6 シーラカンスの夢


 そこは深い深い海の底だった。
 薄暗い水底を照らすのは、発光する海草やクラゲ。名前を知らないちいさな魚や微生物
がキラキラと漂っていた。夢のように幻想的な世界。
 そのなかでもいちばん美しいのは真珠色に輝くシーラカンス。しなやかで剣のような身
体についている大きな鱗一枚一枚がほのかな光を放っていた。
 シーラがそばに行くとシーラカンスは流れるようにゆっくりと近づいてきた。
 「おまえさんは誰だ?」
 「あなたの願いを叶えにきたの」
 普段だったら流れ星は願い事をすでに知っている。シーラは直接本人にそれを訊いたこ
とはなかった。シーラカンスは特別な存在なのだから敬意を払うように前もって言われて
いた。とても長く生きた貴重な魚でとても賢いのだという。
 「そうか。きのう食べたあの苔、あれはおかしな味がした。腐っていたのかと思ってい
たがあれがそうだったのか」
 「流れ星の願いを知っているの?」
 「ああ、聞いたことがある。自分がその幸運に恵まれるとは思っていなかったがね」
 「それじゃあ、話が早いわ。あなたの願いは何?」シーラはひとりだった。流れ星は用
事があると言ってどこかに行ってしまった。
 シーラカンスは永遠と思えるほど長い間考えた。どうも時間の流れが違うようだ。シー
ラはそばの岩に腰かけ海草や海老やちいさな生物がゆっくりと漂うのを見ていた。海の天
井を見上げてみる。遠過ぎて見えない。日の光はあまりにも遠い。キラキラ光る星に囲ま
れた夜の世界にいるよう。まるで地上と入れ替わったように。
 シーラはあたりを散歩して美しい景色を堪能しようとシーラカンスに変身した。そのと
き考え事に没頭していたはずのシーラカンスがいきなり巻きついて身体を絡ませようとし
た。
 仰天したシーラは変身を解いた。「何をするの!」思わずシーラカンスを平手打ちした。
しまった! あいつにおこられる。 
 シーラは深呼吸するとゆっくりと話しかけた。「ごめんなさい。あんまりびっくりした
ものだから」
 シーラカンスはぼうっとしているようだ。あまり強く叩き過ぎたのだろうか? かなり
の年寄りのはずだから身体がもろいのかもしれない。
 「大丈夫? 壊れちゃった?」おずおずとその顔をのぞみこむ。
 「ああ、大丈夫だ。おかげで大事なことを思い出したよ。あまりに長く生き過ぎた。近
頃では記憶がぽろぽろと脳みそからこぼれ落ちていく」シーラカンスはゆっくり頭を振る
と魚の顔でにっこり笑った。「わしの願いはわしのつれあいにもう一度会うことだ」

 この長生きのシーラカンスにはかつてつれあいがいた。活発なつれあいはたえず楽しみ
を探していた。ある日いつものように海上の世界へ散歩に出かけた。水圧に身体を慣らし
ながらゆっくりと上って行く。時間のかかる散歩なのだが、気の長いシーラカンスはのん
びりとつれあいが帰ってくるのを待っていた。つれあいはたくさんの土産話を持って帰っ
てきてくれる。その話を聞くのが大好きだった。シーラカンス自身は出不精と面倒くさが
りなので、いまいる場所から離れようとはしなかった。
 ところがある日、つれあいはいつものように楽しげに出かけとうとう戻らなかった。
 シーラカンスはしばらく待った。シーラカンスのしばらくはかなりの長い時間だ。捜し
にいこうと思ったのだが躊躇した。賑やかで活動的なつれあいはいつも自分を退屈な魚と
からかっていた。あなたみたいにひとところにいたら黴と苔が生えて、そのうち化石にな
ってしまうわよと。ただの軽口だと思っていた。静と動の二匹だからうまくいくのだとも
言っていた。いつもつれあいは出かけるときと同じくらいうれしそうに戻ってきていた。
 とうとう自分に飽きてしまったのだろうか? もっと楽しいことを、あるいは相手をみ
つけたのだろうか? シーラカンスはずっと考えた。シーラカンスは答えのみつからない
問題にがんじがらめになり、身も心も閉じ込められ身動き取れなくなくなってしまった。
そのうち脳みそは考えるのに疲れ活動を止めた。シーラカンスはつれあいが言っていたと
おり暗い海底で化石のようになった。

