイトが庭で花を摘んでいると、突然アルが目の前に立っていた。
「今夜、僕の部屋で集会だよ。マギーと一緒に必ずきてね」
 その夜、ケイトは仕事の終わったマギーを捕まえてアルの部屋に行った。
「なんなのよ、集会って」マギーが髪の毛を気にしながら聞くと
「わかんないわ。突然なんだもの」ケイトも身なりを整えながら言う。
 ノックをするとアルの澄ました声がした。
「どうぞ」
 部屋に入るとテーブルの上に、お菓子とお茶の用意がしてあり、エリックとアルが座っ
てふたりを待っていた。
「これが集会?」マギーの戸惑った様子にアルがにこやかに答えた。
「集会?そんなこと言ったっけ。お茶会だよ。こうでもしないと皆が集まる機会はなかな
かないからね。さあ、座って。お茶を入れよう」
 アルの入れてくれたお茶を飲みながらふたりは緊張した。こうしているとなんとも奇妙
な気がする。
「さあ、そんなにかたくならないで。エリックがぜひ四人で集まりたいと言うもんで僕が
用意したんだよ」褒めてもらいたい子供のような口調だった。
 エリックは何か言いたそうだったが、諦めたようにため息をつくと口を開いた。
「まあ、そういうことだ。せっかくきてくれたのだから、村の話でも聞かせてくれないか。
最近気になる話を耳にする」
「どんな話?」ケイトが口を開いた。
「僕は最近村のほうまで足を伸ばすようになった。村人は僕を見たことないのだから正体
がばれるも何もないのだが、なんせこの姿だから怪しい者と警戒されてしまう。それでも
いくらか聞いた話では、近頃森で不穏な動きが起こっているとか。何か聞いたことはない
か?」
「ああ、それなら聞いたことがあるわ」マギーが答えた。「なんでもどこかからやってき
た謎の盗賊団が住みつき、森を通り抜ける行商人を襲っているらしいって」
「本当かい?」アルが尋ねた。
「噂よ。本当のところはわからない。でも皆、怖がって森には近づかなくなった。だけど
実際、外からやってくる人達はめっきり減ってしまって村は活気がなくなってきている。
わたし達の村は行商人の通り道だから潤っていたとおじさんも心配してたわ」本当はこの
話には続きがあった。おじさんは村を守るのは領主の役目、領主は何をしているんだとい
きまいていたのだが、もちろんそんなことは言えない。
「盗賊団か。父上は知っているのかな?」アルはエリックに訊いた。エリックはしばしば
父親と書斎で難しい話をしているのを知っている。
「ああ、父上も調べているようだ。だが、最近父上の体調があまりよくないようなんだ」
「気がつかなかった。どこか身体が悪いの?」アルは驚いた。
「お前はまったくもう。どうやら心配事が重なっているようだ。お前も変なことを起こす
なよ」
「嫌だなあ、兄さん。僕はとってもいい子にしてる。何か起こすとしたら兄さんのほうだ
よ」
「いったい何がいるのかしら?」話が違う方向に行っているのをみてケイトが口を挟んだ。
「まだわからないが、どうにかしないとな」エリックは眉間にしわを寄せた。
「ところで、君達がなんでまたここにくるようになったか聞いてなかったね」アルが話を
変えた。
「わたし達を引き取ってくれたときには子供のいなかったおばさんもいまでは五人の子持
ち。その子供達もだいぶ大きくなって手がかからなくなったし、家も狭くなったからわた
し達はおばあさまのところに行きたいと願ったというわけ」マギーがまとめた。
「マーサは頼りになるからね」エリックが言う。
「本当にそれだけ?僕達のことはこれっぽちも頭になかったの?」アルがすねたふりをし
て話を混ぜ返す。
「思いつかなかったわ。特にあんたはね」マギーはアルの言葉にいちいちつっかかってし
まう。
「炎のような髪をしているのに冷たいなあ。凍えそうだよ」アルは震えて見せる。
「あんたのその人をからかう癖はやめたほうがいいわ」
「君こそなんだか僕に恨みでもあるみたいじゃない。僕が何か気に障ることした?」
 これにはマギーも怒った。アルの胸に指を突きつけて一言一言はっきりとくぎって言っ
た。「あんたは・わたしの・気に・さわる・こと・しか・して・いない」
「そんな、君の勘違いだよ」アルは心底、意外そうに言った。「そう思われているなら謝
るよ」あっさりと言う。
「いいのよ、悪気がないんだったら」マギーはなんだか気が抜けた。
「でもこれから君の髪を褒めることができないのならどこにしよう」アルはマギーをじろ
じろ眺めた。
 マギーの髪が爆発しそうになったときエリックがアルをたしなめた。「アル、いい加減
にしろ」そしてマギーのほうを向いてすまなそうに言った。「許してくれマギー。こいつ
は栄養がすべて外見にいってしまい脳みそに行き届いていないんだ」
「ひどいな。兄さんこそ脳みそばかりに栄養を持っていかないで外見にもまわしたら」
 このやり取りにマギーとケイトははらはらしたが、よく見るとふたりともにやついてい
る。
「ふたりとも、とても仲がいいのね」ケイトは思わず言った。
「とんでもない!」ふたりは顔を見合わせて言った。
 取りとめのない話や、噂話をしながらアルとエリックが以外にもまわりをよく見ている
のに驚く。アルは何も見ていないようで周りをよく観察しており、知らん振りをしている。
エリックは外の世界に興味をもっているのにまわりが見ない振りをする。そしてふたりは
世間から外れている。
 穏やかな夜だった。エリックはねじれた指で器用にカップを持っている。その見かけと
裏腹に仕草や動作は不思議な気品に満ちている。普段は人を欺くためにわざと粗暴に振舞
っているのではないかと思えるのだった。
 もっと人と打ち解けるようにしたら誰も怖がったりしないのに。ケイトが考えていると
「どうしたの、おとなしくなっちゃって」マギーがケイトをつついた。
「ごめんなさい。なんだかぼうっとしてたみたい」
 アルはケイトを見て微笑んだ。「だいぶ遅くなっちゃったね。僕も眠くなってきた。そ
ろそろお開きとしよう」
「また集まろうね」アルはふたりを送り出すとエリックのほうを向いて、真面目な顔をし
て言った。「ケイトはいい娘だね」
 エリックはすでに違うことを考えているようで、上の空でうなずくと自分の部屋に戻っ
て行った。
 そして、次のお茶会が開かれることはなかった。

