4 『羊の娘』

 羊の娘はやきもきしていた。つきあっている雄羊が取られようとしている。相手はよそ
からやってきた羊。若くてしなやかでとても美しい毛並みをしている。
 あの女がやってくるまでふたりはとてもうまくいっていた。娘は群れのなかでいちばん
きれいでつやつやと輝く毛をまとっていた。雄羊は誰よりもたくましい身体と立派な毛並
み。お似合いのふたりとみんなから認められていた。なのに……突然、あの雌羊が現れ男
をかっさらって行った。
 あの女は何か特別な草でも食べさせたに違いない。遠くでこれ見よがしにべたべたと寄
り添う二頭をはがゆい思いで娘は睨みつけていた。
 思いつめた娘は群れから離れひとり暮らす羊のおババを訪れた。山のふもとの斜面にご
ろごろ転がっている大きな岩のくぼみで花模様のふかふかした毛布の上に横たわって昼寝
をしているおババをみつけた。おババはとても長生きした世捨て羊で不思議な力を持って
いると言われている。おババの毛はぱさぱさとしてつやも何もないばかりかところどころ
剥げてしまいしわしわの地肌がのぞいている。筋張った身体はいかにもかたそうだしスー
プのだしにもなりそうもない。おババは群れから離れひとり気ままにのんびり暮らしてい
た。
 「メェー」娘は自分の訪問に気づいてもらおうと一声鳴いたが、おババは目を開けない。
もう一度もっと大きな声を出したが微動だにしない。死んでいるのだろうか? 娘は前足
でおババを軽く蹴った。
 「なんだい、おまえは! 挨拶のしかたも知らないのかい?」おババは不機嫌な目付き
で娘を睨みつけるとゆっくり身体を起こした。
 「ごめんなさい。ちゃんと声をかけたのよ。でも気がつかなかったみたいだからもしか
して……」
 「気づいていたさ。寝たふりをしてたらどっかにいってくれるんじゃないかと思ってね。
誰かと話をする気分じゃないんだよ」
 気難しい年寄りだとは聞いていたが本当にかわいげがない。もっと強く蹴ればよかった
という気持ちをぐっと抑えて機嫌を取るように言った。
 「お昼寝の邪魔をしたのは本当に悪かったわ。でもどうしてもおババに助けてもらいた
いの。おババは誰よりも賢くて物知りだっていう噂だし、気持ちのやさしい親切な羊だっ
て聞いたから」
 「ふふん。おまえさんは何を知りたいのかい?」おババはまんざらでもない声で尋ねた。
 「実はわたしの大切な雄羊を横から奪おうとする性悪な雌羊がいるの」羊の娘は怒りと
悲しみで頭から湯気を出したり目から涙を流したり表情豊かに事の顛末をおババに話した。
 「ふうん」おババは気のない声を出した。「おまえさんの彼は、いや元の彼はそのよそ
からきた雌羊を選んだんだろう? おまえさんよりそっちの彼女のほうが好きになっちま
ったんだ。どうしようもないだろう」
 「違うわ。騙されているの。あんなにきれいで澄んだ瞳をしていたのに、いまは濁って
ぼうっとしている。何か変な草をこっそり食べさせられたに違いないわ。わたしが誰かさ
えわからないように振舞うの」
 「捨てられたのを認めたくなくて言ってるんじゃないのかい?」
 羊の娘はきっと鋭い目付きでおババを睨んだ。
 「わたしはこう見えても結構もてるの。その気になればよりどりみどりよ」そこで娘の
威勢のよさが一気にしぼんだ。「でもあの彼でなくては嫌なの。あの雄羊が欲しいの」
 がっくり肩を落としてうなだれる娘を見ておババは憐れになってきた。「そうかい。そ
れではこのおババが一肌脱ぐとするかい」
 そして大喜びする娘に忠告した。「そう簡単にはいかないよ。おまえさんも試されるん
だ。どうなるかは……自分次第だね」
 羊の娘は雄羊にこっそり食べさせるようにと一口分の草を頭に乗せられた。「やっぱり
変な草なのね」娘はこっそりつぶやいた。何かしらこれは? おババははっきり教えてく
れなかった。それにわたしも試されるって言っていた。いいわ、受けてやろうじゃないの!