 「呆れた! どうして捜しに行かなかったの?」
 「怖かったんだよ。もしあいつがほかの誰かと……もっと気が利いたやつと一緒にいる
かもしれない思うと。それにわしはここから出たことがないんだ……それにそのうち遅く
なったといって笑いながら帰ってくるかもしれない。そして入れ違いになるかも……」
 「ふん! 全部言い訳だわ。面倒くさがっただけじゃない」シーラの出す鼻息が泡にな
って上って行く。
 「ああ、返す言葉もない」シーラカンスの目からちいさな泡が上って行く。泣いている
のだろうか?
 「わかった」シーラは表情を和らげた。「わたしはあなたの願いを叶えにきたの。あな
たのつれあいを捜してくるわ」孤独に打ちひしがれるシーラカンスを見ていると、そのつ
れあいがやむにやまれぬ事情があって戻れなくなったと願うしかなかった。
 さて、どうしたもんだろう? まずあいつを、流れ星を捜さなくてはいけない。ちょう
どいいタイミングで流れ星が姿を現した。ぼうっと光るバランスの悪いクラゲのようだ。
 「捜しものがみつかったよ」
 「わかってたの?」なんだか腹がたってきた。
 「ああ、でも見つけ出すのに時間がかかりそうなんでちょっと相手をしてもらってたん
だ」しれっと言う。「ここはすてきなところだろう?」
  
 シーラカンスのつれあいは博物館にいた。『絶滅した生き物』のコーナーで巨大な恐竜
やマンモス、毛むくじゃらの猿人たちに混じり、太古の海の世界を再現した一画で奇妙な
巻き貝やムカデのような生き物と一緒に剥製になって展示されていた。
 流れ星とシーラカンスの発する光に照らしだされたその姿はとても乾いていた。
 「まあ、なんてこと!」思わず叫ぶシーラをたしなめるように流れ星が見る。
 「おお、なんてことだ」一拍遅れてシーラの横に浮かぶシーラカンスがつぶやく。流れ
星は何も言わない。
 このとき、シーラカンスはまるで海のなかにいるように空中を泳いでいた。流れ星がシ
ーラカンスをそっと抱きかかえ「目を閉じて、息を止めて」そう言うとあたりの景色がす
っとぼやけ、遠のいて行った。と思うと今度は違う景色が近づいてきた。それがこの博物
館。
 気がつくとみんなで深夜のひとけのない博物館のなかにいた。博物館は不気味ではある
がそれほど怖くはない。身体の欠けた男と空中を泳ぐ魚と場違いなきれいな娘。シーラは
ひとり苦笑いした。このほうがよっぽど怖い。
 シーラカンスの目から水の球がぽろぽろとあふれでて空中を漂った。「こんなところに
いたのか。ちっとも知らなかった。かわいそうに」
 シーラは流れ星を部屋の隅の『失われた爬虫類の世界』に引っ張っていった。
 「本当にかわいそう。なんとかならないの? それにここは暗いわ。もっと明るくでき
ないの?」シーラは流れ星に囁いた。
 流れ星は小うるさそうな目でシーラを見た。「これ以上明るくしたら夜間の守衛に気づ
かれる。もしゆっくり見たいのなら昼間にくるんだな。それから彼はもう一度彼のつれあ
いに会いたいと言った。彼の願いは叶えた。そろそろ帰ろう」
 「本気で言ってるの?」
 「むろん、本気だ」何か問題でも? というように片眉をあげてシーラを見る。
 「彼は?」
 「元のところにつれて帰る」
 流れ星の胸のかたい部分に指を突きつけてその顔を睨みつけた。
 「あなたには心ってものはないの?」
 流れ星は自分の身体を見下ろして言った。「まだ心臓の部分はない」
 「だからそんなに意地悪でひねくれてて冷たいんだわ。きっと何よりも先にそれを捜さ
ないといけないんだわ」
 「こう言っちゃなんだけど、その部分があったときもないいまも僕の性格は変わらない。
それにそれを持っているはずの君もかなり性格がひねくれているし、意地が悪いと思うけ
ど」
 シーラは思わず言葉につまった。確かに自分は根性が悪い。だけど心は冷たくない。 
 「あなたに言われたくないわね。あなたに比べればわたしは活火山のように熱い心の持
ち主よ。ただ、性格が悪いだけで」
 「で、その燃えたぎるような心で何をしたいと言うんだ?」
 「あのふたりをどうにかして欲しい」シーラは乾燥したつれあいの前から離れないシー
ラカンスを見つめていった。
 流れ星はしばらく考えていた。表情が一切なくなり、ほかの世界に行っているように瞳
の焦点があってない。
 「わかった。あのふたりに話をしてもらおう」瞳に光が戻ってくる。
 驚くシーラを尻目に流れ星はさっさと太古の海の世界のところに行き、絡まりあわんば
かりにつれあいに寄り添うシーラカンスに言った。
 「彼女と話ができるようにしよう。君は辛い思いをするかもしれない。それでもいいか?」
 「もちろん。なんと言われてもかまわない。わしに嫌気がさしていたとわかってもいい。
もう一度話ができるのなら、この命だって差し出してやる」
 流れ星は指をパチンと鳴らした。
 ミイラのように乾いていた連れ合いの肌や鱗がふっくらと艶やかになり、柔らかな光を
帯びはじめた。彼女の鱗はほんのりと赤みがかかっており、彼より一回り大きなその姿は
魚といえどもふくよかな色気があった。ガラス玉のはめられた目に生気が戻ると支柱から
はずれゆっくりと泳ぎはじめた。
 口をあんぐりと開けて目を離せないでいるシーラの前で、つれあいはシーラカンスの周
りを円をかくように漂い、その中心に近づいて行く。そして肌も擦れ合わんばかりに寄っ
たとき、にっこり笑った。
 「どうなっているの?」シーラもその光景から目を離せなかった。
 「これは夢だ。みんなしてまた別の夢の世界に入ったんだ」
 「夢、別の夢?」
 「僕たちはいつも現実と夢の境界線ぎりぎりのところにいる。混じり合うところもある
し、危険なところもある」
 二匹のシーラカンスはゆっくりとしたダンスをするように寄り添いながら漂っている。
 「ああ、君に会いたかった。君がいなくなってとても寂しかった」
 「わたしもよ、あなた。しくじってしまったの。うっかりと油断して漁師の網にかかっ
てしまった。珍しい魚でよかったわ。でないと食べられてた」
 「わしは……もしかしたら、退屈なわしに愛想をつかしたんじゃないかと思って……」
 「いいえ。冗談では言ったけどあなたに退屈したことなどなかった。あなたほどの聞き
上手はいない。ここでは誰もわたしの話を聞いてくれないからとても楽しくないの。ここ
ではじっとしているだけ。だけどいろんな人がやってくる。それを見ているのも結構楽し
いのよ。いろいろと話してあげたいわ」
 「君はどんなところでも楽しめるんだね。少しは安心したよ。だけど君がいない世界は
寂しい」シーラカンスは床まで沈みそうになる。
 「わたしもよ。なんとかやっているけれど独りぼっちはつまらない」