 同じ頃、領主はひとり書斎で頭を抱えていた。いろんな問題が同じときをして起こって
いる。なぜ自分の代に……。
もともとは領主の家ではなかった。先代、つまりいまの領主の父親の時代に本来の領主に
何か災いが起き滅びたために、当時弟であり領地の管理という名ばかりの気楽な仕事につ
いていた父親が後釜に据えられたのだった。そうだからといっていまの領主が怠けている
わけではない。責任感の強い、真面目で実直な男なのだからこそ頭を痛めていた。
 森に潜んでいるという盗賊団、密かに何度も怖いもの知らずの屈強の衛兵を村人や商人
の格好で偵察に出したのだが誰も戻ってこなかった。これ以上犠牲者を出すわけにはいか
ないし、相手がどんなものかわからない限りうかつに手は出せない。
 小さいながらも平和な村だった。先にはもっと大きな村や町がある。この村は行商の商
人達が一休みしたり取引場所とするのにちょうどいい位置にあり、宿屋や商店が多く賑わ
っていた。これからますます発展する見込みのある村だった。なのにいまは火が消えたよ
うに活気も何もない。
 領主はロウソクを遠ざけると目頭をもんだ。愛する妻は病気でなくなった。とても悲し
いことだ。が、これはわたしだけでなく多くの人々が同じ目にあっている。しかたのない
ことだ。だが……息子達、あんなに変わった子供達を持つ親が他にいるだろうか。もちろ
んふたりのことはとても愛している。だが、領主の務めとしてこの地を守り続けていかな
くてはいけない。この次どちらの息子に跡を継げばいいのだろう。ひとりは十分な資質を
持っているのだが人嫌いだし、人々からも恐れられている。もうひとりは十分すぎる容姿
を持っているのだが中味がない。
 領主は心労からめっきり気が弱くなってしまい、自分がもう長くないと思い込み、跡継
ぎを決めることにあせっていた。考えるのに疲れはて、休もうとしたちょうどそのとき、
書斎から明かりが漏れているのに気づいたエリックがノックをして入ってきた。
「父上。遅くまで起きていてはお身体に障ります」
「お前か、エリック。もう休もうと思っていたところだ。いや待て、どうせ眠れんのだ。
少し話し相手になってくれ」
「森のことを考えていたのですか?」
「そうだ。お前には前にも言ったがわからんのだよ、いったい何が起きているのか。いっ
そ焼き払ってしまおうか。このままでは村がさびれる一方だ」
「実はわたしも森に入ってみたのですが不気味なだけで何も起こりませんでした」
「何だって! そんな危険なことをしてはいけない」領主は息子の身を案じた。
「父上。すでに何人かの命が失われているのでしょう? 黙って見ているわけにはいけま
せん。わたしは腕には自信があります。それにたいがいの者から恐れられます。ああ、そ
のせいかな。何もなかったのは」
 これはまんざらはずれてはいなかった。本当は不味そうだったからなのだが、ふたりに
は知る由もない。
「もう少しわたしに時間を下さい。もっとよく確かめてみます」
 領主はため息をつきじっと目を閉じると腕組みをして考えた。エリックはそばでその様
子を見ていたのだが、あまりにも動かないので眠ったのだと思いそっと部屋を出ようとし
た。
 領主はいきなり目を開けた。「待て。よし決めた!」
「どうしたんですか?」
「わたしは自分が元気なうちに跡継ぎを決めたいと思い悩んでおったが決めかねておった。
お前もアルもひとりでは役不足だ。だからお前達ふたりを跡継ぎとする。表の顔はアル、
だが実質の執務をするのはお前だ。これで決定だ。誰にも文句は言わせん、むろんお前達
にもな。このことは明日アルにも伝える。近いうちに村人達にも知らせることにしよう」
 一気にまくし立てるとエリックが口を開く隙も与えずにさっさと寝室に引き上げていっ
た。
 エリックは慌ててアルの部屋に駆け込み、のほほんとした顔でぐっすりと寝ているとこ
ろをたたき起こした。
「なんなのいったい。まだ真夜中だよ。お化けでも出たの?」また寝ようとする。
「起きろ。父上が!」
「父上に何かあったの!」さすがにアルも目を覚ました。
 このときにはもうエリックは落ち着いていた。「父上が跡継ぎを決めたそうだ」厳かに
言った。
「跡継ぎ? 父上はそんなに具合が悪かったの?」アルは驚いて言った。
「いや、いますぐどうこうなるというわけではないんだが、ただとても気が弱っているよ
うだ」
「で、もちろん兄さんが跡継ぎなんでしょ。長男だし、頭いいし。おめでとう」また布団
をかぶろうとする。
「何がめでたいかわからんが、そうじゃない。跡継ぎはお前だ」エリックはちょっとばか
り脅かしてやりたくなった。
「嘘だ!」アルは飛び起きた。「嫌だ! 僕はそんなものになりたくない。無理だ!」
「落ち着け。嘘だ。半分は」
 アルはほっとしたものの、ふと気がついた。「半分?」
「ああ、父上は僕たちふたりに後を継がせると決めた。お前が顔で僕が頭だ。つまり表で
愛嬌ふりまくのがお前、後ろで考えるのが僕というわけさ」
「そんな! 兄さんはそれでいいの? いまと何も変わらないじゃない。」
「父上が決めたことだ」そう言うと呆然としているアルを置いて出て行った。
 次の朝、領主のもとへくるようにとアルへ伝えるよう言いつかったマギーはアルの部屋
の扉をノックした。珍しくすぐ出てきたアルはもともと白い顔が透けて見えるようだった。
「おはようマギー。父上が呼んでいるんでしょ」
「どうしたの? 顔色が……ないわ」
「いっそ全部見えなくなってしまえばいいんだけど。爆発しそうなんだよ。いや、君のこ
とを言ってるんじゃない。僕の頭がだよ」
 マギーは心配したのがあほらしくなった。
「やれやれ、行くとするか。でも君の顔を見れてよかった。元気が出てきたよ」そう言う
とふらふらと歩いて行った。
 マギーは真っ赤になった顔を見られずにほっとした。それにしても、いったい何があっ
たのだろう?