 あんなやつにわたしの雄羊を渡してなるものか。 
 おババにお礼を言うと、頭を揺らさないように気をつけて帰った。
 鼻息も荒く牧場に着くと、うまい具合に雄羊はひとりきりだった。あのくそいまいまし
い雌羊の姿は見えない。ああ、なんてかっこいいんだろう。かつてはわたしのものだった
のに。羊の娘はゆっくりと雄羊のそばに行くとその足元に草を落とした。
 雄羊はぼんやりした瞳で娘を見つめると「ありがとう。おいしそうだね」目の前の草を
ゆっくり食んだ。雄羊が食べ終わってもしばらくの間、娘はそばでじっと見つめていた。
雄羊は困ったような顔で礼儀正しく「ありがとう。おいしかったよ」と言った。
 娘は泣きたくなった。「メェ、わたしを覚えてないの?」
 雄羊の瞳の焦点が一点に定まろうかとしたそのとき、羊の娘は猛烈な勢いで駆けてきた
雌羊の頭突きを横腹にくらい飛ばされてしまった。
 「やめるんだ。この娘は僕に草をくれただけだ。何も悪いことはしちゃいない」そう言
って雄羊は雌羊の耳をやさしくかんで向こうへつれて行った。途中、雄羊はまるで不思議
なものを見るような顔付きで娘を振り返ったがそのまま行ってしまった。そのすぐあとに
雌羊がずる賢い顔で娘を見てほくそえんだ。
 星空の下、羊の娘は「メェー」力なくため息をついた。遠くの斜面に寄り添って眠る二
頭が見える。どこが間違ったのだろう? 彼はあの草を全部食べた。あの草さえ食べれば
雄羊はまともになると思っていた。
 明日、おババのところに行ってとっちめてやらなくちゃ。あのばあさんもきっとぼけち
ゃっているんだわ。まったく忌々しい。痛むわき腹をそっと舐め、いつしか娘は眠りにつ
いた。
 「メエェェェー!」けたたましく大きな叫び声で次の日の朝ははじまった。叫んだのは
あの忌々しい雌羊。腰を抜かした雌羊は大きく目を見開いて、横にいる雄羊を見つめてい
た。
 立派な体格と引き締まった筋肉を、素晴らしく豊かな毛で包んでいた雄羊の身体は別の
羊のように変わり果てていた。ぼさぼさとした毛はところどころ剥げ落ち下からのぞく地
肌は赤くまだらになっている。その上、げっそりとやつれはてまるで死に間際の年寄りの
ようだ。
 「あなたは誰なの! わたしのすてきな羊をどこにやったの?」雌羊はおののきながら
叫んだ。
 「僕がどうかしたのか?」その声と瞳だけは変わっていない。
 牧場は上へ下への大騒ぎになった。悪い病気が入り込んだのではないかと雄羊は隔離さ
れ、わけのわからない雄羊はすっかり不機嫌になり、黙り込んでしゃべらない。
 羊の娘は誰も近寄ろうとしない雄羊を遠めに眺めながら嘆いていた。なんということ!
 わたしが食べさせた草のせいだ。あのクソおババはとんでもないことをしてくれた。
 そうこうしているうちにあの邪な雌羊はいつのまにかいなくなってしまった。あいつは
いったい何ものだったのだろう?
 羊の娘は怒りのあまりすべての毛を逆立てて、おババのところに駆けて行ったが姿がな
い。今度は思いっきり蹴りあげてやると息巻いていたのに、怒りはもはや爆発寸前であっ
た。
 「メエェェェー! クソおババ! 顔を出しなさい! 卑怯者!」声が嗄れるまで叫び
続け、とうとうかすれ声しか出なくなった。「メェー……」最後に情けない声でひと鳴き
するとその場にしゃがみこみ思う存分泣いた。声は出なくても涙は十分出た。そして涙も
涸れ果てた。もう何も出ない。このところ何も食べていないので胃から出すものもない。

 空っぽになった身体を無理やり持ち上げ帰ろうとしたとき、大岩のうしろからおババが
姿を現した。
 燃え尽きたと思った身体にふたたび火がつき、歯をむき出しながら恐ろしい形相でおバ
バに詰め寄った。
 「なんてことをしてくれたの! わたしの大事なあの雄羊は死にかけてるわ」
 「まあ、まあ、落着きな。まだ生きとるんだろ」
 「いますぐもとに戻す草をちょうだい!」
 「もとに戻す草はない」おババは澄まして言った。
 「なんですって!」羊の娘は目の前が真っ暗になった。
 これ以上下げられないところまで肩を落としうなだれる娘を見ておババは目をすがめた。
 「おまえの雄羊は以前のようにかっこよくはないんだよ。もういいじゃないか。その気