 『美しい昆虫』の一画でトンボの羽をなでている流れ星に近づきながらシーラはちいさ
な咳をした。
「やあ、これを見てごらん。よくできている。薄くのばしたガラスだ。大変な技術だ」
「壊すまえに離れたほうがいいわよ。ねえ、彼女が夢だとしたら彼女の話も本当ではない
の?」
「いや、彼女の心は夢の世界で生き続けていた。彼のことがずっと気がかりだったんだろ
う。彼女の言葉は本物だ」
「すごい! どうしてわかるの?」
 「教えない」得意げに笑う。「そろそろいいだろう。ふたりともめでたく誤解を解いた
ころだ。帰るとしよう」
 太古の海のなかで二匹はふたりを待っていた。
 「お願いがあるんだ」シーラカンスが厳かに言う。
 流れ星は眉をあげた。「君の願いはもう叶えた」
 「もうひとつ追加してもらえないだろうか? 君に心があるなら」
 「あいにくいまの僕には心の部分がない」皮肉の混じった声で言う。
 シーラは存在する流れ星のひと房の髪を強く引っ張った。「なんて薄情なの! 聞いて
あげなさいよ」
 「痛いっ。なんて乱暴なんだ」
 「彼の願いは切実なものよ。とても大切なものなの。お肉をお腹いっぱい食べたいなん
ていうものとは比べものにならないくらい重要なの。なのにほうっておくの?」シーラは
ここで挑戦的な目を流れ星に向ける。「それともあなたにはできないの?」
 「僕を見損なってもらっては困る。ただ、余分な仕事をしたくないだけだ」
 思ったとおり流れ星はとても負けず嫌いのようだ。
 「ふうん。やっぱりできないんだ」

 次の朝早く、博物館のなかを見回った守衛は首を傾げた。
 守衛の大好きな美しい昆虫のトンボの羽全体に細かいひびが入っている。いたずらな子
供がさわったに違いない。だけどそのせいでトンボの羽はとても本物らしくなっている。
 そして『絶滅した生き物』の部屋でふたたび首を傾げた。太古の海の世界がおかしい。
シーラカンスは二匹いたっけ?


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