 書斎には無表情なエリックが待っていた。息子達が揃ったところで領主はいきなり本題
に入った。
「わたしもこの先どうなるかわからない。だから少し早いが跡継ぎを決めておこうと思う。
わたしの願いとしてはお前達ふたり一緒に後を継いでもらいたい。ふたりで足りないとこ
ろを補いあいながら助けあってこの村と民を守っていくのだ」
「父上。僕は嫌です」アルが言った。
「なんだと。後を継ぎたくないというのか?」予想はしていたがそれを許す気はなかった。
「違うんです。僕は一緒にというのが嫌なんです。僕はひとりで父上の跡を継ぎたい」ア
ルはふたりを見つめると後を続けた。「僕はいままで兄さんに遠慮して馬鹿な振りをして
きた。兄さんはこの姿だからせめて頭位残してあげないといけないと思って。でも最近う
んざりしてるんです。おかげで僕はまったく美しいだけの無能者扱いされている。これは
不本意だ。だからはこれからは本来の姿を出します。兄さんには失礼だが、兄さんの姿で
はこの村は治めることはできません。皆が恐れるからです。父上、これからの僕を見てい
てください。きっと後悔はさせませんから」
「アル、本気で言っているのか?」領主は耳を疑った。
「もちろん、本気です」アルは胸を張った。
「エリック、お前はどうなんだ?」
 エリックは黙って話を聞いていた。何を考えているのかわからない。
「父上、僕はかまいません。アルの言うとおりに」エリックは表情を変えずに冷静に答え
た。
「ああ、なんと……わかった。しばらく様子を見てから決めることにする」領主はいま一
度アルの顔を確かめると首を振りながらどこかへ消えて行った。
 書斎は重苦しい空気に満ちあふれていた。残されたふたりはゆっくりと顔を見合わせた。
「アル、それでいいんだな」エリックの声はこわばっていた。
「よくないよ」アルはへなへなとそばの椅子に座り込んだ。
 何がなんだかわからないエリックは眉を寄せ、先ほどの勢いのかけらもない、いつもの
アルの間抜け面を見つめた。
「僕はきっとすごい熱がある。普段使わない頭を働かせ過ぎたんだ」
「お前は賢いんだろ」エリックが口を歪めて皮肉を言う。
「冗談だよ」
「どういうわけなんだ、ちゃんと納得できるように説明しろ」しだいに腹がたってきたエ
リックはアルの胸元をつかんで迫った。
「僕は跡継ぎなんてまっぴらごめんだ。後を継ぐのは兄さんひとりにお願いするよ」
「だからわかるように言うんだ!」
「わかったから離して。兄さんの馬鹿力にはかなわない。僕は繊細なんだよ」
 すっかり気をそがれたエリックはアルのそばに椅子を寄せ、背もたれを抱えるように座
ると深いため息をついた。
「で?」
「ふたりで『魔女の館』に行くんだ。ちょっと小耳に挟んだんだけど、あそこに行けば望
みが叶えられるらしい」
「そうなのか? あそこから生きて戻った者はいないとも聞いている」
 あの館には以前の領主一族に呪いをかけ滅ぼした恐ろしい魔女が住んでおり、中に入る
と二度と出られないと噂され近寄る者のいない禁断の場所となっている。
「ところがそれは人を近づけないようにするために流されているらしいんだ」
「誰から聞いた?」
「僕が蕁麻疹で寝込んだときのことを覚えてる? 誰にも言わなかったけどあのときカエ
ルが口の中でしゃべったんだ。丘の上の館に連れて行ってくれ。そこに行けば僕の願いも
叶うって。うーん……、確かそんなことだったと思う。なんせ子供だったからね」
「なんだかいい加減だな。夢でも見たんじゃないのか?」エリックは眉をひそめた。
 アルの話はなんとも頼りないが、エリックは以前から『魔女の館』に興味を持っていた。
もし噂どおりのものなら村に災いをもたらす前につぶしてしまういい機会かも知れないと
思い、アルの話に乗った。
「それで、もしお前の言うとおりだったとして何を願うんだ?」
「内緒だよ」

「僕は乗馬が苦手なんだよ」アルがぼやくとすかさず「お前が言い出したことだろ」とエ
リックは相手にしない。ふたりは館が深い眠りについたあと、闇に紛れてこっそり屋敷を
抜け出した。
 夜更けに魔女の館に着いたふたりは、うるさいカエルが貼りついた奇妙な扉を通って屋
敷に入り、エマに会った。
 恐ろしい噂と違い魔女はただの年老いた女だった。
 ふたりの話を聞くとエマはその願いを聞いた。エマにとっては跡継ぎや村や領主など何
の関係もない。ただ、面白そうに思えただけ、それだけのこと。
 アルの願いは自分とエリックの身体を入れ替えるというものだった。エリックは驚きア
ルの顔をしばらく見つめていたが、やがてうなずいた。
「お前がそれを望むなら僕はかまわない」
 エマはふたりの姿を入れ替え、光の球をふたつ増やした。。
 屋敷に戻ったのは美しいアルの姿をまとったエリックだけだった。アルは魔女の館に残
ると言い張り、エマは邪魔をしなければ別にかまわないと言った。
 それ以来、この日までふたりが顔を合わせることはなかった。

 ティモシーはふたりを見つめた。アルとこの美しい青年が兄弟! アルは領主の息子!
 アルの本当の姿は……。頭の中がぐちゃぐちゃに混乱してうまくまとまらない。
「どうして、うまくいってたんでしょ?」アルが情けない声を出す。
「ああ、まったく苦労したよ。お前のふりをして頭が空っぽに振舞いながら徐々に変わっ
て行く予定だった。そうとも、うまくいっていた。だが、ケイトとマギーにすぐ見破られ
た。ケイトにずいぶん責められた。なぜそんな必要があるのかと。なぜ自分の姿を恥じる
のかと」

 『エリック。あなたは素晴らしい人なのに自分でそのことを台無しにしている。あなた
がもっと歩み寄れば人々はあなたを恐れたりしない。見かけをいくらよくしてもそれは本
当のあなたではない。本来の姿で理解されるよう自分から努力をしなくては何の解決にも
ならない。あなたはそれでいいと思っているわけではないでしょう?』