になればよりどりみどりなんだろ? おまえさんほどの器量だったらすぐにほかのいい羊
が見つかるさ」
 羊の娘はきっとおババを睨みつけた。「わたしは彼がいいの! それにあんな姿になっ
たのはわたしのせいだし」声がだんだん小さくなる。「確かに彼の見てくれはとてもよか
った。だけど性格はもっとよかった。わたしはわがままで嫌な羊だけど彼といるときはと
てもいい羊になるの。大きくてあたたかい毛布に包まれたように気持ちよかった。なんで
こんなことになってしまったんだろう?」
 羊の娘は目を細めておババを見た。「あのいまいましい雌羊に変な草を渡したのはおバ
バでしょ?」
 「さあね」頭突きの姿勢を構える娘を牽制しながら慌てて続けた。「まあ、ちょっとし
た草を渡したかもしれない」
 「どんな草?」
 「捕らわれの草」
 「なんでそんなことしたの?」
 「わたしは見てのとおり毛が抜けて擦り剥けて哀れなもんだろ。横になると小石が刺さ
って痛いんだ。あのよそ者の娘はたまたますてきな毛布を持っていたんだよ。」
 羊の娘は大きく息を吐いて気を落着けた。「わたしが何も持ってこない気が利かない娘
だからあんな意地悪をしたの?」
 「そういうわけではないさ。ただ、ひとつ訊きたいことがある」おババは急に真面目な
顔になった。
 「なんなの?」
 「おまえはこれからどうするんだい?」
  「牧場に戻って彼のところに行く。わたしのことを思い出しているかもしれない。そし
てずっとそばにいる」
 「ほう」感心したように唸った。「ならば、彼が惨めな思いをしないようにおまえもあ
の草を食べるかい? そうすれば同じ姿になる」
 「それは嫌!」素早い答えだった。「わたしは雌よ。そんなの耐えられない。それに彼
はわたしみたいなすてきな羊がずっとそばにいれば惨めな思いなどしないわ」
 「まあ、そこまで言うならいいことを教えてやろう」抜けて間の開いた歯を見せてにん
まりと笑った。
 「何? もったいぶってないでさっさと言ったら。ほかにもっといい草でもあるの?」
 「おまえの雄羊はもとに戻るよ」
 「でもさっきもとに戻す草はないって言ったじゃない」
 「草はない。草はいらないんだよ。ときがたてばもとに戻る」
 羊の娘は何か言おうとしたが言葉にならない。ひと声「メェ……」と鳴き、目から大粒
の涙がひとつポロッとこぼれるのを感じた。まだ涙が残っていたんだ。羊の娘はにこっと
笑った。
 別れ間際に娘はおババに聞いてみた。「あの雌羊はどこに行ったか知ってる?」
 「さあね、だけどどこかで同じことを繰り返してるのは間違いないね。ところでわたし
に対する感謝の気持ちを物で表すってのは大歓迎だからね」
 「なんでそんなことしなくちゃいけないの! もとはといえば全部おババのせいじゃな
い」そう言い残すと急いで牧場に戻った。本当に人騒がせな羊だ。だけど憎めない。
 雄羊は羊の娘を思い出していた。だけどやましい気持ちからまともに顔を合わせられな
い。
 「こっちを向いてよ。わたしが誰か忘れてしまったの?」
 「いや、忘れちゃいないさ。いや、忘れていた。僕は何をやっていたんだ? なんだか
悪い夢のなかに閉じ込められていたような感じだ」
 「甘くて柔らかな悪夢ね、きっと」
 雄羊が赤面するのを見て羊の娘は心のなかでにんまり笑った。
 「君を傷つけてしまった。こんな姿になったのもその報いがきたんだ」
 羊の娘はこっそり舌を出しながら勘違いのままにしておいた。「かわいそうに、みんな
あの性悪な雌羊が悪いのよ。あいつはあなたのこの姿を見て消えてしまった。わたしは逃
げたりしない。心配しないで。ずっとずっとそばにいるからね」
 雄羊はいたく感激した。「もとの姿に戻ってみせる。こんなに素晴らしい君のつきあっ
ている雄羊が惨めな姿でなんかいられない」
 「ええ、あなたならきっとできるわ」そっとやさしく雄羊に寄り添った。


                            TOP  BACK  NEXT  HOME                        Chap.4
inserted by FC2 system