「いつまでもお前の姿でいるつもりはなかった。どうしようか考えていた。だがケイトの
言葉で目が覚めたよ。僕は間違っていた。」晴れ晴れとした声で続けた。「僕が後を継ぐ。
エリックとして」
 アルはがっくりと肩を落とした。「当然だよ、長男なんだから。父上はなんと言ってる
の?」
「父上は何も知らない」実は領主は変わったアルに戸惑いながらも内心喜んでいた。「戻
ったらすべて話しわかってもらうつもりだ」ここでエリックは表情を和らげた。「父上は
突然お前がいなくなってとても心配している」
「エリックがでしょ」アルがぼやく。
「まあ、そうだが。父上にはエリックからの手紙を届けて心配しないようにと伝えている」
「なんて書いてるの?」
「安住の地をさがしてしばらく旅に出ますというようなことをだ」どうでもいいと言うよ
うに手を振った。
「ここがまさにそれなのに」アルはつぶやいた。
 エリックはエマのほうを向いた。「何度も煩わせてすまないが、こういうわけだ。僕達
をもとに戻してもらえないだろうか?」
 エマはアルのほうを見ると本当にいいのかと尋ねるような顔をした。アルは口元を歪め
たが諦めたようにに肩をすくめた。
「わかったよ。お前さん達をもとに戻してやろう」
 ふたりはエマの前に並んだ。アルは立ったまま、エリックはひざまずいて目を閉じた。
エマがふたりの頭に軽く手を置くと大きな光る球がそれぞれの身体の中から現れた。それ
らは揺れながら大小ふたつに別れ、小さな光る球ふたつを残してそれぞれの身体に戻って
行った。
 エリックとアルはゆっくりと目を開け自分の身体を見下ろした。エマは宙に浮いている
小さな光の球をひとつ残し、もうひとつをそっとエプロンのポケットに入れた。
「ああ!」アルの美しい顔が嘆いた。「なんと言う姿だ」
 もとの姿に戻ったエリックは呆れた顔をしてアルを見た。
「さてエリックとやら、もう一度目を閉じてごらん」エマはそう言うと浮かんでいる光の
球をそっと手で包みエリックの頭の上で開いた。
 光の球がその身体に吸い込まれると、エリックの身体がブルッと震えた。
 やがて骨がこすれ、軋むような音とともにすべての筋肉が激しくうねりだした。
「兄さんに何をしたの!」叫ぶアルをエマは目で黙らせた。
 苦しそうに呻きもだえるエリックの姿を皆はこわばった顔で、なすすべもなく見ていた。
 めきめきという恐ろしい音とともにエリックの背が伸びる。背中の瘤が平らになり、ね
じれていた骨と肉がまっすぐになると、そこにはまったく見違えるような立派な青年が立
っていた。
「エリック!」アルは興奮して駆け寄った。「なんとまあ。まるで別人のようなのにどう
見てもエリックそのものだ」
「お前さんの話を聞いて思ったんだが、あの身体は幼い頃の熱にやられたんじゃないかな
とね。もし、病気にならなかったらそんな姿になっていたはずだよ。それが本来のお前さ
んの姿さ」エマが言った。
 いまのエリックの背はアルより頭ひとつ分高い。エリックは自分がアルを見下ろしてい
る事実が信じられなかった。
「エマ、これは本当に僕なのか?」
「信じるのも信じないのもお前さんの勝手さ」
「信じよう。ただ慣れるまでに時間がかかりそうだ」エリックは自分の身体を確かめるよ
うにまっすぐな指を見つめて言った。
「ところでアル、何か違う服はないか?こんなひどい格好では帰れない」
 エリックは道化師の服を着ていた。 
「ああ、僕の部屋にあるから持ってこよう」まだ興奮がおさまらずふらふらと出て行こう
とするアルをエリックは呼び止めた。
「そういえばマギーに会わなかったか? お前をさがすという手紙を残して出て行ったの
だが」
「マギーが?」アルは何か問いただすようにエマの顔を見たがエマは何も言わなかった。
それから「会ったよ。とても元気だよ」そう言って出て行った。
 ティモシーはアルが扉を閉める前に、いつからか外にいた神妙な面持ちの大ガエルに何
か話しかけるのを見た。
 エリックは着替え終わると、ここに残ると言い張るアルを引きずるようにして館に戻っ
て行った。あまりの出来事に言葉を失っていたティモシーは満足に別れの挨拶もできなか
った。

 物事が一段落し気持ちも落ち着くとティモシーは画伯のところに行き一部始終を話した。
「ほう、面白いな。あのお調子もんがそんな色男だったとはな。わしも見てみたかったも
んじゃよ」
画伯はとても悔しがっていた。「しかしあんないい加減な奴でもおらんと寂しくなるな」
 そうだった。ティモシーはがらんとした屋敷がいっそう寒々と感じた。エマや大ガエル
でさえ、なんだか沈んでいるように見える。―― 大ガエル!―― そうだったのか。 
ティモシーは大ガエルをさがした。あっけなく厨房で見つかった。エマに作ってもらった
耐熱性のエプロンをしてかまどにかけた大鍋を心あらずといった風情でかき回している。
あれからスープには味がない。
「やあ、ここにいたんだね」振り向いた大ガエルの頭の部分は赤色が濃い。なぜ気がつか
なかなかったんだろう。「君がマギーなんだね」大ガエルは「ケロッ」と鳴いた。
「君はアルのところへ戻らないの?」
 まるで人間のように大ガエルはカエルの肩にあたる部分を落とし、ため息とともに出て
行った。ちょうど入れ替わりにエマがやってきた。エマはマギーのほうをちらりと見たが
何も言わずにやかんからお茶をつぎ椅子に座った。
 ふたりきりになるのは久しぶりだった。
「何か言いたいことがあるんだろ?」
「なんで黙っていたの?」
「彼女がそう望んだからさ。アルがここにきてしばらくして彼女がきた。そしてあの色男
にわからない姿になってここにいたいと言った。だからそうしたまで」
「よりによってカエルに変えるなんて」
「しかたないだろ。わたしは何も知らなかったんだから」エマは弁解した。
 ティモシーはエマを見ながら言った。「彼女もまじないを解く方法を知っているんでし
ょ」
「もちろん知ってるさ」
「僕にも教えて」
 エマはどうしようか迷ったが別に隠しているわけではないので言った。
「アルとキスする」
「そんな! アルはカエルに近づけないんだよ」
「だからそんなこととは知らなかったし、あの娘も何も言わなかった」
「いまから変えれないの?」
「できなくもない」エマはちょっと肩をすくめた。「でもあの娘は望まないんだよ」
 ティモシーは呆れた。「なんでまたこんなことをしたの?」
 エマは悪びれずに言った。「退屈だったのかも」
 厨房にひとりになったティモシーは何かおかしいと感じた。なんだろう?
あたりを見回し首を傾げた。わかった! 一対のカエルの置物がない。そう、エマはこの
部屋に入ってきたとき何もしなかったから変な感じがしたんだ。あのふたりの問題は解決
したんだろうか?
 ティモシーの足は自然と画伯のところへと向かった。前は巨大なシダや見たこともない
植物の生い茂ったジャングルの中に鮮やかで気味の悪い爬虫類が潜んでいる不気味な絵だ
ったが、いまはのどかで平和な田園風景に変わっていた。
「絵描くの早いね」
絵の片隅が消され、画伯が返事した。「この程度の絵なら落書きじゃ」
「画伯もいつか出て行くの?」
「いつかはな。だがまだじゃ。ここは面白い」
 ティモシーはアルが使っていた部屋に入ってみた。その部屋の調度品はすべて揃ってお
り、箪笥の中には上等な服がたくさんかけてあった。ただすべてが古びて変なにおいがし
た。
 ベッドの横にはきちんと道化師の服がかけてある。きっとマギーが苦労してかけたのだ
ろう。
『懐かしいな、昔のままだ』
「フィル! ここを知っているの?」
『もちろん。ここは僕の部屋だった。この変なにおいは虫除けの薬だ。まだ残ってる』
「君はここに住んでいたの! いったい君は誰?」
『ここはその昔、領主の屋敷だった。そして僕は領主のひとり息子だった』
「君に何が起こったの? エマが関係しているんだね」
『ああ、話せば長い話なんだよ。それにまだその前にやらなくてはいけないことがある』
フィルはふたたび沈黙の中に沈んでいった。
 それから数日間、ティモシーは何をするわけでもなく、館の中や外をぶらぶら見てまわ
った。エマはいったい何をしているのかはわからないがあちこちで見かける。エマを見る
とフィルはじっと見つめる。ティモシーとしてはとても気まずいのだがどうしようもなか
った。だんだんおかしな夢を見るようになった。―― 壊れていない館とたくさんの人々。
きれいだが神経質そうな女、静かな湖としなやかな枝を持つ樹、不気味なカエル、険しい
岩肌の恐ろしい洞窟、そして若いエマ ―― これらが一緒くたになって出てくるが、朝
になればそれらのほとんどが泡のようにはかなく消えてしまう。ただ、奇妙な感覚だけが
澱のように沈殿していった。
 中庭のベンチで夢のことをぼんやり考えていると、後ろからぬっと顔が出てきた。
「どうしたんだい? ぼんやりしちゃって」
「アル! 戻ってきたの」驚きのあまり飛び上がったのでアルに激しく頭をぶつけてしま
った。
「痛たたたた。こんなにも激しく歓迎してくれてうれしいよ」アルはあごを押さえながら
唸った。「やっと戻れたよ」美しい姿のアルは不思議にも違和感がなかった。
「どうなったの?」急に不安になった。
「お茶でも飲みながらゆっくり話そう。エマもマギーも待ってる。」
 厨房ではなく画伯のいる広間にいつの間にかテーブルと椅子が運ばれ、ちょっとしたお
茶会の準備ができていた。画伯が嫌がるのでたまにしか開けない窓は開け放たれ、いつも
は薄暗い部屋も明るかった。
「ここのほうがいいと思ったんだよ。まあ、画伯は何も飲めないけどね」アルは絵に向か
ってこれ見よがしにカップを掲げた。画伯は何かぶつぶつ不満げにつぶやいているようだ
った。
「これでこの屋敷の中で動いたり話したりできるものが揃ったことになる」アルがもった
いぶって話を切り出した。まだ明るいのにもかかわらず火のついたロウソクが立ててある
四角いテーブルは画伯のまん前に置かれ、絵の正面にアルと高い椅子に座った大ガエルの
マギー、その両側にエマとティモシーが座った。奇妙な組み合わせでありながら同時に奇
妙な連帯感があった。もっともアルとマギーの間にはちょっと距離があったが。
「で、いったいどうなったんじゃ」画伯がせっかちにアルをうながした。
「それがもう大変だったんだ」アルは優雅にお茶を飲み、ゆっくりとお菓子に手を伸ばそ
うとしたとき、マギーが睨みつけた。アルは慌てて話を始めた。

 エマの館からはエリックの馬にふたりで乗って帰った。
「すごいな、兄さんの後ろに乗れるなんて」
「なあ、皆は僕をエリックだと認めるだろうか?」
「大丈夫だよ。どこからどう見てもエリックだよ」
「この話を皆は信じるだろうか?」
「エマの話をしては駄目だよ」
「なぜ? あの館には恐ろしい魔女などいないとわかったほうがよくないか?」
「エマは煩わしいのが嫌いなんだ。いまのままにしておいたほうがいいよ」
「そうか、ならばなんと言おう」
「旅先で素晴らしい名医に出会い身体を治してもらったことにすればいいじゃない」
「嘘っぽいな」鼻を鳴らした。
「どうせ嘘じゃない」
 館に入ると誰もが驚いて目を丸くした。真っ先に父親のところへ行き、もっともらしく
でっちあげた作り話をした。
 驚いたことに父親は露とも疑わずに信じた。姿かたちは違っても、どこからどう見ても
確かにエリックそのものだったから。
 領主はとても喜びふたりの息子を強く抱きしめた。そこでアルが切り出した。
「父上、僕は後を継ぐと言いましたがそれを取り消したいと思います。エリックがこうし
て立派になって戻ってきた以上、長男が継ぐべきです。実は僕はエリックが戻るまでと思
って一生懸命、賢く立派な振りをしてきました。でももう限界です」
「何を言っているんだ、お前は。あれはすべて演技だったというのか?」
「そうです。無理なことを続けていたせいでもう頭が爆発しそうです」
 確かにいまのアルはなんとなく頼りなく芯のない男に見える。昨日までのアルとは別人
のようだ。「お前はエリックがこうなるとわかっていたのか?」
「もちろん! 兄さんはなんでもできる。きっとすべての問題を解決して戻ってくると信
じていました」
 領主はそれ以上追求はしなかった。「エリック、今度こそ本当によいのだな?」
「皆が納得するのならわたしはお受けします」
 領主は館のものを始めすべての領民にエリックを跡継ぎと決めたことを正式に発表した。
エリックを知っている使用人達は領主の話を信じ喜んで受け入れた。エリックの姿をはじ
めて見る村人は領主の息子が噂とは違い立派な姿なのに安堵した。
 ケイトにはすべてを正直に話した。エリックの変わった姿にとても戸惑っていたケイト
だが次第に慣れていった。ケイトにとってどんな姿であろうとエリックはエリックだ。
 ふたりきりになったとき、エリックはアルに訊いた。「お前は本当にああ考えていたの
か?」
「まさか。僕はそんなに頭は回らない。思いつきだよ」
 エリックは呆れたがある考えがふと頭をよぎった。本当にそうなのか? 脳天気なアル
の顔を眺めた。こいつの頭の中は誰にもわからない。考えるのをやめた。
 すべてがおさまるところにおさまると、領主は見違えるように元気になった。
 そしてアルは逃げ出した。

「皆、心配しているんじゃないの?」ティモシーが言った。
「ちゃんと手紙を置いてきた。今度は僕が放浪の旅をする番だよ。まあ、エリックはわか
っているよ」
 それからマギーのほうを向くと「ケイトが心配しているから君は元気だと言っておいた
よ。そのうち会いにくるって言ってた。その姿のままでいいの?」何も知らないアルは無
神経に言った。人間にたとえたらマギーは複雑な表情をしていたと言えるだろう。
「そういえば厨房のカエルの像がなくなっているんだけどどこかへ移したの?」ティモシ
ーはエマに尋ねた。
「ああ、その話なら僕が知ってる。エリックが教えてくれた」アルが面白そうな顔をした。

 大ガラスの娘と鍛冶屋の息子を魔女の館に送り出したあと、エリックはふたりの話を聞
きながら思いついた方法を考えた。あまり気が進まないがしかたない、この姿ならではで
きることだ。なんせ化け物だから大ガラスの怪我が治るのにそれほど時間はかからないだ
ろう。エリックは早速準備に取りかかった。
 エリックの計画は大ガラスが美しいものに目がないという話なので、自らが囮になり大
ガラスを引き寄せるというものだった。清純に見え目立つとように純白のドレスを作らせ
た。それはまるで花嫁衣裳。ドレスを身につけ金色に輝く髪をきれいに結い上げ髪飾りを
つけるとあまりの美しさに誰もがうっとりと見とれた。エリックはうんざりした顔でため
息をついた。つきまとう衣装係を追い払い、ふたりがいつも待ち合わせをしていたという
川のほとりで張り込むことにした。敏感な化け物に気づかれては台無しになるので衛兵を
わからないように離れたところに潜ませるとともに何も知らない村人を近づけないように
した。ということはそばには誰もいない。エリックひとりで立ち向かわなければいけない。
前もって大ガラスの娘の指に軽くナイフをあて血をつけてもらったハンカチを心臓に近い
場所に入れ、鍛冶屋の息子の鍛えた剣を広げたスカートの下にすぐ取れるように隠した。
そうして座ったままあたりを見回せるよう手鏡を掲げ、緊張のあまり震える手を意識しな
がら大ガラスが現れるのを待った。数日が過ぎ、いい加減げんなりしたとき、エリックは
背部に邪悪な空気を感じた。手鏡で確認する手間も必要ないと確信したエリックは気づか
ぬ振りをして物思いに沈む娘を演じた。
 大ガラスは鍛冶屋の息子と戦ったあと、やっとの思いで巣に帰った。傷が治るのをはら
わたの煮え返る思いで待った。あの若造め、ばらばらに引き裂いてやる。そしてあの娘、
どうしてくれよう。羽をむしりとって食べてしまうか、いやここから出られないようにつ
ないで面倒を見させよう。次が見つかるまではな。だがひとつ気になることがあった。娘
の気配が感じられないのだ。
 傷が治るとすぐさま大ガラスは村へ向かった。村に近づくと、かすかだが気配を感じた。
なんだか奇妙だが怒りが激しいのでそこまで頭が回らなかった。川のほとりで何かがきら
きら光っている。手鏡に反射した光が大ガラスの気を引いたのだった。空をゆっくり旋回
しながらよく見ると、輝く髪を持つ娘がいるではないか。見たこともないほど美しく光輝
いている。おまけにうまい具合にひとりだ。あいつらはあとでゆっくりかたづけるとする
か。この機会を逃す手はない。大ガラスは少し離れたところに静かに降りると人間に変身
した。
「美しい娘さん。こんなところで何をしているのかな?」話しかけたのは異国風の衣装に
黒いマントを身にまとった中年の紳士。その口調はとても丁寧だが、声は甲高く耳障りだ
った。
「ああ、異国の人よ、実は困っているのです。わたしは好きでもない人と結婚させられそ
うになり、それが嫌で逃げてきたのです」
「それはかわいそうに」
「相手はわたしよりずっと年上でおじいさんと言っていいくらい。だけどとてもお金持ち
なんです。ああ……」その嘆きを見たら大ガラスでなくても心打たれるほどだった。
「つまりお金が必要なのかな?」
「ええ、わたしの家柄はいいのですが弟の道楽がもとで破産しかけているのです」
「もし、わたしがあなたを助けると言ったら?」
「えっ?」美女はすがるような目で大ガラスを見上げた。
「わたしはこう見えても結構財産がある。あなたをもっときれいに飾る宝石もたくさん持
っている。もし……」大ガラスは目を細めた。「あなたがわたしと一緒にくるというのな
らそのすべてをあげよう」
「見ず知らずのお方よ。なぜあなたはわたしにそんなに親切にしてくれるのですか? あ
なたほどの立派で気高い人ならもっと似つかわしい人がいるでしょうに」
「いや、あなたほど美しい人は見たことがない。わたしは美しいものに目がないのだ。そ
れにちょうどあなたのような人をさがしていたんだ」なめるよう見つめる大ガラスに背筋
がぞっとしながらもエリックはどうにか喜び満面の顔を作った。
「うれしい。もっとそばにきて話をしません?」
 話がうますぎることに気がつかないほど鈍っていた大ガラスはほくそえんで近づいた。
 すかさずエリックはスカートの下から剣を引き抜き大ガラスの胸を貫いた。
 嫌らしい微笑を貼り付けたまま、大ガラスは胸に刺さった剣を見つめた。それから怪訝
な顔で微笑む美女の顔を見つめた。何が起こったか理解できないまま大ガラスは倒れた。
 手を出せずに遠くからはらはらしながら見ていた衛兵達が駆け寄ってきたとき、エリッ
クの前に横たわっているのは巨大なカラスの死骸だった。

「あの娘は大ガラスが死んだことを感じ取ったんだろう。もう隠れる必要はないのがわか
って村に戻ったんだよ」アルはお茶を飲み干した。「さて、僕は疲れたのでちょっと休ま
せてもらうよ」そう言うとさっさともとの自分の部屋に行った。

 マギーは大ガラスの娘と鍛冶屋の息子が出て行くときその場に居合わせていたのだが、
話せないので誰にも言わなかった。厨房で野菜を切っていると後ろでなにやらカタカタと
音がする。振り返って見ると二匹のカエルの置物が一生懸命動いている。マギーがじっと
見ているなか、もどかしげなふたりはやっとのことで向き合った。そしてこれまた苦労し
てキスをすると、身体から光があふれ出し人間になった。ふたりは見つめあい、お互いを
強く抱きしめ、笑いながら駆け出して行った。目を丸くして一部始終を見ていたマギーは
ふたりがいなくなるとため息をつき、かまどの火は大きく揺れた。

「やれやれ、相変わらずの男だね。坊やここをかたづけておいとくれ」エマも出て行った。
「マギー、君はアルが戻ってくるのを知っていたんだね。これからどうするの?」ティモ
シーは残ったマギーに話しかけた。
 マギーは考えごとをするように首を傾げながら出て行った。
「ますます人間らしくなってきたね。マギーは」
「もとからそうじゃった。お前さんが気がつかんかっただけさ」
 ティモシーが食器を洗っているとアルがぶらぶらやってきた。
「休んだんじゃなかったの?」
「ちょっと気になることがあって……」アルは声をひそめて言った。「マギーはどうやっ
たらもとに戻れるか知ってる?」
 アルに頭の上から話しかけられるのは変な感じだ。「知ってるよ。君とキスすればいい
ってエマが言ってた」こともなげに言った。
「何だって!」アルは恐怖に青ざめた。「よりにもよってキス! 僕はカエルが駄目なん
だ。たとえマギーでも……でも……」そう言うとふらふら消えた。
 
 その夜遅く、皆が寝静まった頃、画伯の前に立つ人の姿があった。
「やあ画伯、起きてくれないか? お休みのところを悪いんだがひとつお願いがあるんだ」
「まったく、こんな夜遅くに何の用だ?」画伯は不機嫌に言った。
「エマの姿を描いて欲しいんだ」その人間は言った。
「何だって今頃……」画伯に顔があったらきっと眉をひそめていただろう。「お前さんは
誰だ? 坊主ではないな」
「ああ、いまこうしていることはティモシーには内緒なんだ」
「何かわけがありそうだな。聞かせてもらえるのかね?」
「いまは駄目だ。だけど後ですべて話すよ」
 画伯はしばらく考えた。「よかろう。だがこのままでは具合が悪い。ちょっと手伝って
くれ」
 出来上がったのはエマの全身像、衣装は上品な貴婦人のよう。
 フィルはその絵を長い間見つめていたがやがて静かに言った。
「ありがとう。画伯」
 
 また変な夢を見たのだが思い出せずにいるティモシーが首を振りながら厨房に行くと、
アルが物憂げに片肘をつき目の前の皿の中身をつついていた。
「おはよ……」ティモシーはアルの顔を見て吹き出しそうになり慌てて口を押さえた。
「おかしいかい?」ふてくされたアルの顔には赤くくっきりと手形がついていた、水かき
のある。「ふん、僕は頑張ったんだ。見てよ」そう言うと赤いブツブツのある胸を出して
見せた。「それがこの結果だよ」
「どうして? マギーは嫌がってるの?」
「画伯が言うには僕には女心がわからないらしい」
「画伯はマギーと話せるの?」
「さあ、どうかな? あのじいさんはだてに年は取ってはいないし、なんでもできるのさ」
「それでどうするの?」
「どうしたらいいんだろう」アルは頭を抱えた。
 それでも今朝のスープはおいしかった。
 なんだか身体がむずむずしてきたので、アルのことはほっといて外に出た。途中、画伯
の前を通ると今日は真っ白でまだ何も描いていない。それにキャンバスの向きがいつもと
違う。
「画伯、動けるの?」
「できんことはないが年寄りにはちときつい。また手伝ってくれんかの? いつものほう
が落着くんじゃ」
 また? なんか勘違いしてるんだろうなと思いながらキャンバスの向きを横に変えた。
 中庭に出るとフィルが話しかけてきた。
『ティモシー、思ったより時間がないみたいなんだ。僕は決心した。これから君にやって
もらいたいことがある。とても、とても大事なことなんだ』
「どういう意味、時間がないって?」
『どうやら僕は君と同化し始めたらしい。つまりひとつの身体に君と僕のふたりがいて、
いままでは僕は君に寄生していた。だけどどうも僕の力が大きくなってきている。このま
までは僕の意識は君を飲み込んでしまうかも知れない。僕はどうやら君の身体を勝手に動
かせる。それはやってみた』
「どういうこと?」
『手を強く握ってみて』
 ティモシーは言われるままにこぶしを強く握りしめた。が、意思に反してひとりでに手
が開いてしまう。自分の手ではないようだ。なんてこと! いままでもフィルはティモシ
ーの身体を動かしてはいたが、それはティモシーが使わせてやっているというものだった。
そういえばさっき画伯が変なことを言っていた。「やめて!」ティモシーは腹がたってき
た。「勝手に僕の身体に入った上に、今度は乗っ取ろうというの!」
『ごめんよ、ティモシー。僕もこんなことはしたくない、だから急がなければ。君の意思
で手伝って欲しいんだよ』フィルが申しわけなさそうに言った。
「何をすればいいの?」ティモシーには選択の余地がない。
『指輪をさがして欲しいんだ。どこにあるのか、おおよその場所はわかってる』
 それはとんでもないところだった。指輪のある場所というのは屋敷のはずれにある池の
中。まだ泳ぐには早い時期なのに、寒さで震えながらティモシーは池にもぐる羽目になっ
た。
「フィル。本当にここなの? 池は広いんだ。とても見つかるとは思えない」歯がガチガ
チと音を立て、しゃべるのももどかしい。
『指輪の落ちた場所はわかっている。やっぱり動いたかなあ』
 唇が青ざめ身体が芯から凍りつき、もうこれ以上無理だとフィルに言おうとしたとき、
釣竿を抱えたアルがやってきた。
「君がそんなに泳ぎが好きだとは知らなかったよ」池に浸かったティモシーに話しかけた。
「アル、冗談じゃない。僕は好きでやってるんじゃないよ。しかたなくやっているんだ」
ティモシーは情けない声を出した。
「どうしたの?」さすがに鈍いアルでも何か妙な雰囲気を感じた。
「指輪をさがしているんだ。この池の中にあるらしい」声が震える。
「指輪ってどんなの?」アルは何かを考えていた。
『金の指輪だ』フィルが替わりに答えた。
 フィルは変な顔をしたがすぐにあっけらかんと言った。
「それならたぶん僕が持ってるようだ」

 ティモシーは毛布を頭からかぶり、かまどの火に身体を温めてもらいながら、あの道化
師の服にたくさんついているポケットのどれかに入っているはずと言って指輪を取りに行
ったアルを待った。
 なんでもその指輪は池の主と思えるくらい大きなナマズを釣り上げ、たまにはエマの代
わりにスープを作ろうと珍しく思いたち、魚をさばいたときにお腹の中から出てきたもの
で、アルは出てきた指輪をよく見もせず無造作にポケットのひとつに突っ込んでそのまま
忘れていたらしい。
 世の中はそんなもんだ。ティモシーは顔に張り付いた髪の毛を払いながら苦々しく思っ
た。
 アルがもってきた指輪は濃い山吹色に輝いていた。
『なんてことだい。君はまったく無頓着すぎる。これはとても大切なものなんだ。』アル
に噛みついたのはフィルだった。フィルは驚きと喜びと戸惑いといろんな感情が一緒くた
になって興奮していた。
「僕は何も知らなかったんだよ」アルはしかたないというように肩をすくめた。そしてテ
ィモシーをじっと見つめた。「ところで、君は誰だい?」
 慌てたのはティモシーだった。「何言ってるの。僕だよ。ティモシーだ」
「確かに君はティモシーだ。だが違う、もうひとりのほうだよ」
 先に口を開いたのはフィルだった。『よくわかったね』
「君が話すときは声が少し低くなる。それにすこし大人びてるしね。」
『抜けてるようでなかなか鋭いじゃないか。初めましてかな? 僕はフィル。君とはちょ
っとばかり縁がある』
「フィル? 前に会ったことがあったかな?」
『いや、ないが同じ血筋だ』
 アルはその美しい眉をひそめた。「わけを聞かせてもらえるんだろね? 見知らぬ親戚
君」
『ああ、だけどエマがいなくては駄目だ。どこにいるのか知ってるかい?』
「自分の部屋じゃないかな」
 ティモシーはエマの部屋を知らないがアルは知っていた。いつも不思議に思っていた。
館の中にエマの部屋はない。どこにいるのだろうと。ティモシーとフィルは言われた場所
に行ってみた。番ガエルのはりついた扉の裏側の石壁にエマの部屋の扉があった。聞いて
いなければ、生い茂ったツタに埋もれてわからなかっただろう。ノックをしたが返事はな
い。そっと開けてみると鍵はかかっておらず、確かに部屋があった。ありえないこと。そ
こは奥行きも何もないただの壁なのだから。中にエマはいなかった。窓のないその部屋は
さほど広くなく、簡素なベッドと机と小棚ぐらいしかない。ガラスのビンに入れられた光
の球が、部屋全体を明るく照らしている。フィルは中に入るとベッドの横にある棚に近づ
きそこに置いてある物をじっと見つめた。しなびた木の枝が小さなクッションの上に大切
に置いてある。まるでエマのお守りのようだ。
『ここにはいないようだね、ほかをさがそう。このビンと木の枝は持って行こう、必要に
なる。壊さないように気をつけてね』
 戻る途中でマギーに会った。『マギー、君もきてくれ。集会だよ』フィルがにっこり笑
った。ティモシーは何か大変なことが起こりそうな予感で不安になった。
 またもや画伯のいる広間に集まった。アルが桃の木の下にいるエマを見つけつれてきた。
 前と同じように、画伯がまるでそこに座っているかのように絵の前にテーブルが置かれ
たが、正面に座ったのはテイモシー、右にエマ、左にアルとマギーが座った。主役は画伯
の正面に座るらしい。テーブルの上に置かれた蜀台の新しいロウソクの青白い炎が部屋を
照らした。お茶もお菓子もなかったが誰も文句は言わない。運んできたビンとしなびた木
の枝は部屋の隅の小台に置かれた。エマはそのことに気がついていたが何も言わなかった。
光の球は部屋の隅に置かれたビンの中でいまはぼんやり光っている。日が沈み薄暗くなり
始める夕暮れ時の落ち着かない時間となっていた。
『これで皆、揃ったね』フィルが言った。もちろんティモシーが話しているのだが、いま
やそれがティモシーでないことを皆気づいていた。
「待って、かまどの火も呼んだほうがいいんじゃない。彼も知りたがるんじゃないかな?」
これを言ったのはティモシーだった。
「彼はここにいるよ」アルが言った。「ここにあるロウソクの炎はかまどの火をわけたも
のだからここでのことはかまどの火にもわかるんだ」それに答えるかのように炎が一瞬大
きくなった。誰も驚かないところを見ると知らなかったのはティモシーだけらしい。
 アルは続けた。「本当は他にも色々いるのだけどそれらは自分達の世界に閉じこもり興
味ないだろうし、そうそう扉の番ガエルがいたっけ……」
「うおっほん」画伯はしびれを切らした。「もういいだろう。さあ話してくれんかの、フ
ィルとやら」
 全員、これから何か重大なことが起こるのがわかっていた。広間は針が落ちてもその音
が聞こえそうなくらいしんとしている。外はすっかり暗くなりテーブルの上のロウソクが
皆の顔を照らしだし、後ろへ長い影を作った。
 フィルは緊張した皆の顔をゆっくり見まわし、最後にエマのところで止まった。エマの
表情からは何も読み取れない。
『これから話すことは僕とエマの間に起こったことなんだ』そう言うとポケットから指輪
を取り出し目の前に置いた。
 エマははっと息をのみ手を伸ばそうとした。
『エマ、まださわっちゃいけない。僕の話をすべて聞いてからそれを手に取るかどうか決
めて欲しい』そう言って指輪をポケットに戻すともう一度皆を見た。『残念ながらエマは
何も覚えてはいない。話はずいぶん昔にさかのぼる。僕が詳しく知っているのはそいつの
中にちょっとの間だがいたからなんだ……』


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